第十四話 はじめてのおつかい(ただし、おっさん)

 美味しいから食べる。でも、暗いから怖い。やっぱり、お腹が空いたから食べる。でも、一人だから怖い……やっぱり食べる。

 真っ暗。ジミオの将来についての話ではなく、光の有無についての説明である。並の人間には、周囲の物の色はおろか形すら識別することは不可能だろう。

 部屋の隅に潜んでいる小さな少女はそんな暗闇の中、手探りで棚に乗っているパンや果物を掻き集め、見境なしに口に含んでいる。食欲旺盛な年頃ではあるが、些か度が過ぎるような量を食べており、膨らみすぎた風船のようなお腹を破裂させてしまわないか心配だ。


「もぐもぐ……ぷはっ」


 満足したのか、彼女は腕の動きを止め、石造りの冷たい床に横たわった。


「……んん」


 あまり寝心地がよくなかったのか、不満そうな唸り声を出している。

 彼女はひょいと飛び起き、左右交互に手を伸ばしながら周辺を探った。

 そして、捲り上げたワンピースに含めるだけの食物を抱え込み、侵入するときに通った壁の抜け穴を目指して歩き出す。貴重な食料を落とさずに運ぶため、慎重に、躓かないように、一歩先の地面に障害物が落ちているか片足で確認しながらゆっくりと進む。


「あっ」


 存分に注意しながら歩いているつもりだったのだが、迂闊にも果物が一つ、重力に逆らえずに床へと落ちてしまった。


「……」


 彼女は迷う。理性に行動を委ねれば、ここは諦めて脱出を遂行するのだが、欲望が好物のりんごを拾えと耳元に囁いているのだ。


「……んっ」


 不安定な体勢を気合いで支えながら、右腕を美味しそうな香りを放つ果実へと、精一杯伸ばす。もう、二、三センチ頑張れば栄光が彼女の手に――ガラタンゴトン、どっすん。

 全部ぶちまけてしまったようだ。


「誰だ!」


 不味い、領主が彼女の存在に気づいてしまった。少女は慌てて起き上がり、どこぞのハリネズミ顔負けの速度で、空き箱の下に隠された抜け穴へとダッシュ……しかけて、りんごに躓いてしまった。


***


「あら、嫌だ。汚い女の子ね」


 手を顎に当てながら、太った女性は束縛された少女を見下ろしている。


「こいつが近頃、村の中を彷徨いている野良猫なのか?」


 と隣に立っているすらりとした男性が呟いた。


「おうよ、俺ん家の倉庫から盗み食いしていたところを見つけたんでい」

「品性が全く感じられない、汚い野良猫ね。さっさと始末しましょ」


 少女は逃げ出そうと必死にもがくが、両手両足はロープにきつく結ばれており、満足に身動きを取ることができない。捕らえられた後にどうなるか、幾度と仲間を失った幼い彼女はそれを知っている。命が惜しいのであれば、今すぐにもこの場から逃げなくてはならない。


 野暮用をこなすために出かける必要でもあるのか、三人の大人達は縛りつけた彼女を放ったまま、扉を施錠する音を残してどこかへ行ってしまった。

 彼女が縛られている部屋には何も置かれていなかった。恐らく、今は使用していない予備倉庫なのだろう。必死にもがいて移動しても、ロープを切るのに使える物を手に入れられなければ意味がない。それに、もし運良くロープからもがいて抜け出すことに成功しても、道具なしでは施錠された扉を開くことができない。脱出は不可能に思えた。

 しかし、この絶望的な状況において一つだけ幸福なことがあった。

 腹が空いていない点だ。おかげで頭がそれなりに回る。


 幼い彼女は森の中で暮らしている内に、自然と学んだ数々の柔軟な思考法を探りながら、周囲を念入りに観察した。

 窓が一つ。

 手に届かない位置ではあるが、それほど高い位置でもない。それに内側から鍵がかけられているので開錠することができる。大きさもそれなりで、彼女程度のサイズなら通り抜けることができそうだ。問題はどうやって自分の背丈の三倍ほどある高さの窓までたどりつくかだ。


 彼女は芋虫のように体をくねらせ、窓際の壁まで移動し、背に壁を当てて支えとして使いながら足をピンと伸ばして体を立たせた。そして、体をくるりと回して窓に向かい、両足をバネのように弾ませてジャンプすると、その勢いでなんとか窓枠に噛み付いた。

 あとは膝を上手く操りながらよじ登って、窓を蹴り開ければ――


「悪魔の子よ、裁きの時は来た!」


 勢い良く倉への扉を開いたのは、つるぴかな頭を光らせ立派なヒゲを生やした、いかにも村長らしき格好をした老人。

 老人の闖入に不意を打たれ、窓枠からぶら下がっていた少女は驚きのあまり顎を緩ませてしまい、床へ向かってフリーフォール。当然受け身の構えは間に合わず、少女は思いっきりお尻から床に墜落してしまった。


「神は告げた、罪人を捧げよ! さすれば我らは救われる! 今こそ生贄を捧げる時!」


 狂った雄叫びを上げる老人に続いて三人の男がぞろぞろと倉庫内へと立ち入り、痛そうに唇を噛み締めている少女を囲んだ。


「連れて行け!」


***


 そわそわそわそわそわそわそわそわそわ。

 見ての通り、紫色のドラゴンは緊張している。自ら低俗だとバカにしていた仕事とはいえ、入って間もない職場での初仕事。新しい体験というものにはいくつになっても、そう簡単に慣れはしない。


 ――ここで待っていればよいのか? 人間どもがいつになっても戻ってこないのだが……。


 モドゥルは雇い主に命じられた通り、森の果てにひっそりと存在する小さな村へと飛び、教えられた通り第一目撃者に「村を破滅から守りたいのならば、生け贄を我に納めよ」と言い放った。そうすれば村人が人間の子供を彼に捧げるという話なのだが、第一目撃者が怯えながら逃げていってから、かれこれ一時間は経っている。


 ――しかし、なぜ貧しい地域の子供などをこんな非効率的な方法で攫っているのであろうか? これが何の利益になるのか、皆目見当がつかぬ。


 人間の理解不能な価値観について熟考しても実りがなさそうなので、ドラゴンはその疑問を放棄した。考えずに、貰った作業を適当にこなす典型的な下っ端思考をした方が気が楽だ。

 特にすることもなく、ぼーっと意識を漂わせていたら、いつの間にか髭面の老人が少女を連れて目前に現れていた。


「悪魔の使いよ! 取引を申す! 我はこの少女を捧げる。対価として貴様はこの土地を永遠に去れ、破壊を繰り返す腐れ物よ!」


 取引とか言っている割には、大変無礼な頼み方をする人間である。

 その老けた人間の右足は、縄でぐるぐる巻きにされた、ひ弱そうな少女を踏んづけていた。


「汝の取引、受け入れたり」


 マニュアル通りのセリフを棒読みで吐きながら、ドラゴンは翼を傘のように大きく広げる。


「さらば……」


 羽ばたこうとしたところで、彼は致命的なことに気がついた。


 まだ、子供を受け取っていないのである。


 今から振り返り、子供を前足で掴んでから飛び立っては、彼のうっかりミスが人間にバレてしまう。態度が悪かろうが、そこの老人は一応彼のことを恐れているはずだ。

 あ、ごめん! と、てへぺろな言い訳をしてしまっては、間違いなく面目が潰れてしまう。かといって、無言で受け取ればお茶目で恥ずかしがり屋のどらごんちゃんと思われてしまうかもしれない。

 これら全てはモドゥルの過剰な心配だということは言うまでもないが、初仕事にこういう不安は誰に取っても付き物である。それは例えドラゴンであろうと例外ではない。

 考えに考えを重ね、モドゥルは最善の選択肢を編み出した。


 左翼、角度七十二。

 右翼、角度百八。

 タイミング、左翼 = 右翼 + 一・二秒。

 尻尾、七時の方角へ二・三ウィング。


 イニシエート。


 モドゥルは老人に背を向けたまま、右の翼を正確な方角へ的確な速度で振りかざし、続いて左の翼も振り下ろした。

 すると思いがけないタイミングで発生した強風に押され、老人はバランスを崩しそうになる。

 倒れまいと老人は必死に体制を整えるが、もう一つの翼を使った別方向からの不意打ちに対応できず、尻餅をついてしまった。

 その隙をドラゴンは容赦なく突いた。器用に尻尾は勢い良く伸縮させ、少女を拾い上げて自分の背中の上へと放り投げたのだ。しかも、そのほんの僅かな時の間に尻尾の棘を利用して、彼女の自由を奪っていた縄を華麗に切り裂いていた。勿論、少女に傷は一つたりとも与えていない。

 これらは、彼が学者時代に本を四冊同時に読むために身に付けたスキルである。一冊は前足。もう一冊は謝って破いてしまわないように気をつけながら、棘の付いた尻尾でページを捲り、最後の二冊は翼を適度な強さで振りかざしながら捲っていた。


「さらば……」


 念のため、もう一度セリフを呟いてからドラゴンは飛び立った。

 色々、ごたごたしてしまった気もするがなんとか目的を遂行。終わりよければ全て良しだ。


「きゃはははははは!」


 だが、やはりそう簡単には終わらせてくれないようだ。

 最初の内は怖がっていたのか、無言のまま大人しく背中にしがみついていた少女だったが、しばらく飛んでいるうちに徐々に慣れてきたらしく、現在は蜘蛛のようにモドゥルの上を這い回っている。


「よ、よせ、くすぐったくて仕方がない。貴様が単なる害虫や害鳥なら、宙返りして振り落とすのだが……」

「おーっ!」


 少女は瞳を輝かせ、遥か上空からの絶景を鳥瞰した。いつも自分を何倍も上の高さから見下ろしていた木々が、雑草よりも小さく見えるではないか。


「人間の子供よ、しっかり掴まらないと落ち――」

「ひゃっ」


 注意された直後、少女は足を滑らせてしまった。

 痒みの元凶が消えてモドゥルはすっきりとしたが、落下している少女を無視する訳にはいかない。直ちに急降下して少女の後を追い、前足が届く範囲まで近づくと彼女の胴回りをがっちりと掴んだ。


「我の話を聞かないから、そういう事になる」


 今のアクシデントで大分高度を下げてしまった。安全確保のため、雲に近い高さを保っていたのだが、ここまで降りてくると地上からの火薬武器による攻撃が届いてしまう。

 人間と竜の戦争は何年も前に終わったことだし昔ほどの危険は無いが、用心するに越したことはない。モドゥルは翼を大きく羽ばたかせて、上昇しようとしたその時――


 ずぼっ、と鈍い音が響き渡った。


 何事かとドラゴンは辺りを見回そうとするが、思うように首が動かない。さらに、翼までもが麻痺してしまったのか羽ばたかせることが出来ない。滑空の構えが崩れ、みるみる高度が落ちていく。


 ――私は撃たれたのか?


 モドゥルの視界は暗転した。

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