07 遠き小山の窓

  1 小山の窓


 ――一九七〇年、元旦。


 二人で、静かに朝を迎えた。

 炬燵でうたた寝をしてしまった様だ。

 はたと善生が起きた。

 早起きは得意であり、目覚めも良かった。


「おっと。葵さんも炬燵で寝てしまいましたか」


 葵は、すっかり、大きく口を開けて、恥ずかしい寝顔を見せている。

 かなり自由な格好で、両手を万歳の形にしている。

 どんな夢を見ているのか……。


 善生は、ふと、この狭い我が家を振り返った。

 この部屋は、文鳥のちっちゃんの飼い主そめやと二人で暮らしている。

 二人分の布団を敷けば、もう何も物の置き場もない。

 炬燵も毎回しまう。

 今日は出しっぱなしにしてしまったな。

 布団の出番がなかった。


 先程の熱い口づけをもうもうと思い出した。


「な、何を我慢しているんだろう。据え膳じゃないか」


 自分の大きな唇に手で触れて、葵が小さな口を開けて寝ているのに鼓動が速くなった。


「こんなに唇の大きさが違うのにどうやったんだろう? 嫌われていないだろうか? 神様……」


 部屋の薄いガラスの入った窓を開けた。 


「限りなく広がる空はないのです……」


 ガタガタ……。


「この限られた窓から、真岡の山を思い出すしかないのです」


 何かを払拭すべく冬の風に当たった。


「金の卵は、働くしかないのです。親父に口減らしされた上、催促の赤紙が来るのだから。十五の春から、息子は息子を止めても親父からは頭が上がらないんだよ」


 そして、真岡のある方をへと、窓越しに、暫く外を眺めていた。

 かじかむ手をかざしながら、湯を沸かした。


「あ……。何か仰ったの? 窓を開けてどうかなさった?」


 シュー……。


「丁度、お湯が沸きましたよ。……少し、望郷の念にかられましてね」


 三日目のお茶が、四日目になったのも、又、良しと自ずから口をつけた。


「東京には山が見えないでしょう……」


 窓に向かって見えない山を見ようとした。


「もう、空が白む頃なのですね……。それなのに、うっすらとも山の肌が見えない」


 葵も故郷は同じである。

 見て来た山も同じな筈だ。


「よく見てください。うちの窓は一等なのですよ」

「何がです?」


「空が四角いのです」

「まあ! 本当」


 ぱちっと手を合わせた。


「空が四角いなんて、どこかで聞いたような話ですが、こんな部屋にいたら、そんな事しか考えられない。日々、外で働いた方が体に良いんじゃないかと思う訳です」

「空が……。天が四角の……。絵?」


 綺麗な話では終わらなそうである。


「田舎では、毎日山を見て、草を刈っては背負って、汗を流して、家の手伝いをしたものです」

「そうなんですか。同じ郷里でも、美濃部は田畑がありませんでしたから、働き方が違ったのですね。もう、ここは東京ですものね」


「東京なんです。みっちゃん……!」


「私は、一日に一円玉を見つけると、それを貯金しているのですよ。ここに」


 丸っこいガラス瓶をラジオの横からひょいと手にした。


「貯め甲斐がありそうですね」


「初詣に行きませんか? この貯金が十分に役に立ちますよ」


 瓶をカシャカシャと言わせる。


「ちっちゃんは、お留守番ですね」


 うふふと笑った。


 善生は、又、いたずらに口を鳴らして、愛想よくした。


 神様とお話しすべく、部屋を後にした。


 何の話かはお互いに内緒の様だ。


  2 いつかの願い事


 カチカチ……。


 安い鍵で戸締まりをした。

 大切な物は、善生にはラジオ、染谷そめやには、ちっちゃんである。


 善生が先に歩み始めた。


 葵が来た時よりも冬の出で立ちで、ふっくらとした白いマフラーが暖かそうである。


「マフラー、お似合いですよ」

「ありがとうございます。自分にしか編まない手編みなのですよ」


 マフラーを巻き直した。


「はは……。今度お願いしますよ、みっちゃん」

「編むって事ですか?」

「お金がなくて、情けないですね」


 ちっちゃんの飼い主が上着を貸してくれる事はあった。

 今はいないので仕方がない。

 黙って借りれば泥棒で、借りなければ寒い。

 そろそろ、作業服以外にも一つ欲しい。

 春迄待てば暖かくなるからと繰り返して来たので、いざと言う時に困るものだ。


「どうぞ。……白ですから、気にならないと思いますが」


 今巻いていたマフラーをほどいて善生に渡した。


「……!」

「みっちゃんが、寒くなるのでは……? いけませんよ。ワタシは体が丈夫ですから」


 葵はマフラーの件は遮った。


「どこの神社に行かれるのですか?」

「間もなく着きますよ」


 善生は考え込んでいた。


「本当はですね、去年の映画、寅さんですよ、寅さん。一緒に観に行けませんでしたがね」

「ええ……」

「柴又帝釈天ですよ! ここからはそんなに遠くないし、いつか、一緒に行きたいと思っています」


 嬉々としていた。


「いつかって……。いつかって、ずっと先ですか?」

「それは、もう自分達で決めたいのですが?」

「そ……。そうですね。子供じゃないですしね」

「今年、初めての葵さんと行く神社はここですよ」


 町中に鳥居を見つけた。

 鳥居をくぐる際、善生に続き葵も会釈をして参道を行った。

 賑わいは、初詣だからか。

 特別な日の特別な神社になっていた。


 手水で手と口を清めた。

 小さく礼をし、お賽銭を放った。


 カッコッ……。


「一生縁があります様にとの一円です。みっちゃんは? 一円なら持って来ましたよ」


「折角貯金なさっているのだから、ご自身で使われた方が良いと思いますよ」


 葵は、カシャカシャとしか鳴らなかった乏しい貯金を思い出した。

 一円も借りる訳にはいかない。


「夢咲さんが見ていない時に入れちゃった。あは」

「え? どんな縁起を担ぎましたか?」

「これから、お願いします。二礼二拍手一礼、致しましょう」

「そうしますか」


『どうか、最初は男の子を授かります様に……』


 善生は、冗句ばかり言う自称ひょうきん者であったが、ここは、しっかりとお願いしていた。


『良縁に恵まれます様に……』


 葵はまだ決めかねていた。

 善生は変わり者であった為、引いてしまったのであろうか……。


 二人の深い関係は、まだ、先となる……。

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