第四章 出生の涙〔昭和〕

13 足入れ結婚

  1 足入れ


 ――一九七〇年、六月。


「梅雨なだけあって、雨音がしっとりとしているわ」


 葵は首を左右に振った。


「みっちゃん。そんな、風流な事を考えられるんだ。俺にはできないな」


 自分の事をワタシから俺と呼ぶ様になった善生は、待てないとそのまま首筋に指を這わせた。


「くすぐったいわ……」


 葵は善生と関係を持っていた。

 この頃は、会う度に求められる様になっていた。


「今日は、遅くなっても平気?」

「そればかり訊くのね。合わせます。いえ、遅くなりたいわ」 


 善生は、文鳥の連れ込みホテルだと、ちっちゃんのいる部屋へ招いたりもした。


「このアパート、狭いですよね。何かね……」


 どこもそこも軋みそうな木造アパートの天井を見回した。


「聞かせてやればいいよ」

「……何を。……そんな事言って」


「ストッキングって高いの?」


 善生が、まじまじと見る。


「それなりに無理して買っているわ。仕事で穿くから」


 電話交換手か……。

 もう疲れて来たな。

 盗聴しろとか、握らされるし。


「破ったらいけないかな……? 後で返すから……」


 善生は、どうしたいんだ?

 破りたい?

 返されても困るが、持っていられてもいやらしいな。


「そんな……。や、なんで?」

「興奮しますから」


「……」

「……」


「これは、買い取って貰うなら良いわよ」

「買うよ」


 善生は、本気になった。


「や、やめて。変な事しないで。今のは嘘だから」


 善生、すかさず。


「良いじゃあないですか」


「……っつ」


 今日は、安全日とは言えないんだけど。

 何だか、むらむらとするわ。

 『足入れ結婚』って事もあるし……。


「まあ、いいか……」

「まあ、いいの? ストッキングが?」

「どうせ、だし。いいと思うわ。『足入れ結婚』なんでしょう?」

「ストッキングは、駄目か? 俺は、みっちゃんの事を愛していますよ」

「愛とか恋とかそんなんじゃなくて」


「遠慮しないよ」


 ビッビビッビー!


 その裂け目からは白い柔肌がつややかにほほ笑んだ。

 善生は、初めての興奮を覚えた。

 裂け目から、次第に炎に焼かれに行って貰う。


 ――あ、あああああ……。

 ――可愛いよ……。


 今は、どんなお面をつけていたって構わない。

 女でこの脚なら、一緒に地獄へ行ってもいい。


 ――はああ……。

 ――はあ、はあ、嫌……。


 女の嫌は、遠慮は要らないとのポーズだと聞いた。

 それって本音だろうな。


 ――良いよ、みっちゃん……。

 ――あ、お願い……。


 『足入れ結婚』とは、『足入れ婚』の事を櫻の両親が使った言葉だ。

 何故結婚したのかを問えば、この言葉で片付けたものだ。

 何ていやらしい言葉だろう。

 要は、相性を確かめるのか、卵子と精子の出会いを認めてからでないと、結婚ができないのか。

 子供を産まなければ、石女ウマズメと呼ばれるのか。


 この日、櫻が命をいただいた事を二人は知らなかった。

 櫻も、勿論、その日の事は知らない。


 軽率な行動で、人間ってできてしまうのが、寂しくもあり、哀しくもあり、切ない。

 そう思うのが櫻だけで、周囲とは価値観が異なると言うのも後に厳しい自己肯定ができなくなる一つの要因となった。


 この小石の出来事が、櫻を躓かせた……。


  2 一人つわり


 ――一九七〇年、七月。


 じとじとした梅雨も去り、風はさっぱりとして、日差しが強くなり始めた。

 葵は、鶴見駅から文京中央社に向かうが、帽子も日傘もないので、小花を刺繍したハンカチで、汗を押さえながら木陰を探した。

 木陰に黄緑のワンピースが似合った。

 長い髪は、三つ編みにして出社した。


「暑いわねえ」

「本当、暑いわあ」


 あちらこちらから、同じ声が聞こえる。


「この頃、食べる物の好みが変わっちゃって。さっぱりとした物しか入らないわ」


 葵は、ため息とともに、かったるく、電話交換手の仕事に入る支度をしていた。


「そうなの? 美濃部さん、具合が悪いのかしら?」


 同僚の生田いくたさんに、気遣って貰った。


「具合? そんなに悪い訳じゃないわよ。うん、でも、胸焼けがするから、食べ物が悪いのかと思って」


 葵は、思い当たる節がそれしかなかった。


「胸焼けねえ。夏だしね。この際、夏痩せでもしてくれないかしら?」

「あら、生田さんも? でも、特別痩せた訳じゃないのよね。もっと、きゅっと痩せたいわ」


 そんな呑気な事を言っていた。


 自宅に帰ると、熱のせいではない気持ち悪さが込み上げて来た。

 本能で、便所へ駆け込む。


 う、うげ、うげえ……。


 葵は、間もなく悪阻つわりに襲われた。

 悪阻にしては軽い方であったが、体調の悪くない葵には、涙が出て仕方がなかった。


「まさか、これが悪阻とかではないわよね」


 う、うげえ……。


「天婦羅とか、良いもの食べたりしていないし。ナポリタンも食べていないし」


「けれども、月のものが来なかったので、おかしいとは……。まさかね」


 幸か不幸か、葵は、善生としか交際をしていなかったので、相手は、分かっていた。


「これから、話しに行ってみよう」


 善生の家に国電を使って向かった。


 仕事があるので、帰りが遅くなると思った。

 でも、話さなければどうにもならない。


 ギイ、ギイ、ギイ……。


 木造二階建ての二階へと上がる。

 二度程のため息の後、突き当たりの部屋をノックする。

 すると、ちっちゃんの飼い主が戸を開けてくれた。


「こんばんは」

「あら、染谷さん……」


 気まずいと思いながら、挨拶位はした。


「こんばんは……」


 この分だと、善生がいないと思った葵は、部屋から離れる事にした。

 第一、中は蒸し暑い。


 日が暮れるのが、遅くなった外は未だ明るい。


 ジリジリジリ……。


「お仕事かしらね。遅いわね……」


 足も疲れてしゃがみたかった。

 それよりも吐き気がして来た。

 これは、来る!

 そう思って、再び善生のアパートの共用トイレにうさぎの様に駆け込んだ。


 えろ、ええええ……。


 げ、げええ……。


「あー、気持ち悪い!」


 思わず、大きな声を出してしまった。


「誰のせいよ! 誰のせいよ! 誰のせいよ!」


 相当苛々している。

 女の苛々は面倒臭い。

 このアパートは男性ばかりであったから、とんでもなかった。

 夜の度に聞かされて、腹に据えかねていた。


「うるさいぞ!」

「便所掃除しろ、ババア!」

「できちゃいましたか?」


「まあ! 何て酷い!」


 げえ、げええ……。


 そう言いながら、善生を心の奥で待っていた。

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