レインの武器
「今日は羊を見に行くぞ!」
そんな魔女の大声に、叩き起された。
何が起こったのかと、跳ね起きたオレを見て、彼女はケタケタと腹を抱えて笑っている。路地裏での彼女は、冷静で物静かな大人だと思っていたのに、この家に着いてからは随分と印象が変わった。
なんだか、ずっと笑った顔しか見ていない気がする。人に笑顔を向けられることなんて、もう長いことなかったから、なんだか落ち着かない。
それにしても、彼女は突拍子がない。ひつじ?
「ひつじ?この布団の?」
「そう、羊。さあ!起きた起きた!」
布団をひん剥かれてゴロゴロと床に転がる。
「いってぇよ、クソババア!」
「私はまだババアって年じゃないよ」
口から飛び出した暴言を一笑に付して、彼女は朗らかに箒でオレを掃き出した。
「洗面所に石鹸と、タオルがあるから。それで顔洗いな。あと服も洗面所にあるからそれ着て」
「ん」
風呂のあった場所が洗面所だということは昨日覚えた。びしゃびしゃと顔を洗い、ふかふかのタオルで顔を拭う。
そして、言われた通り与えられた服を身につけた。木綿のブラウスに茶色の半ズボン。それに白いラインの入った黒のソックス。ガーターベルトあるソックスをどうにかこうにか身につけ、ブラウスのボタンを留め、ズボンを履く。
しかし、少し大きめで、サイズのあわなかった半ズボンは手を離した瞬間ずりずりと、腰からずり下がった。
下着ごと落ちそうになるズボンを両手で抑え、紐かなにかを探していると、掃除を終えたらしい魔女が鼻歌を歌いながら降りてくる。
彼女はズボンを抑えるオレの姿で、事態を察したようだった。
「あ、大きすぎた?」
「別に、これから大きくなるからこれでいい。なんか紐とかねえの?」
「じゃあこれでどうかな」
パチンと指を鳴らせば、オレの手の中にはズボンを下げる紐が出てきた。見覚えはあるが使ったことは無い。
「それは、サスペンダー。ちょっとこっちにおいで」
彼女がパチンパチンと留め具を付けると、あっという間にズボンは落ちなくなった。
「あとは、その鳥の巣みたいな寝癖をどうにかしよう。これで梳かしな」
ぽんと、どこからか出したブラシを手渡される。
ブラシなんて使ったことがない。
一生懸命今までの記憶を掘り起こし、ようやく女がこんなようなもので髪を撫でていたことを思い出した。
おそらく、それが梳かす、ということなのだろう。
記憶に従い、恐る恐るブラシを頭に乗せ、ゆっくり引っ張る。
するとブチブチと音がして髪が千切れた。それだけではなく、頭の皮膚から毛がプチプチと抜かれる感覚がした。かなり痛い。
「いっ…、いってぇ。なんだよこれ、いってっ、外れねぇ!痛っ!チッ」
何をどうしたのかブラシに毛が絡まり、取れなくなってしまった。乱暴に引き抜こうとすれば、毛によって引っ張られた表皮がじくじくと痛み、悲鳴が上がる。
「あらら、不器用だなぁ」
悲鳴に気がついた、魔女がやって来て、魔法のようにするすると、ブラシに絡まる髪を解いた。
「しょうがない。今日はやってやるから、そこに座んな」
頭にブラシを当てられ、ビクリと身を竦ませる。
「痛くはしないよ」
その言葉の通り、彼女は力任せにブラシを動かすことはなかった。
すぐに引っかかってしまうというのに、彼女は力任せにブラシを動かすことはしない。絡まった毛を摘み丁寧に解きほぐす。
「かなり傷んではいるけど、手入れをすれば良くなるよ。元は悪くなさそうだしね」
「髪なんて整えてどうすんだよ」
「ん?見た目は大事だよ」
彼女は器用に、ちまちまと、髪をほぐし整えていく。
「人間は、まず見た目で相手を判断するんだ。次は仕草、声、性格ってね。上流階級であればあるほど見てくれには気を使うし、庶民だって綺麗な見た目の人間に悪い気はしない。容姿は武器になるんだよ。レイン」
「それ、そんなに大事なことなのか?ぼさぼさだろうが、さらさらだろうが、オレはなんにも変わらないのに」
どんなに髪を整えて、綺麗な服を着て、石鹸の香りがするほど洗いたてても、オレはオレだし、中身は何も変わらない。
路地裏暮らしで、スリをして暮らしていたレインだ。
それ以上でも、それ以下でもないというのに。
「そうだね。ボウヤは何も変わりはしない。けれど、周りが変わるんだよ」
ようやく、絡まった髪の塊が消えたのか、ブラシがするすると通るようになる。
「人を掌握する術を学びなさい。お前が美しく振る舞えば、人はそれに相応しく接するだろう。魅力を感じれば、人は勝手についてくる。望もうと、望まざろうとも、そういう風になっているのさ」
あちこちに枝毛のある髪をひとつに束ねられる。視界の端を青いリボンがひらひらと舞っていたから、多分それで髪を括ったのだろう。
「よし出来た」
魔女はオレの前に回り込むと、上から下までしげしげと眺めて満足そうに頷いた。
「髪はそのうちに、切りに行こう。私が切ったらお前の髪が無くなりかねない。今日のところはこんなものかな」
そして、ブラウスの首元にくるりと黒いリボンを結んだ。
「これがあれば、お前がどこに行っても見つけられる。
「逃げ出すとか思わないのか?」
「そもそも私の手を取ったのはボウヤの意志なのに?」
それもそうだ。
目印にしては頼りないリボンを撫でる。
黒いリボンはただ黒いだけの布なのに、光の加減によってささやかに光を放つ。
「ついてはきたけど、見返りもなく服やら、飯やら貰うのは好きじゃねぇし。上等な服ぐらいでオレは上品なオコサマにはなれねぇよ?」
「対価は後で貰うからいいんだよ。今は貰えるもん貰っときな」
あとね、魔女はレインの肩にそっと触れた。
下から見上げた顔はやっぱり笑っている。
「お前は本当に賢い子だよ。その服を着たぐらいじゃ確かにお前は貴族みたいな上品な子供にはなれないだろうさ。けれど、同じように、粗末な服を着ているからって、お前の聡明さや機転の良さ、優しさっていうのが損なわれるわけでも隠れるわけでもないのさ。レインは、レインだよ。何を着て、何をしてもね。それを知っているお前だからこそ、私はここに連れてくる気になったんだ」
さあ、ご飯にしよう。
机にはパンと、焼いた卵、それと贅沢にもベーコンが用意されていた。
ぐぅっとオレの腹がなった。生まれてこの方こいつだけは我慢を知らずに正直だ。
肉は高くてなかなか変えない。貴重な食べ物だ。オレもたまに大きな収入があって、安くなった肉があった時に買うくらいで、そういう肉は大抵腐りかけていた。腐りかけた肉に当たれば最悪死ぬ。それはわかっていたから、肉を買うということは半ば運試しのようなものだ。
けれど一度だけ、ハムの挟まったパンを食べたことがある。
あの、名付け親の少年が生きていて、オレの面倒を見てくれていた頃だ。お腹を壊す心配をせずに食べた肉は、あれが最初で最後だった。夢中で貪るオレを見て、あいつは自分の分のハムまで分けてくれた。
「いっぱい食べて、大きくなるんだよ、レイン。お前はいつか……」
なんて言ってたんだっけ?
「レイン?おーい、ボウヤ?」
記憶に沈みかけたていたオレを、魔女の声が現実へと引き戻した。彼女はとっくに席についており、オレを不思議そうに見つめている。
「オレはオレで、いいのか?」
声は小さかったはずなのに、彼女にはきちんと聞こえていたようだった。
「レインはレインだから素晴らしいんじゃないか。それが、レインの生まれ持った武器だよ。大事にしなさい」
ヘーゼルの瞳が朝の光を反射し、明るく輝いている。
ゆらりと亜麻色の前髪が揺れる。艶々とした髪から、栄養状態の良さが窺えた。一本に結えられた三つ編みが右肩にかかっている。左耳には緑の石のピアス。黒いワンピースは、闇の中ではあんなにも不気味だったのに、よく見てれば裾に向かって徐々に紫色になっていく華やかなものだった。
綺麗だ、と純粋にそう思った。
「あんたのそのカッコも、武器なのか?」
彼女はまた、にっこり笑う。
「そうだよ。よく分かってるじゃないか」
もしかしたら、と思う。
もしかしたら、彼女の笑顔もまた、彼女が言ったように、彼女の武器なのかもしれない。
「さあ、冷める前に食べよう」
「ん」
朝食のパンは、オレの好きなあの真っ白なパンだった。
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