羊飼いのエイベル(1)

 朝食の後、連れてこられたのはどこだか分からない丘だった。

 なぜ、どこか分からないのかというと、彼女が歩いてではなく、魔法で移動したからだ。


 ここは一体どこなんだ。


 オレが戸惑っていると、彼女はプスっと空気が漏れるような笑い声をあげた。


 なんだよ、その妙に癪に障る笑い方は。


「さて、レイン。私たちはここに羊を見に来たわけだ」


「一匹も見当たんねぇけどな」


「そりゃ、まだいないさ。日が昇ってからそんな時間経ってないだろ?」


 何をアホなことを、みたいな顔しているが、じゃあなんであんなに早い時間に起こしたんだ。おい。


「とりあえず、もうすぐここに羊と羊飼いがやって来るんだ」


「ふーん」


「まあ、世界を知る第一歩としてはなかなか相応しい相手だと思うよ。ということで、頑張れよ。レイン」


 彼女はポンと俺の肩を叩くと、お茶目なウィンクをパチンと落として消えた。文字通り、その場から消え失せたのだ。

 あたりを見回しても人影ひとつない。

 まさかの、置き去りだった。


「まじかよ」


 だだっ広い、なだらかな坂がどこまでも続く丘。周囲は森。

 まともな木は、街外れの教会のあたりでしか見たことがなかったオレにとって新鮮な光景ではあるものの、路地裏を生き抜いてきた経験が油断するなと囁いている。

 なんだか今にも何かが飛び出してきそうだ。

 明るいとはいえ、何が潜んでいるか分からない見通しの悪いところはついつい警戒してしまう。


 とりあえず丘のてっぺんに陣取り、張り出た岩の上に腰掛ける。ここならば、何かあってもすぐに見つけられるし逃げられる。


「羊飼い、が来るんだっけ」


 羊の実物を見る予定だったのだから、羊だけ見ればいいのかと思ったが、なんだかそれ以外の目的がありそうだった。


『世界を知るにはなかなか相応しい相手だと思うよ』


 その言葉を信じるなら、彼女が本当に会わせたかったのは……。

 きっと、羊飼いの方だ。

 そこまで思い至ったはいいが、ここで新たな疑問が湧いてくる。


「そもそも羊飼いって何すんだ?」


 犬を飼ってるやつや、猫を飼ってるやつなら街でも見かけた。手網を着け、散歩ということをするらしい。犬というのは手網を着けないと獰猛で、危険で恐ろしい生き物だ。

 実際、路地裏に野犬が現れた時なんて悲惨だった。食い物を奪われるくらいならいいが、身体に噛み付かれたらもうお終いだ。

 その点猫は、人間の方から関わらなければ害はない分まだマシだった。


 もしかして、羊というやつは獰猛なのだろうか?

 目を瞑って考えてみる。

 鋭い牙、四本の足、爛々と光る目。グルルと恐ろしい音を鳴らす喉、身体は滑らかで長いふさふさの毛に覆われている。

 その首にはベルトが掛けられ、長い紐が付いている。その先には『羊』を御する屈強な人間。きっと大人だ。獰猛な『羊』を何頭も従える姿を想像して、パチリと目を開けた。


 ダメだ。オレみたいなのは羊をけしかけられて、いたぶられるに決まってる。


 よし、逃げよう。


 逃げるということは生き延びるということだ。岩からぴょんと飛び降り、あたりを見回す。すると、遠くから近づいてくる影に気がついた。


 一足遅かった。


 位置的には逃げられなくもないが、動きに敏感な動物だったらどうする。走り出した瞬間アウトだ。喉笛を食いちぎられかねない。


 心臓が早鐘を打つ。何かあったら魔女が助けてくれるんじゃないかなんて甘い考えは最初から持っちゃいない。命の危機には自分で立ち向かうしかない。


 なるべく身体を小さくして岩の影に隠れた。

 息を潜めて、身を隠し、やり過ごす。これもオレの得意分野だ。

 じっとしていると、遠くから徐々に音が近づいてくるのがわかった。


 カランカランと祭りのような、鈴の音。ンメメメメエエェンメメメメエエェと、聞いたこともない鳴き声らしきもの。犬よりは柔らかいものの、猫よりは恐ろしい響き。


 ゾッと背筋を冷たいものが走った。

 ゆっくりと近づいてくるそれは明らかに一匹ではない、複数……それもかなりの頭数だ。


 これでもし、鼻が利く奴らだったら……。


 こちらの恐怖をよそに、『羊』はどんどん近づき、とうとう岩の近くまでやってきたようだった。


 やっぱり、逃げればよかった。


 後悔しても、もう手遅れだ。必死で岩と地面の隙間に身体をねじ込む。


 ンメエエエエエェェ!


「うわっ」


 ズボンの裾を何かが齧った!

 そして、そのまま岩から引き摺り出そうとする。必死でズボンを引っ張るが、到底かないそうもない強さで、食い占められる。強靭な顎の力、食らいつかれたら骨まで粉砕されるんじゃないか。

 必死で『羊』と戦うオレは、カラカラとなる音が止んでいたことに気が付かなかった。


「コラ!お前、離してやれよ」


 見知らぬ人間の声がする。その声をきっかけにか、引っ張られる力は止んだ。ほっとしたのもつかの間、代わりとでもいうように人間の手が伸びる。そして、岩の隙間から抵抗の甲斐かいなく引きずり出された。

 ごろんと転がった芝は柔らかく、痛みはない。ぼんやり転がっていると、頭上に影が差す。


「お前、こんなところで何してんの?」


 黒く、クリクリと丸まり、あっちこっち飛び跳ねる髪。その後ろには青い空。そして空と同じ色の瞳が、逆さまにこちらを見つめていた。どんなに屈強な男が出てくるかと思えばなんてことはない、オレとそんなに年の変わらなそうな奴だった。


「ひつじ」


「羊?」


「みに、きた」


 片言になってしまったのは、覆い被さられるような体制のせいだろう。生憎あいにく、こんな至近距離に慣れていない。それに、周りからはあの恐ろしい嘶きが聞こえる。さっきの様子からして、こいつがこの羊達の手綱を握っている。

 逆らったらヤバいやつだ。


「羊を?へー、羊なんて珍しくもないのに変わってるね。いいよ、好きなだけ見ていきなよ」


 こちらの緊張は伝わってないようで、そいつはオレの手を引いて立たせると、背や頭についた枯れ草を叩き落としてくれた。立ち上がって分かったのはそいつはオレより頭一個分大きいということだ。大人と比べればなかなか小さいが、あなどってはいけない。


「僕は、エイベル。見ての通り羊飼い。下のパラディソスに住んでる。お前は?」


 そいつは柔和な笑みを浮かべた。全体的な雰囲気から、暴力を好みそうには思えないけれど万が一ということもある。なにせ、あの凶悪な羊達のリーダーだ。警戒しておくに越したこともないだろう。


「オレはレイン。フストリェーチャの生まれで、最近(というか昨日からだけど)グレースフィールドに住み始めた」


「えええーーっ!?」


 突然の大声に、ビクリと身体を跳ねさせてしまった。なんなんだ。一体。

 そいつは興奮気味にオレに詰め寄ってくる。


「グレースフィールド!!あんな遠くからきたの!?あそこって何にもないんじゃなかった?」


「ま……」


「ま?」


「まじょの、家がある」


「魔女の家!?」


 そいつは大きな瞳をさらに大きく開き、ついでに口もぱっかり開けて唖然としている。何かまずいことを言ったかと、オレはうろうろ視線を彷徨わせた……ら、目があった。

 それは、想像していたどんな形よりも丸々とした輪郭で、無表情に草を食んでいる。縦ではなく横に動く顎が不気味だ。

 どこを向いているのか分からない瞳は、何故かこっちをじっと見つめているようだった。いや、羊は、確実に俺を見ていた。


「な、なあ。あ、あいつが、羊?」


「え?あぁ、うん。そうだよ、羊。触ってみる?」


「さ、触る!?」


 あんな、もちゃもちゃと草を食みながらもこちらから目を離さない、警戒心の強くて顎の強靭な生き物を、触る!?

 そいつは、さっきまであんなに魔女に驚いていたというのに、羊の話になった途端けろりと余裕を取り戻した。

 なんてことのなさそうにのほほんと、オレの手を取ると問答無用でグイグイ引っ張る。


「大丈夫、大丈夫。羊ってやつは大人しいから!」


 こいつ、やっぱり只者じゃないんじゃないか。

 ずるずると引きずられ、羊の前に立たされる。そいつは、手本を見せるように羊をわしゃわしゃと撫でた。羊は気にすることなく、マイペースに黙々と草を食んでいる。

 ゴクリ、つばを飲み込み、恐る恐る手を伸ばした。


 モフリ、想像していたよりも余程柔らかな感触がした。


「ほら、怖くないだろ?」


 エイベルは自慢げだった。オレが頷けば、そうだろ〜もふもふで可愛いだろ〜と羊に頬擦りしている。


「オレ、羊はもっと凶暴なやつだと思ってた」


 犬みたいに足が速くて、歯が鋭くて、肉を噛みちぎるような。

 そう言うと、そいつは少し思案するように虚空を見上げた。


「うーん、そういうのもいないわけじゃないけど、羊はけっこう温厚な動物だよ。僕も襲われて危ない目にあったことは無いし」


 そいつは羊の角をサラリと撫でた。

 オレも、真似るように羊のくるりと丸くなっている角に触れた。羊は嫌がる素振りもなく、されるがままだ。思い切って抱きしめてみれば、少し固く、土の絡んだ毛が頬に触れる。


「ふかふかしてる」


「そりゃ、羊だもの。こいつらの毛は時期になったら刈り取って、洗って紡いで染めて、服やら布やらに織り上げたり編み上げたりするんだ」


「ふーん」


 羊に、顔を埋める。毛は固いし獣臭い。

 けれど、熱をよく溜め込んでいる事がわかった。


 それに、大人しい。


 オレが抱いている羊は暢気にメェェエと鳴く。

 その声は、もう恐ろしく聞こえなかった。

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