牢獄と仮宮殿(1)

 シャルルが牢屋の中で悪夢にうなされているころ、夕方にシャルルと剣を交えた例の黒マントの男はある人物の前で跪いていた。


 よほどその人物への畏怖の念が強いのだろう、シャルルに対して放った鷹のように鋭い眼光も、人を馬鹿にした尊大な態度も、見る影も無く消え失せており、粗相をした犬が罰を受けるのを恐れて、飼い主の前にしおらしく控えているようである。


 ここはフランス王国の宰相リシュリュー枢機卿の私邸、プチ・リュクサンブール。「もう一人のフランス国王」と揶揄される男が、毎日の政務を行なう場所である。


「それで、おめおめと逃げ帰って来たのかね。ロシュフォール伯爵」


 執務室に、リシュリューの、聞く人が背筋を凍らせるような冷徹な声が低く響く。黒マントの男、ロシュフォールはびくりと肩を振るわせた。


 壁にかけられたバロック様式の荘重なる絵画、ルネサンス期の彫刻、まばゆいばかりの華麗な調度品の数々。室内は輝かしい宝で溢れているが、それらの持ち主であるリシュリューは、常に何かの苦痛に耐えているような陰気で重苦しい顔をしている。彼の肉体で唯一怪しい輝きを放っているのが目だ。赤き僧衣を身に纏った枢機卿の炯々たる眼光に射すくめられ、戦慄を覚えないフランス人などこの世には二人しかいない。残念ながら、リシュリューの懐刀であるロシュフォールは、その二人のうちに含まれていなかった。


「まことに……申し訳なく」


 ロシュフォールはうめくように、おのれの不甲斐無さを侘びた。十四、五の少年に邪魔をされて、任務を果たせなかったのである。「万死に値します」と枢機卿の忠僕は恥じ入るばかりだった。


「その少年、シャルル・ド・バツ・カステルモールといったか」

「はい。近衛銃士隊に入るのだと言っておりました」

「君を退けるような凄腕なら、ぜひとも我が護衛隊の護衛士にしたいものだが」


 リシュリューは、国王直属の銃士隊と似たような枢機卿の護衛隊を組織していた。国外だけでなく、フランス国内に多くの敵を持つリシュリューにとって、我が身を守るために必要な部隊なのである。


 この護衛隊の護衛士が、近衛銃士隊の血の気の多い銃士たちと反目し合い、御法度である決闘をたびたび行なっているのがリシュリューの頭痛の種の一つなのではあるが。


「手の者を使い、必ずや少年を猊下のもとに連れて参ります」


 ロシュフォールはそう誓った。いまいましい田舎者のガスコン少年だが、実際に剣を交えたロシュフォールは彼の実力を認めてもいたのである。


「まあ、ガスコーニュの少年の件は任せよう。しかし、今夜、私がここに連れて来て欲しかったのはイングランド人の少女だったのだがな」


 不機嫌な枢機卿が眉間に皺を寄せると、ロシュフォールは再び平身低頭した。あの十歳前後のブロンドの女の子、シャルロット。彼女が何者なのかを知る人間は少ない。しかし、少女の父親はイングランド、フランス両国で知らぬ者は一人もいないだろう。


「バッキンガム公爵……」


 リシュリューは、苦虫を噛み潰したようにその名を呟いた。あの男が死んで二年が経つというのに、王妃の自覚無きスペイン女はいまだに過ぎ去りし恋に執着しているのだ。







 翌日の正午。シャルルは牢屋の劣悪な環境に早くも音を上げそうになっていた。

 相部屋の囚人が人間なら、まだ我慢もできる。しかし、シャルルのすぐ傍らでまったりと眠っているのは馬なのだ。


 ロシナンテはあまり賢い馬ではないとシャルルも知っていたが、昨晩からの傍若無人な我が馬の行動の数々にはむかむかさせられ続けた。


 まず、シャルルが朝目覚めると、冷たい床に寝ていた。身体中が痛い。ベッドにしていたはずの藁が消えているのである。ロシナンテを見ると、口の周りに藁が……。


 「こいつ、この馬野郎、よくも俺のベッドを」とシャルルがロシナンテを叱ろうとすると、何やら黄色の小馬はむしゃむしゃと咀嚼している。まだ藁を食べているのかと思ったが、ロシナンテの足もとを見たら、縁の欠けた空の皿が一枚。どうやら、牢番が運んで来た朝食をまたもや食べてしまったらしい。一人占めならぬ一頭占めだった。


 食事が済むと、ロシナンテは昨晩と同じように排泄を始めたのだが、今度はバケツを使わずに、ごく自然にシャルルが座っている真横の床に糞をたらしたのだ。ロシナンテはバケツをトイレと認識していたわけではなく、昨夜はたまたまあそこで用を足しただけなのだろう。


(腹は減るし、糞臭いし、ハエがたかってくるし……気がおかしくなりそうだ!)


 業腹のシャルルは、拳に血が滲むのもお構い無しに、牢屋の壁を幾十度も殴った。知能の低いロシナンテに当たっても仕方が無い。いま一番殴ってやりたい奴は、あの口八丁のジャックだ。あいつめ、あいつめ、あいつめ。何度壁に怒りをぶつけても、猛り狂うガスコンの血はまったく鎮まらないのであった。


「おい、止めろ! 壁が壊れちまう!」


 牢番が慌ててやって来て、シャルルを叱りつけた。昨日、シャルルが髭を褒め、コンスタンスへの伝言を頼もうとした牢番である。牢番の顔を見て、そういえばコンスタンスと約束した十時はとっくに過ぎているとシャルルは思った。


「ああ! コンスタンスに悪いことをした!」


 最後に一発、シャルルは力任せに壁を殴ると、固い床に後ろ向きに倒れた。ロシナンテの顔がすぐ目の前に来て、シャルルの頬をなめた。あまりにも飼い主が荒れているので、少しは慰めてやろうという気になったらしい。


「そのコンスタンスさんが、来ているぞ」

「は?」


 信じられない言葉を聞いて、シャルルはがばっと身を起こす。牢番はニッと笑った。


「釈放だ。お前さん、とんでもないお方と知り合いなんだな」

「…………?」

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