14 異性交遊転換期

  1 線香花火


 夏とは言え、暮れても湿度が高い。

 気持ちの悪い葵にとっては、これ以上、待っていられない。


「帰るか……」


 とぼとぼと情けない気持ちで歩き出した。


「本当に妊娠している気がして来たわ」


 葵は未だ、お腹の子に認識が甘い。


 悪阻も甘く見ると母子共に健やかでいられないから、気を付けなければならないのに。


 最初に善生と待ち合わせた改札口に来た。

 元々特に何もない所だから、印象に残っているのは、善生の十時間も待ったなんて変な会話と、蜂みたいな色合いの格好だった。


「駅には便所が見当たらない……。さっさと帰りたいけど、次まで時間があるから、不安で堪らないわ」


「まあ、奥さん。青い顔をなさって、具合でも悪いのですか?」


 通り掛かりの腰も曲がったお婆さんに声を掛けられた。


「いえ、具合は……。少し気持ちが悪くて。夏だからですかね」


「奥さんね、もしもお子がおありでしたら、無理だけはいけないですよ」

「お子!」


「いえね、このお婆は、東京大空襲の時に走り回り過ぎて、流してしまったのですよ」

「ま、まあ! お婆さん……。そんな事が」

「奥さんにも兄弟がおありでしょう、お母さんもおありでしょう……。お父さんは復員なさったかい? そして、旦那さんも」


 とっと、ぽろ……。


 葵の瞳から、慌てた涙が走り出た。


「ええ……。ええ、アタシにも両親も兄弟もおります……。夫もいる筈です」

「がんばりなさいね」


 そう言って、自分の腰を叩いてお婆さんは去って行った。


「……そうね」


「がんばります。一人で産んでもいいわ。何がみっちゃんよ。自分の事、ワタシを俺と言い出した頃から信頼できないと思っていたのよ」


 拳を握った。


「もう、思い切って帰ろう。時間だわ」


「みっちゃん! どうしたんだい? ああ、会いたくなったの?」


 葵は、善生が来て、タイミングが最悪だと思った。


「馬鹿にしないでよ! 馬鹿にしないで! 誰が会いに来たんですか? 通り掛かっただけでしかないでしょう?」


 ぼろぼろぼろぼろ……。


 これでもかって言う位泣いている。


「どうしたの? 何かあった?」


 顔を覗き込んで来る。


「かああ! それが人の気持ちが分かっていないって言っているの!」


「今日は良い事があってさ、みっちゃんにお土産があるんだよ」

「そんな事聞いていません!」

「どうしたの? 泣いたりかりかりしたり……。ま、家に行こうか。通りじゃ落ち着かないでしょう」


 肩を抱いて歩き出した。


「……。お土産って何? アタシは、もっと凄いお土産があるのよ」


 ぐすぐす……。


 鼻もすすって泣き止まない。


「ああ、線香花火だよ。出先で貰ったんだ……」

「線香花火……」

「俺なんかにそんなの縁がないだろう?」

「贅沢だものね」

「ちょっとだけやってみよう。もう直ぐ夜だ」


 流石に葵も善生を見たと言う事が安心材料だったのか、感情に任せて泣くのを止めた。

 何かにつけて八つ当たりをする節がある。


 アパートに着いて直ぐに話した。


「食欲がないの。だから、今日は花火だけにするわ」

「そうですか。まあ、楽しみなさいよ」


 シュッ……。


 マッチで灯した。

 花火でなくとも美しい。


「この灯りを見ているだけで、胸が苦しいわ」

「そう?」


「話さなければならない事があるの」


「お土産よ」


  2 栃木に行こう


「アタシ……。あのね、アタシ……」

「お土産って何だい?  旅行に行っていたなんて知らなかった」


 長い三つ編みを肩に流しながら、善生に合わせてアパート近くの砂利道にしゃがんだ。


 ボウッ……。


 マッチの炎に直接こよりの様な線香花火を近づけた。

 線香花火の方から吸い寄せられる様に火が灯る。


 パチッ……。


「わ! そんなに近くて熱くないの?」

「これから、弾けるんだよ」


 パチッパチパチッ……。

 パチパチッパチパチッ……。


「はい、このパチパチしているのをみっちゃんが持って」


 善生がその線香花火から自分のに火を取ろうと新しいのを近付けたが、上手く行かなかった。


「じゃあ、仕切り直し。両手。みっちゃんの左手に新しいのを持って」


 仕方がないので、新しくマッチで左の線香花火にすうっと火を移した。


 パチッ……。


「これは、俺が持つ。貸してくんなさいまし」


 マッチの火を振って消し、砂利道に置いた。


「貸し借りの問題なの?」


 厳しめの目付きで、葵がぶすくれている。

 一旦、機嫌が直ったと思ったのに。

 善生は、葵に面倒臭くなった。

 けれども、折角捕まえた魚だ。

 今、取り逃がしたくない。


「ああ、じゃあ、渡してくれ。俺も持ちたい」


 パチパチ……。

 パチパチ……。


 二人の線香花火が並ぶ。

 未だ夫婦にもなっていない二人の線香花火が肩を寄せて並ぶ。


 パチッ……。

 ジュッ。


 暫くすると、椿の花のため息の様に、ポトリと落ちて消えた。


「思い出したわ、アタシ」

「何かあるの? 話があるとか」


 急な別れ話かと、善生は思った。

 この頃は仕事が景気やっほいと入って来て、要は葵とデートをしていなかった。

 何の話かひやひやしていた。


「お土産よ。お土産話でもあるわ」


 詰まらなそうな葵は、気持ち悪さもあって、俯いていた。


「赤ちゃんができたの」


「……! あ、赤ちゃん!」


 大袈裟に取り乱すお手本が見られた。


「何、何? お、俺たちのか!」


 葵の両肩をぐりっとつかんだ。


「ちょっと、声が大きいわ。後、馬鹿力止めて、肩が痛い」


 葵は、又、アパートの人に聞こえると恥じらった。


「だから、俺たちの子ができたのかって」


 肩から手を離さなかった。

 一生離さない勢いだった。 


「アタシは、他の人とお付き合いしていませんよ。何か、疲れたの。一人で育てる覚悟はできています。お構い無く」


「二人の子供ができたのだから……。一人で育てるとか言うなよ」


 善生には、善生の思いがあった。


「線香花火のこよりの様な姿を見てごらん。寄り添わなければ、中の火薬が出てしまうのだよ。さっき見たろう?」


「煙がきつくって、今は、吐き気を我慢する事しか考えていないわ」


 軽くむせった。


「ああ、失敗したな。気分が悪いのか。お袋に聞いたけど、お産は一人一人違うって。その前に、悪阻か!」


「お金が無くて、病院にも行けていないの」

「体は丈夫な方か?」


 小柄なので、聞いた。

 お産に厳しい事もあるかも知れない。


「今は普通だけど」

「そうだ、病院か……。引っ越そう」


「は?」


「栃木に行こう」

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