グレースフィールドのレイン

「ようこそ、レイン。愛しの我が家へ」


 握手をしたまま、なんの前触れもなく。オレになんの断りもなく。彼女は魔法を使い、オレを薄暗い路地裏から連れ出した。


 ふわりと一陣の風が吹き抜けたかと思うと、次の瞬間には周りの風景は一変していた。


 狭くて、冷たくて、えた臭いのする路地裏では感じたことのない清涼な風。


 その光景に思わず目を見張った。


 風が吹くたびに、さわさわと賑やかに笑う足元の緑。街灯のない暗さは路地裏と一緒だというのに、大きな月が空にあるというだけで、随分と明るかった。

 どこからか、リルリルと虫の声が聞こえる。

 そして、その中に佇む一件の家。


 赤いレンガの壁の隙間からは蔦が生え、外壁の一部を緑に染めていた。屋根は暗くてよくわからないが恐らく褐色だろう。

 手前の門扉は鉄製で、家の外壁と同じレンガで作られた低い塀が、ぐるりと周りを囲い、家を守っていた。


「なかなかいいところだろう?」


 彼女の言葉に、オレは何も返せなかった。

 オレが知っているのは、雑然として混沌とした路地裏と、綺麗に着飾った人間が歩く表通り。湿り気を帯びた土と、硬い石畳の感触。夜はどこからか聞こえる悲鳴を子守唄に眠り、朝は人々の喧騒で目が覚める。

 そんな暮らしだ。


 今いる場所と、元いた場所のあまりの違いに、オレは返す言葉を持ち合わせていなかった。


 返事がなくても、彼女は気にしなかった。オレの手を引いて、草原にたった一つ佇む家の門扉を開ける。

 そこまで来て、オレはやっと口を開けた。


「ここは?」


「ここはグレースフィールド。ボウヤがいたフストリェーチャから南西に7マイル《約11km》ってところか」


 フストリェーチャ。それがオレの元いたあの街の名前。オレはそれを初めて知った。


 彼女が自宅の扉に手を掛けると、リィィンと涼やかな音色と共に光が弾けた。それを気に留めることなく、彼女は扉を開け放つ。

 わずかな軋む音と共に開け放たれた瞬間、室内を光が駆け巡った。


 暗闇に沈んでいた家は、跳ね回る光を宿し、目覚める。暖かなオレンジの、柔らかな光が部屋中に満ち、窓辺から惜しむことなく漏れてくる。


「今日からここが君の家だよ、レイン」


 暖かい。


 胸の奥で、走ってもいないのに心臓が跳ねた。いつもなら苦しくて嫌になるはずなのに、不思議と嫌な気はしなかった。


 名前しか持っていなかったオレの中に、新しい情報が刻み込まれる。


 オレはフストリェーチャで育った。

 そして、今はグレースフィールドにいる。


 オレの家はグレースフィールドにある。

 オレの名前はレイン。


 ーーーー


 彼女は、まず風呂に入るよう命じた。が、あいにく風呂なんてものをオレは知らない。


「フロって、なに?」


「ああ、それはねぇ」


 彼女は、やはりそれを馬鹿にしなかった。表通りにいるような人間は、オレ達をモノを知らないと馬鹿にしたのに、やっぱり彼女にはそれがなかった。


 彼女は洗髪の方法を教え、スポンジで肌を磨くことを教えた。最初は触れられることに抵抗したものの、身構えるのも馬鹿らしくなって、結局彼女に身を委ねた。

 彼女は石鹸(オレは初めて見た)を使って、何度も何度も泡を立て、頭をモコモコにした。細長い指がわしゃわしゃと動くが、爪を引っ掛けたりすることはなく、動きは丁寧だった。


 その手さばきを堪能していると、頭から泡がつーっと垂れてきた。

 泡が目に入るとびっくりするほど痛かった。


「いたっ!いてぇ!」


「あーあー、目を瞑らないと泡が入るよ」


「遅せぇよ!」


 彼女はケラケラと笑いながら、お湯をかけてくれた。

 笑われたことにイラッとしたけど、悪気がないのが分かったから見逃してやった。今回だけだ。今回だけ。


「次からは、自分で風呂に入るんだよ。洗い方はわかったかい?」


「ん」


 そして、全て洗い流しすっかりピカピカになったオレを見て、またあのキラキラした目をした。

わしゃわしゃと柔らかい布(これはタオルだ)で水気を拭き取ると真っ白な寝巻きを着せられる。襟にはフリルがつき、黒いリボンがキュッと首元に巻かれている。スカートのように裾が広がったそれは心許ないが、驚くほど着心地が良かった。


「なんだ、整った顔立ちだとは思ってたけど、随分綺麗な子じゃないか!」


「オレが?」


「そうだよ。ほら、鏡があるから見てごらん」


 彼女から渡された手鏡を覗いて、驚いた。

 雨上がりの石畳に出来た水溜りに映る、泥に塗れたコドモの姿はそこになかった。


 肩より少し長い銀色の髪が真っ直ぐ伸び、肌は貴族ぐらいしか買っていなかったあの陶磁器のように白い。スッと切れ長だがまだ丸い目には、石畳の隙間から顔を出していたあの小さな花のような瞳が嵌っている。


寝間着もあいあまって上流階級の子どものようだ。


「ボウヤは綺麗な子だよ。瞳も綺麗な菫色ヴァイオレット。花の色だ。きっと、磨けばこれからもっと綺麗になるね」


「スミレ?スミレってなんだ?」


「ああ、菫を知らないのか」


 彼女は、窓辺に積み上がった書物の中から、美しい装丁の分厚い一冊を取り出した。


 パラパラとページを捲り、パッと開く。


「これがすみれの花さ。紫色で綺麗だろう」


 沢山の植物が描かれたそれのなかから、彼女はあの昔見た小さな花とそっくりなそれを指した。


「すみれ……」


「そう、ボウヤの瞳の色の花だよ」


 彼女は眼鏡を抑えてクスリと笑った。


「覚えておきなさい」


 また一つ、世界が広がった。

 オレの髪は銀色で、瞳は菫の花の色。肌は白い。

 オレの名前はレイン。



 ーーーー



 彼女はオレに部屋を与えた。ベッドがあるだけの部屋だが、家というものを持ったことのない俺にとって、それは今まで見たどこよりも上等に思えた。


「殺風景な部屋だけど、好きに使って構わないからね」


「オレが?ここを使っても?」


「ああ、その為の部屋だからね」


 ふらふらと部屋の中に足を踏み入れる。そして、唯一の家具であるベッドにゆっくり腰掛けた。

 柔らかな寝床はオレの体重を受け止め、簡単に沈んだ。路地裏の固い土と壁、ペラペラの布に慣れた身体は、寝床の頼りなさに不安を訴えた。

 と同時に疑問も湧く。


「なんで、これは柔らかいんだ?」


「おお!疑問を持つことはいい事だ」


 彼女は大人とは思えない無邪気な笑みを浮かべて、オレの隣に腰掛ける。そして、ぽふぽふと布団をたたき、嬉しそうに語り始めた。


「これは動物の毛を刈り取って詰めた布団なんだ」


「動物?」


「そうか、フストリェーチャから出たことはないのか。あそこは街だから、羊はまだ見たことがなかったかな」


「羊?」


「そう、羊は毛むくじゃらの動物で、丘に住んでいる。私たちは彼らの毛を少々頂いて、それをこうして寝具にするのさ」


 オレは、尻に敷いた布団を撫でた。この中に、羊の毛がたくさん詰まっている。


「彼らの温かさを分けてもらって、夜を越えるんだよ」


 だから、早くお休み。

 彼女はオレを布団の中に詰め込んだ。

 布団は驚くほど温かく、体全体を包み込む。

 そうすれば簡単に眠気が這い寄ってきて、オレは身体を丸めた。彼女の笑う気配がする。

 まだ、目は閉じない。


 彼女はベッドから離れると、布団越しにオレの肩に触れた。


「お休みレイン、良い夢を」


 気配はゆっくり遠ざかり、ランプの明かりがフッと消えた。

 最後に細い光を漏らす扉が、ゆっくり閉ざされると世界は闇に沈んだ。

 慣れた暗さにようやく肩から力が抜ける。


 疲れが溜まっていたのか、徐々に瞼が落ちていく。


 意識が落ちる寸前、出会ったこともない、羊にオレは思いを馳せた。

 毛むくじゃらの動物。

 二本足で立つことはあるのだろうか?色は何色なのだろうか?

 黒、青、黄、赤、それともオレの髪みたいな銀か、目みたいな菫色なのか。


 それとも……


 目の前の魔女を見る。

 顔の半分を覆い隠す斜めの前髪、緩やかに編まれた三つ編みは艶のある亜麻色。メガネの奥からこちらを見つめるヘーゼルの瞳はランプの光を受けて、ライトグリーンに輝いている。


 もしかしたら、羊もこんな色をしているのかもしれない。


 こんなに温かいのだから。



 また一つ、世界が広がった。


 オレは今、羊に包まれて眠ろうとしている。

 オレは、風呂が案外気持ちのいいものだって知っている。

 オレは白くて甘いパンが好き。


 オレはフストリェーチャで育った。

 オレは明日から、グレースフィールドで魔女と暮らしていく。


 オレの髪は銀色で、瞳は菫の花の色。肌は白い。


 オレは、世界征服をするらしい。


 オレの名前はレイン。


 オレはグレースフィールドのレイン。



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