私をかたち作るもの(最終話)

これまで記してきたように、私にとって家族の思い出は暗い。

特に、祖母と曾祖母は、この家庭でなぜ笑っていられるのだろうという思いが強かった。


姉と出かける時、車中でよく思い出話をする。

どちらも覚えていること、どちらかしか覚えていないこと。

話しながら、ふと自分たちの今の年齢を意識し、年取ったねと互いに笑う。


「おばあちゃんたちって、何であんなに我慢できていたんだろうね」

私は、幼いころからずっと抱いていた想いを、姉に話した。

すると姉は、「我慢してるなんて思ったことないけど。近所の人毎日家に来てお茶飲んでたし、朝ドラ見たり、好きなお菓子食べたり、ずっと楽しそうだったじゃん」と、あっけらかんと言った。

加えて、「あんたは昔っから、何でも悲観的だからねー」と呆れ顔で笑った。



姉に、昔の写真を探しておくように頼まれた。

勤め先の保育園の催し(幼少期の写真を見て、だれ先生か当てるクイズ)に使うそうだ。


物置部屋、本棚の一番下の段に、すっかり表紙の色褪せたアルバムがあった。

1ページごとに、家族の笑顔があった。

誕生日、ひな祭り、動物園、公園。一緒に外出した記憶は全くないが、まだ腰の曲がっていない祖母と曾祖母も一緒に写っていた。



祖母の土下座姿、泣き声、暗い部屋、姉と母の激しい喧嘩、私が感じていたプレッシャー、小学校での4年に渡る長いいじめ。

そうした記憶に占拠され、私の思い出は黒く、ずっしりと重い。

アルバムを捲る度、濃い霧が晴れていくような気がした。

写真はどれも鮮やかで、軽やかな空気を纏っている。


私がずっと抱いていたのは、悲観的ゆえの、思い出だったのであろう。



近頃、母の中に私を、父の中に私を見つけることがある。

10年も離れて暮らしていたのに、驚くほど似ている。


家族の絆、というと何だか堅苦しく胡散臭いが、確かにその絆とやらを感じている。


私を作ってきたものは、家族からの愛であり、食事であり、写真好きの父が撮った大量の写真であり、断片的な思い出である。

私はそれらを、ねじ曲がった思い込みで、黒く塗りつぶしてしまっていた。しかしそれもまた、私をかたち作ってきた一部なのだ。


どれが欠けても、私は存在しえない。

自己否定と劣等感がつきまとう半生だった。

過去は変えられなくとも、過去を振り返る今の自分は変えられる。

黒く重たいヴェールを脱いで、過去の自分を抱きしめよう。


今はただ、この家族の一員であることが誇らしく、有難さに満ちている。


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私をかたち作るもの 由良木 加子 @yuragino

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