15 善生の餌付け
1 善生のうまい餌付け
「宇都宮にある国立栃木大学の附属病院に行こう。どんなお産にも対応してくれる筈だ。それに、田舎には、お袋もいる。良くしてくれるさ」
善生は、ほくほく顔で、立ち上がった。
「栃木に行くって、そう言う事なの? 夢咲家に行くと言う事……?」
葵は、ふくれっ面で、マッチ二本と線香花火の燃えかすを砂利で消した。
「そうだよ、俺と付き合って、嫁に来るつもりだったんだろう?」
「そうでしたっけ? 誰が誰のお嫁に?」
良い話なのに、きりきりしている。
「何を言っているのか、俺が訊きたい。付き合っていたんだろう。誰と誰がって、俺とみっちゃんだろ」
「ちょっと、気持ちが悪くなって来たわ……。本当よ」
「そうだよな、部屋に行こう」
アパートの二階へ促す。
ギッシギッシギッシギッシ……。
足取りが軽い善生。
グギイグギイグギイ……。
足取りの重い葵。
ちぐはぐのまま、部屋の前に来た。
「染谷さんがいるわ」
「二回咳き込めば出て行ってくれる」
「随分ね……。困った人だわ」
ウオッホ、ゴホッ。
「いやあ、ちょっと私用で、すまないですねえ」
外面の善生は気持ちが悪い。
葵は、時々そう思っていた。
「いやいや、ちょっとおいらも……」
財布と鍵だけ持って、出掛けてくれた。
「ごめんなさいね、具合が悪くて」
二人は、敷きっぱなしの布団に座った。
「ふうう……」
葵は、一息ついた。
「あのな、俺達は栃木から来たんだ、子供も栃木で産もう。何も東京大学様だけが偉いんじゃない」
むっ。
栃木恋しい説が出たと、葵は、負けまいとした。
夢咲の実家に行きたくないのだ。
「東京大学だの宇都宮の国立だのなんて、何でお産で行くのよ。もっと安い所へ行きましょう。お母さん達は、お産婆さんで善生さんを産んだのでしょう」
両者譲らず。
「みっちゃんは、下に兄弟がいないから分からないんだな。お産婆さんだってタダ働きじゃないよ。何かあったら死ぬ事もあんだぞ」
善生は、兄二人をこの時点で亡くしていた。
「死ぬのは……。そうね、病院なら安心かも知れないわね。でも今、引っ越さなくてもいいと思う」
渋い顔と悪阻の区別がつかない。
「そうか……。嫌か?」
何とか恋しいお袋のいる栃木へ行きたかった。
幾つになっても親子にしがみつく。
散々、ナポリタンより美味しい物を教えてくれていた。
お袋さんの蒸かし芋。
兄弟で取り合っても、それも美味しかった。
子供時代の美味しい物、蒸かし芋で餌付けされているのか。
「嫌なんじゃなくて、無理だと言いたいの。住まいはどうするの? お金もないし、体も本調子じゃないわ」
そうかと、善生は疲れて来た。
「ああ、お袋もそんな軟弱者じゃあ、迷惑だな。新しく家を探そう。引っ越しは、後でだな」
「なんですって。軟弱者じゃないでしょう」
ほれみたことかと、善生がもう内心思った所であった。
「もーう。せめて、退職金が貰える七月末迄、入籍は待って……!」
「入籍?」
「だって……。子供の為よ」
「入籍……! 万歳だ! け、結婚だよ!」
その後、善生がお袋と呟いたのが聞こえたが、葵もそこまで無粋ではない。
葵は、その後さっぱりする程吐いたら、悶々としていた事が吹っ飛んだ。
一人で考えていたのが、いけなかったのかも知れない。
2 ふつつか者
――一九七〇年、七月三〇日。
「ふつつか者ですが、これからも宜しくお願い致します」
葵の父、
「宜しくお願い致します」
葵の母、ハナも続いて深々と頭を下げた。
葵は、母に下げさせられた。
「ええん、だっぺ。な、お父さんもー、善生には、嫁の来手がないと言ってたっぺー」
善生の母、テツが、不随意な体の父、
「立派なご子息の所へは、何もできない葵では申し訳ないのですが……。十分に家訓に従う様に言いましたので、お願い致します」
夢咲善生と美濃部葵は籍を入れた。
二人の結婚記念日は、七月三十日となった。
広い大地から見たら、小さな二人の結婚であった。
そして、もう三人の家族となる日が迫って来ている。
「ささやかですが、あがってくんなせえ」
テツは機嫌が良かった。
「お気遣いいただきまして」
優一とハナは下戸なので、お酒には困った。
真岡もとっぷりと暮れた。
「はあ、これから、二人っきりの生活なのね」
何故か妊娠している葵が布団を支度した。
それも今夜から夢咲の人間だからかと、仕方なく思った。
「妊娠中は、あれは駄目なんだと、お袋に言われて来たよ」
「はあ? 最悪です。お
「気にすんな。良いお袋だから、甘えな」
しかし、そんな夢咲家からは、援助金はなかった。
葵は、予定通り、退職金を得たが、間もなく消える事となる。
入籍して、兎に角、慌ただしかったと言うのが一番の想い出であった……。
「るーるるるー。んんんんー」
善生は身軽な引っ越しを終えた。
「七つの子」等の童謡の作詞で知られる野口雨情の旧居や碑が、栃木県は宇都宮にある。
雨情は、「しゃぼん玉」の中で、夭逝した長女への気持ちを詩に託したと言われている。
葵はそんな事は知らないが、美味しいお土産が近くで売っていた事には満足であった。
たまに貰えたりする。
その近くに、新居を構えたのであった。
「勿論、二人きりではいられないよ」
そう言われたかと思うと、善生の弟も一緒だったりした。
六男、
「静かな方が良かった……」
葵は、寡黙な男性を望んでいたので、善生がやかましくて仕方がなかった。
今、思えば、妊娠中と言うのも要因であったのであろう。
善生は、宇都宮でも建設業の仕事を得ていて、今日は早く帰って来た。
「善生さん、大事な話って何?」
「ああ。染谷から、五千円送られて来たよ」
「ま、まあ……!」
疲れていたのか、葵は、思わず嬉し泣きした。
「私も大事な話があるの……」
「何?」
「病院って割りと近いのね。赤ちゃんは順調ですって。お医者様が」
「そ、それは良かった……!」
鼻の下が本当に伸びる。
おかしな人だと、何もかもに戸惑う葵であった。
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