羊飼いのエイベル(2)
モコモコの毛を思う存分堪能していると、羊を挟んで反対側にこいつはしゃがみ込んだ。羊に腕をのせ、頬杖をつきながら首を傾げる。
「ていうか、レインって本当に羊を知らなかったんだ。貴族かなんかなの?」
「違う。ただ、街から出たことがなかっただけだ」
「ふーん、街暮らしじゃあ、当然ちゃ当然か」
貴族だなんて、そんな上等なものじゃない。
オレは道端に転がってるコドモだ。
なんだか、少しだけ言葉が尖ってしまった気がする。
けれど、こいつはそれを気にもせず、呑気に羊に埋もれるオレを眺めている。何が面白いのか分からないが、楽しそうだった。
魔女もそうだが、オレを見ていて何が楽しいんだろう?
「なー、レイン。僕、レインのことさ、レインって呼んでもいい?」
名前で呼んでもいいか?なんて初めて聞かれた。長いこと使っていなかった名前だから変な感じがするが、別にいいか、と思う。
「……好きに呼べばいい」
「じゃあ、レインって呼ぶね。レインも僕のことエイベルって呼んでくれていいから」
「なんで?なんでオレがお前を名前で呼ぶんだ?」
「ええー!」
名前というものに、あまり重要性を感じたことは無かった。オレはいつも、
だから、オレも他のコドモの名前なんてほとんど呼んだこともない。
けれど、名前を呼ぶという行為は、こいつにとってはなにか特別な意味を持つらしい。
「だって、僕とレインはもう友達でしょ?」
「ともだち?」
「……もしかして、友達も知らないの?」
素直に頷けば、こいつはまたパカッと口を開けて驚いた。
癖なのか?
口を閉ざして無言で見上げていると、それを肯定と受け取ったようだ。実際、オレはトモダチ知らない。
そっぽを向き、羊の豊かな毛の中に潜り込むように頬を押し付ける。どこかに、隠れてしまいたい、逃げ出したい気分になった。
そんなオレの気持ちに気がつくこともなく、こいつは、突然、オレが羊に回している右手を取った。そして、それに自分の左手を合わせた。そいつの左手と、オレの右手が重なり合い、指が絡む。
何をし始めたのかよく分からない。
何がしたいのか問う前に、そいつは繋いだ手を見つめて語り出した。
「友達っていうのは、一緒に遊んで、一緒に笑って、一緒にはしゃいで。まあ、たまに喧嘩もするけれど、仲良くする人のことなんだけど」
「あそぶ?」
「本当に、いろいろ知らないんだね。レインってもしかして妖精とかなの?」
馬鹿にした様子はなかった。ただ、そいつの態度で、オレはこいつが当然知っていると思っていることの、ほとんどを知らないということを理解した。
妖精も、何のことだかわからない。
気がつけば唇を噛み締めていた。
オレは何も知らない。わからない。それが、嫌だった。
そうか、オレは今、悔しいんだ。
「僕は、レインとそういう関係になりたいの。レイン、僕と友達にならない?」
遊んで、笑って、はしゃいで、喧嘩する、そんな存在になりたいという。
オレはそれが分からない。
喧嘩は生命を守るためにするものだ。そうじゃなきゃ、
トモダチは、一体何のために喧嘩をするのか。
たまに、コドモが一所に固まって暮らしていたりしたが、あれはトモダチとは違う気がする。
「ね?レイン、どうかな?」
「オレは、トモダチとか知らねえし、欲しいと思ったこともない」
それが何も知らないことを見せつけられたオレの、正直な気持ちだ。
唐突にあの懐かしい少年を、オレを名前のないコドモからレインにしたあいつを思い出した。
温かなものをたくさんくれたような気がするあいつは、多分トモダチじゃない。
「そっか……」
「でも、オレっ!」
しょんぼりと項垂れたその顔に、頭の中で絡まっていた言葉がつい飛び出した。
温かなものをくれたあいつは、ともだちなんてものじゃなくて、オレの中でもっとすごく絶対的な何かだ。
こいつとは全然違う。
けれど、繋いだ手が温かい。
話しているだけで、少し面白い。
こいつが知っていて、オレが知らないことがあるのが悔しい。
それを与えてくれるのがトモダチだというのなら。
「オレは、お前と……エイベルと、ともだち、になりたい、と思う」
それが素直な本心だった。
トモダチというものが何なのかはわからない。エイベルと、本当にトモダチになれるのかもわからない。
それでも、手を伸ばしてくれたのなら、オレはその手を取ってみたかった。
初めて取ったあの手は、オレに名を与えてくれた。次に取った魔女の手は、オレに居場所を与え、世界を教えてくれるという。
エイベルは三番目だ。
トモダチというもので、何を得るのかは分からないけれど、悪いものではない気がした。
オレはその直感を信じる。
繋いだ手をしっかり握りしめると、エイベルの空色の瞳がきらりと煌めいた。
「ほんと!やった!」
えへへと笑う、エイベルにドキリとした。じんわりと胸が温かくなる感覚は、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
ンメェエ
「おっと」
「うあっ」
オレたちの間にいた羊が
もしかして、オレたちの話が終わるまで待っていたのだろうか?
羊、なんて良い奴なんだ。暖かいし、身体に噛みつかないし(まあ服は噛んでたけど)、話が終わるまで待ってるなんて、恐ろしく賢い。
「あーーーっ!!」
「うわっ、今度はなんだよ」
悲鳴をあげたエイベルに、思わず身体がびくりと反応した。さっきも、同じような大声に驚いた気がする。
エイベルは、突然声を上げるから心臓に悪い。
オレの手を握り締めたまま、エイベルはわたわたと右往左往している。
「どうしたんだ?」
「羊!」
エイベルが指した方向では羊が草を食んでいる。のんびりと口を動かすものがいれば、ちょこちょこと移動している者もいる。平和な風景で、悲鳴を上げるようなことは何も無い。
「一匹足りないんだ!俺ちょっと探してくるから、レインは見張ってて!」
「見張る!?どうやって!」
「大丈夫!大丈夫!」
なにが大丈夫なんだ!なにが!!
伸ばした手は、スカッと空を切った。エイベルはぴょんぴょん跳ね踊るように走り出す。
「頼んだよ!」
あっという間に遠ざかる背中を、呆然と見送るしかなかった。
メエェェェエ
ぽくぽくと
「あいつ、いつもあんな感じなのか?」
メェエ
返事をした。
羊が、返事をした!
人の言葉を理解しているのかもしれない。羊は、なんて賢い生き物なんだろう。
オレはこいつの鳴き声がどういう意味か全く理解できないのに、こいつにはオレが言っていることがわかるのだ。
この話を戻ってきたエイベルにしたら変な顔をされた。もしかしたら、エイベルは羊の賢さに気がついていなかったのかもしれない。
エイベルの知らないことを知っているのが嬉しかった。
エイベルはいろいろなことを知っていた。山の中腹にあるというパラディソスでの暮らしや、パラディソスよりも下にある街アディスのこと。
どの季節に羊たちをどこに連れていくのか。羊たちを見ているあいだの暇の潰し方。
腹が空けば、自分の食事を分け与えてくれた。
固いパンと、干したぶどうにクルミ。
ぶどうの甘みに目を見張れば、ただでさえ二人で分けていて少ないにも関わらず、自分の分のぶどうを全部分けてくれた。
日が傾いて来ると、エイベルは羊たちを集め始め、ちらちらとこちらを何度も振り返った。
「レイン、どうする?一緒に村に行く?」
そういえば、何も教えられずに置いていかれたのだ。
魔女がいつ、どこに迎えに来るのか。本当に迎えに来るのかわからない。
「とりあえず、ここで待つ」
「魔女が下に降りてるなら、村を経由して登ってくるよ。ここで一人でいたら危ないよ」
そういえば、エイベルにどうやって自分がここに来たのかを教えていなかった。
「魔女は、一瞬で移動できるんだ。だから、すぐに来ると思う」
「うわぁ、流石魔女!かっこいい!」
日が暮れる前に、羊を小屋に入れないといけないから、とエイベルはオレを気にしながら山を降りていく。何度も振り返り、ぶんぶんと大きく振られる手。
自然とオレも手を振り返していた。
「またね!レイン!」
遠くから、エイベルの声が響いてくる。
反射的に頷いたが、エイベルからは見えてないだろう。
エイベルの姿はどんどん小さくなっていき、その後ろを付いていく羊たちも徐々に点になっていった。
そして、その姿が完全に見えなくなった瞬間、オレの横を微かな風が吹いた。
沈みかけていた陽は完全に落ち、黄昏の世界から一気に夜の世界へと様変わりする。薄く淡い闇が山を丸呑みにしたように感じた。
と、同時に今まで無かったはずのオレ以外の人の気配がした。
「さて、レイン。得るものはあったかな」
誰かなんて、見なくてもわかる。
魔女はオレの隣に、まるで最初からいたかのような顔をして立っていた。オレは頭の中で今日の出来事を
「……羊は、危ない動物じゃなかった。それと、すごく頭がいい」
それに、柔らかくて温かい。
「そうか、そうか。実物はなかなかのものだろ」
オレは布団を思った。布の袋に詰め込まれた羊たちの毛。生きている生き物の温かさを何倍にもする不思議なもこもこを、布に詰めたのが布団。通りで暖かいわけだ。
それと、
「トモダチ、が出来た」
なんだか、頬が熱くなった。
先程まで一緒にいたはずなのに、もっとずっといたい気持ちになる。
魔女は、オレの肩をポンと叩くと、楽しげに声を弾ませた。
「それは、素敵だね。得難いものを得た。それで、
「名前は」
オレは息を継ぎ直し、紡いだ言葉に少しだけ特別な色を混ぜた。
彼の名前は
「エイベル」
オレの友達。
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