不文の文字書きさん
明日key
不文の文字書きさん
めりめりと軋む音を森に木霊させながら、樹は横に倒れた。
ユキの肩幅くらいの寸胴。それほどの横幅でもないが、森を突き抜けるように伸びていた大木だ。これほど丈があれば、いろいろなものが作れる。
熊やオオカミも作れるし、子鹿や子兎もたくさん生み出すことができる。あるいは、ガーゴイルとかケルベロスとか。
贅沢は言えないが本当は山から石を切り出したい。村の連中がユキにできることは、森で木を切ることぐらいだ。
東に森林が覆い、西に草原が波打つ風景が見渡せるこの土地。
今日も村中にノミを槌で叩く音が聞こえてくる。薪を割るよりも丁寧で、大木をノコギリで切る音よりも甲高い音だった。
手は傷だらけで、擦り傷と切り傷、そして潰れた血豆が手に何個もあった。
顔は木粉にまみれることを繰り返したか、頬のあたりと唇の下があかぎれになっている。
髪が長く、ぼさぼさしているため、木粉をかぶらない目元だけが綺麗な瞳をしている男だ。
「相変わらず、作っているのかね? ユキ坊」
村の男が庭に入り、ニヤニヤとした顔でユキに話しかける。その「ユキ坊」という言葉も気に入らない。彼はもう十八だ。
ノミと槌を手にし、しゃがみこんで作業に没頭していたユキもさすがに腰を上げる。
「そうだ、俺、作る、駿馬」
この地域の言葉をうまく話せないユキ。カタコトで懸命に訴えるも、この男はガッハッハと笑う。
「なるほど、小さいながらも駿馬は作れよう」
「ああ」
等身大の馬は無理なのはわかる。本物よりは小さいものにはなる。けれど、立派な駿馬は作れよう。
そしてこの男は、傍から見れば、ユキのやっていることに、さも関心がありそうな様子ではあるが。
「ユキ坊。お前が作る駿馬は走るのかね?」
「駿馬、走る……とも」
「本当か?」
卑しい笑みを浮かべて、腕組みをする。
ユキの背丈が男の喉元あたりまでしか届かないのをいいことに、男はユキを見下ろした。
「走る……とも。おじさん、見る、駿馬。駆け抜ける、頭の……中で」
「そうか、確かにお前が彫り上げるであろう完成物を見つめていれば、わしの頭の中でも走り抜ける駿馬が想像はできよう。だが、俺らが欲しいのはそんなものじゃない。そこであえてこう聞こう。ユキ坊。お前は俺らが乗りこなすことができ、なおかつ王都まで走らせる駿馬を作れるか?」
「……できない」
「そうかそうか」
嘲笑っていた顔が、しわくちゃな怒り顔に変わる。
「どこぞと知れぬ場所からここに迷い込んできて、わしらは親切心でお前も迎えさせてやった。だがなユキ坊、お前が没頭している木彫りのブツが何の役に立つんだ。畑作業のひとつもせず、ひたすら彫刻を作り続けているお前に、いい加減嫌気が差しているんだぞ。わしらの我慢も限界に来ているんだ」
「……」
「この穀潰しが」
そう言い残して男は、ユキに背中を見せ、帰っていった。彼は男の背中を睨みながら、唇を噛む。
それから十日をかけて、雨が降りしきる中、木彫りの駿馬は完成した。
しかし、その完成を祝う者はいない。今朝は空の高みまで盛り上がった灰色の雲が、村のほうまで近づきつつあったので、雨が降ることは予想できた。だが完成を待ち望む者も一人としていなかったのだから、祝う者がいないのはわかりきっていたこと。
雨雫が次々と駿馬の背中と顔を打ち濡らす。
そのさまを見てユキは、駿馬の眼から二筋、涙を流しているように見えた。
――お前の作る駿馬は走るのかね?
かつて村の男が放った耳障りな言葉が、ユキの頭に反響する。
「うう……」
無用の長物をまた作ってしまったのだろうか。
庭に並ぶ、ユキがここに来てから作り出した創造物の数々。
男、女、鹿、熊、オオカミ、ウサギ……。
ここにいる物が皆、ユキを責め立てるように泣いていた。嗚咽に似た雨音がシトシトと響く。ユキはそれを聞いて胸が張り裂けそうになる。
そのすすり泣く声に耐えきれず、彼は家の中に入ろうとした。
だが、そのとき、気のせいか蹄鉄が土を叩く音が聞こえてきた。
自分の駿馬が走り出したのだろうか。
振り向けど、駿馬はそのポーズからぴくりとも動く様子はない。
だが、耳に入ってくるのは確かに蹄鉄の音だった。
湿った土を踏みつける馬の駆け足が村に近づいてくる。
雨でぼやけた視界の彼方から、人馬の影が見えてきた。
ユキの庭の前で馬は手綱を引いて、唸るように鳴いてからようやく止まり、馬主が鐙に足をかけて、揚々と降りた。
「ユキという男はお前か?」
居丈高に話しかけてくる男性。二十代前半くらいだが、その身なりから位の高そうな人間だとわかる。
「そうだ……とも。俺、ユキ」
「ここにあるものはすべてお前が作ったものか?」
男性は、ユキの作った作品ひとつひとつを眺めたり、手で触ったりしながら、見惚れた表情をする。
「こんな雨の中に彼らをそのままにしておくなど、お前にとっては忍びないことであろう?」
「家、小さい。作品、入れる、無理」
男性は顎に手を当てて、小さく笑った。だが、それは決して嘲笑ではなかった。
「ここにある作品をすべて私が買おう」
それを聞いてユキは眼を見開く。自分の作ったものがはじめてカネになった瞬間だったから。
「買い取りの額は相場の二倍でどうだ。それでも足りなければ三倍でも四倍でも出す。だが売ることを拒否することは許さん。これは価格交渉ではない、私からの命令である」
そう言うなり男性は、腰に結びつけられてあった革袋の紐をほどき、ユキの足下に投げよこした。
その中には、銀貨が何十枚も入っている。
「売る!」
そうユキが答えた後、遅れたように馬が十数頭、ユキの家の前になだれ込んできた。
馬車を引いた馬も三頭ばかりいて、作品をすぐさま持ち帰る用意は周到で。ユキに申し分などなかった。
「私の名はサピア。この国の王子だ」
そのあとユキは、サピア王子に連れられ、王都・アルス=アンドラへと向かった。
作品をすべて買う契りを正式に結ぶということで、王城まで迎え入れられたのだ。
それからお召し物を正装に着替えさせてもらい、大広間へと案内された。
十字架状に並べられた、純白のテーブルクロスを拡げられた食卓。
十字架を成す食卓、その四つの端の椅子にサピア王子が座る。そして、給仕の係の者がユキに座るよう椅子を動かして促す。ユキとサピア王子が互いに向かい合う形になった。ユキから見ての左端と右端の椅子には誰も座っていない。
晩餐のもてなし、あまりの待遇だったため、ユキは少々訝しげに思う。それも当然だろう。そして、その予感は的中した。
豪華なこの晩餐に出された肉をユキが味わって噛んでいる中、テーブルの端でユキと向かい合うように居合わせていたサピア王子が、ユキをまっすぐに見た。
「実はユキ殿。お前をここまで連れてきたのは別の用件があってのことなのだ」
「なんだ? ……ううん。なんです……か?」
敬語にし直して、ユキは顔を俯かせる。
「言葉の不自由は気にしないでくれたまえ、小綺麗な言葉などなくてもお前の澄んだ気持ちはよくわかる」
いったん瞳を重く閉じて、サピア王子がまっすぐにユキを見据える。
「本題に入ろう、これは国王直々の命令だ、拒否することは厳罰に値するから覚悟をしておけ」
「はい……」
サピア王子は指を鳴らし、左右に重く垂れていた厚手のカーテンが、するすると開かれる。開かれたカーテンの中から女性二人が現れ、それぞれが空席になっていた椅子に座る。
これで食卓に座る四人が揃ったわけだ。
「紹介しよう」
ユキから向かって左側の女性は、紅蓮を再現したような色をした短髪で、子供の顔立ちをしていた。正装であるものの、猫背になってとっつきにくそうだった。年齢は十三か十四か。
「呪師(まじないし)とでも呼ぼうか、彼女の名はアレイと言う」
「……」
幼そうな外面だが、性格は絶望したような暗さで、ユキに向けて頷いた後、そのまま深く俯いた。
右の女性は二十歳を超えていると思われる。整った顔立ちをユキに微笑む。ユキが遅れたように頬を指で擦り、慌てて立ち上がって一礼をした。そのさまを見て彼女の微笑みがさらに明るくなる。
「こちらは、史学者のリンネだ」
「リンネです、よろしくお願いしますわ」
正装のドレスの下で膨らんだ胸を揺蕩わせ、椅子から立ち上がり、長い髪を手で後ろに流してから行儀良く一礼する。
つられてユキはもう一度頭を下げる。
ユキにとってみれば、とてもぎこちない雰囲気だ。
「さて、本題に入ろう」
サピア王子がはっきりと通った声で言う。
「ユキ、アレイ、リンネ。お前たちがこれからやることは、国家の一大事に関することだ」
王子は語り始める。
「先の大戦で我が国の建国に関わる古代の遺跡が破壊された」
それはユキがいた村でも話は聞いていた。
「遺跡には、数々の碑があった。それは聖文を記したものだ。だが戦時に碑文は壊された。それによって、いまこの国にはよからぬ気が漂っている。瘴気のたぐいもあり、流行り病が起きていると報告も受けている。『月』が浮かぶ夜に光の帳が現れ、それを見た者を狂気に陥らせ、血の惨事になったという話も聞いている。すべては碑文を壊されたせいだとわかっている」
実感ができていないが、ユキはうんうんと頷いた。
「そこでお前たちに頼みたい……。破壊された遺跡に向かい、碑文を修復してくれたまえ」
サピア王子が左に、そして右に顔を向ける。
「そこのアレイは碑文の言葉すべてが頭の中にある唯一の人間だ。そしてリンネは古代に書かれた文字に通じている。そして……」
サピア王子の眼差しはユキのほうへと向けられる。
「ユキ、お前が碑文を彫るのだ。ノミと槌、そしてお前自身の手で」
ユキはサピア王子の命を受け入れ、早朝になって手配された馬車に三人が乗り、遺跡へと向かった。
マントと丈夫な革の服を着て、旅支度は万全。
「ねぇ……」
馬車で揺られながら、ユキの声かけに、アレイとリンネが揃って顔を向ける。
「自分。アレイ、リンネ、知る、希望」
緊張で言葉も声もたどたどしくなってしまうユキ。
「自己紹介ですね、わかりましたわ」
リンネは座ったまま、深く頭を下げて、その笑顔を上げた。
「わたくしはリンネ、王立図書館に勤務しております……」
高い身分の生まれで、いつも勉強を欠かすことなく、それで王立図書館の司書も兼ねている。気品もあるし、これは聡明な人とわかる。
「アレイ、聞く、希望」
ユキがアレイに聞くと、アレイは顔を俯けたままだった。
「……アダ、オーマ、リロ、アルマ、メール、モ……」
耳慣れない言葉がアレイの口から出てくる。少なくともここで使われている言葉ではないことをユキは悟る。
「リンネ……。アレイ、外国人? 言葉、わかる、無理」
「彼女はいつも古語でまじないをしているんですよ」
緊張を和らげるために呪文に頼ってでもいるのだろう。ユキはそう推測した。
アレイは手櫛で赤い髪を整えながら、咳を小さくこほんと立てる。
「我は、同じなり、あなた……ユキと。同じなり」
驚いた。どういうことだろうか。アレイの言葉もユキに似て、とてもカタコトな会話である。
「同じ。俺、アレイ、言葉、苦手」
ユキが笑いながら、同調するようにアレイに微笑みかける。
「否、ユキが、言うの、『同じ』は、違うなり」
意外な返答が来て、ユキは戸惑う。
「我は、ユキと、同じなり。匂い」
「匂い?」
「なり! 我と、ユキは、同じなる、匂いなり」
これは喜んでいいことなのだろうかと、ユキは戸惑いを見せる。
「ユキさんからも自己紹介お願いできますか?」
たどたどしい会話ながらユキは答えていく。
何ヶ月も前のこと、ユキは気づいたときにはあの村で倒れていた。
そして、それ以前の記憶をまったく思い出せないのだ。
だけど、彫り物をする技術はその腕に覚えがあって、彼はひたすら彫刻を作る。村の人間との会を通して、なんとかこの国の言葉を理解し、カタコトながら話せるようになった。
「ご苦労されたのですね」
「はい」
いつか記憶が戻ればいいのだが、それは叶う日が来るのだろうか。
遺跡があるとされる場所にたどり着くと、そこは無残にも瓦礫だけが残っているとしか言いようがなかった。
赤茶けた砂漠のど真ん中、壊れた赤煉瓦の石材の山々。
先ほど街で休憩をしたのだが、その街ですらここから振り向いても、蜃気楼で潰れて見ることができない。
「ムー、ラーカ、サレ、アイノ、オイ」
古語を唱えながら、アレイは軽い足取りで遺跡を見回す。
「これなり」
アレイが目をとがらせて、それを指差した。
碑石だった。象形文字の三文字が彫られていたが、その他はすり切れてしまっている。これを彫り直せということだろう。
その形が何を象ったのかはユキの推測に過ぎないが。ともかく象形文字の並びは以下の通りとなっていた。
(△)(女)(左手)
△はそのまま三角の形をした文字だ。
「アデル、リクロ、ホリエ、マ、アル、セメス」
アレイが碑石に人差し指を突きつける。
「アデル、アデル、アデル」と言いながら最初に描かれた象形文字を指しながら反復して答える。
「この三文字をアデルと読むのですね?」
「……なり」
そうしてもう一度口ずさむ。
「アデル、リクロ、ホリエ、マ、アル、セメス」
リンネはここまで運んできた荷物袋の中から、分厚い本を一冊取りだした。
「アデルの次、リクロ……リクロ……あ、ありましたわ」
分厚い本には次の文字が書かれていた。
(鳥)(木)(○)
○はそのまま、円の形をしている。
「文字、これ、方向、右……へ、彫る」
「そうです」
道具袋の中から鉄槌とノミを出し、本を見ながら象形文字を彫り上げていく。
「さすがですわ、手際がよろしいですわね」
「ありがとう」
しかし、そこでユキは疑問に思った。
「俺、思う。碑文、残す、本、ない。なぜ?」
何もユキに頼むことなどない。聖文の写しさえあれば、石工一人でもできる仕事だ。
それなのに、なぜユキの他に、文字を調べる司書と、碑文を暗唱できる人間が必要なのだろうか。
「聖文は淫らに書き写すものではありませんわ、聖文も呪文も書いた途端に、その言葉が持つ魔法が発動してしまいますから」
「納得」
「だから、アレイのように暗唱ができる人を見つけたのですよ」
文字という形でなく、頭の中に収まってるだけであれば、魔法が発動されることはない。
だが、言葉にしたとき、果たして発動されることはないのだろうか?
おそらくは、文字自体が魔法を発動させる力を持っているのだろう。声音ではなく文字にはそのような力が宿っている、ユキはそう解釈した。
「それに、アレイは文字が書けません」
「文字……」
鉄槌で碑文を彫る手が止まるユキ。
「俺、同じ、文字、読む、無理」
ユキはアレイと同じ境遇にあるのかもしれない。
だが、最初のアデルという三文字を、アレイはどうしてわかったのだろうか。
でも、ともかくとしていまは疑問を差し入れる暇などない。作業に没頭して、小時間で三文字を手早く彫り終える。
「次はこれですわ」
果たして、碑文は完成された。
◆
アデル、リクロ、ホリエ、マ、アル、セメス。
(△)(女)(左手)――(鳥)(木)(○)――(目)(耳)(太陽)――(×)――(鬼)(短剣)――(太陽)(月)(*)
ルシャ、アカ、マレク、サマ、ボネム、アン。
(短剣)(太陽)――(台形)(○)――(蜘蛛)(口)(骨)――(△)(蜘蛛)――(右手)(左手)(∞)――(*)
◆
最後の(*)を彫って、アレイを横目にユキはこう聞いた。
「アン(*)、意味、何? アレイ」
「光」
アレイはただその一語だけを言った。
「光……か」
「なり」
さて、碑文はこれだけではないだろう。遺跡を成していた瓦礫の中に、埋もれているやもしれない。
「碑文、書く、終わる、次、何、する?」
ユキがそう言いかけたときだった。心なしか石碑の聖文から光が漏れ出した。
目の錯覚か、はたまた、さきほど南中を終えた『太陽』の光加減のせいか。
だが、光は一秒二秒と時を経るごとに増して輝き、目の中まで溢れる光で白くなる。そこでユキの意識は途絶えた。
目覚めると、そこにはアレイがいた。しかし、中は薄暗い。どこか建物の中なのだろうか。
「ユキ、起きる、したり……か?」
「ここ、どこ? アレイ」
「遺跡なり」
半身を起こして、見渡すと、ここにはさまざまな文字が彫られていた。
薄暗がりで、アレイがいつの間にやら持っていたトーチの明かりだけが頼り。
敷き詰められた赤煉瓦に、その空間は囲まれていて、ここからどうやって出るのかわからない。鉄槌とノミはかろうじて持っていたが、この赤煉瓦を切り崩して脱出するのも容易ではない。脱出する前にノミの刃が欠けてしまうのがオチだ。
「ここ、遺跡なり。我、ユキ、遺跡、中なり。出る、不可なり」
「リンネ、どこ?」
「知らず、なり。彼女、場所、不明なり」
いかようにしてここから出るべきかと思案しながら立ち上がってから、アレイが赤煉瓦の壁を指差す。
「ユキ、彫る、ここ、希望」
「ん?」
アレイの人差し指の先には、文字があった。
(蝶)(△)(太陽)
ただひとつ(太陽)の文字が壊れて欠けている。ちょうど右半分が割れていて、形を成しておらず。
「これ、直す、希望なり。ユキ、頼む」
「ああ」
(太陽)の文字は先ほど彫った。慣れた手つきがすでに形と彫り方を覚えていて、数分とかからずに文字を作った。
キッと削り整えた音を立て、ようやく(蝶)(△)(太陽)と文字が並ぶ。その瞬間、周囲の赤煉瓦がからくりのように動く。危ないと思ってかアレイがユキの右手を握り、この部屋の中央に誘導させた。
「何、これ?」
「扉、開き……たり。ユキ、文字、作る。通路、できる」
どうやら、壊れた文字を彫り直したことで、赤煉瓦がこのように機械仕掛けに動いているようだ。
赤煉瓦が動きが止まり、気づけば目前に通路ができていた。
「命令、進む、通路」
「理解! アレイ、感謝」
アレイのトーチを頼りにしながら、大きな部屋に出た。
そこには、光り輝く文字が、ずらりと周囲の壁に彫られている。
「何……これら? アレイ、文字、読む、可能?」
「読む、不可能、なり。しかし、わかる」
読めるけどわかる。それはどういうことだろうか。
(△)(女)(左手)――(鳥)(木)(○)――(目)(耳)(太陽)――(×)――(鬼)(短剣)――(太陽)(月)(*)
(短剣)(太陽)――(台形)(○)――(蜘蛛)(口)(骨)――(△)(蜘蛛)――(右手)(左手)(∞)――(*)
左側から輝く文字を見る。
この文字は、見覚えがあった。そのはず。瓦礫と化した遺跡の前で彫り上げた、先ほどの碑文だ。
「これ、意味、何? 知る、希望」
「アデル、リクロ、ホリエ、マ、アル、セメス。ルシャ、アカ、マレク、サマ、ボネム、アン」
彼女が古語を暗唱してから、彼女は語り始めた。
(△)(女)(左手)
……神殿を生み出せり。その御手により。
(鳥)(木)(○)
……空高くより、枝のごとく力伸ばせり、多く多く。
(目)(耳)(太陽)
……空の日のごとく、かの世界主は世界を見聞きす。
(×)
……だが。
(鬼)(短剣)
……世界の民、熱情の狂気を生じ、無駄に殺し合う。
(太陽)(月)(*)
……それは空の日が、月に光を食われしときのこと。
(短剣)(太陽)
……空の日なる世界主に抗う愚かなる者ども。
(台形)(○)
……人々は無駄に墓標ばかりを作る、多く多く。
(蜘蛛)(口)(骨)
……世界主は蜘蛛の化身を送り、悪鬼なる者を喰らう。
(△)(蜘蛛)
……そして、神殿の守護する者となれり。
(右手)(左手)(∞)
……汝ら、その両腕に鎖を与えん。
(*)
……月に食われし日は再び現れ、世界主は民にいま一度の光を与える。
そして、壁伝いに描かれた文字を見ながら、アレイとこの大部屋を歩いた。
アレイはところどころで、書かれた文字の内容を伝える。
王国を築き上げ、世界に秩序をもたらしたこと。
大戦が起こり、世界がふたたび滅亡しかけたこと。
そして、神殿が壊されかけたこと。おそらく、この文字が語りかけていることから察するに、この遺跡が神殿なのだろう。
そして、壁伝いに右端の手前まで続いていた文字まで読み、そこでこんなことが書かれていることを、アレイは明かした。
(木)(矢)(ドクロ)
……森は悪い気を風の矢のごとく吐く。
(男)(短剣)(○)
……悪い気は人々の身体を蝕み、その多くは死せり。
(月)(*)
……ある時、月は鋭く光り輝かん。
(壁)(*)(鬼)
……月は光の壁を作り、人々は悪鬼と化す。
これを聞いて、当然のことユキは息を呑んだ。サピア王子が話題に出し、懸念していたことを同じだったから。
瘴気が流行り病を引き起こし、空に浮かぶ光の帳が人々を狂気に陥れた。
驚くべきほどに合致していた。
そうやってアレイの言葉により、語りかけてくる文字も終わりに差し掛かろうとする。
だが中途でユキは何かが足に当たり躓きそうになった。
そこにあったのは、一人の骸だった。ユキは驚いて後ろに倒れ、腰を強く打った。
「な、な、な、何、これ? この、遺体」
抜かした腰と、腑抜けそうな声で、ユキはアレイに聞く。
「我、なり」
「え?」
アレイはここにいる。手に持つトーチが遺体を照らす。骸は乾燥し崩れかけているが、その容貌は確かにアレイそっくりだった。
「この、遺体。アレイ?」
「なり」
だが、彼女は生きている。
「我、来たり。幾星霜、時間、超える。ここ!」
そう言いながら、彼女は遺体の前にしゃがみこんで、トーチを持ちながら手を不器用に合わせる。
「我、ここに、帰りたり」
そして、彼女は、いまにいたるまでの時の道程を語り出した。
始原の時代、神殿とともにアレイは生を受けた。
神殿の深奥にある大部屋、はじめここには『神殿を生み出せり。その御手により』としか書かれているだけ。
アレイはこの世界の物語を頭の中で綴り始めた。
おぼろげな空想は、確かな筋となり、思い巡らすたびに話となり、言葉にすることで物語となった。
だが、所詮それはアレイの声であるだけに過ぎなかった。
そこで神は神聖なる文字を教える。ウルカヌスという名の石工とともに。
神は文字を教え、アレイは物語を教え、ウルカヌスはそれをもとにこの大部屋に文字を彫る。
世界の歴史を彫ったのだ。
それは予言のたぐいではなく、神とアレイによる決定。世界の運命そのものである。
世界はアレイの物語を中心に動いた。アレイの物語に導かれて、世界が滅する時の果てに向かい、動いていったのだ。まるで世界も……生まれて育ち最後に塵芥になる生き物……であるかのように。
「我、見る、希望。世界の、未来……を」
アレイは死んで骸となり、気の遠くなるほどの時間を経て、ふたたび世界に生を受け、この時代にやってきた。
「世界、命運……アレイ、決定……」
「なり」
「これら、文字、世界、決める。俺、許す……ない」
「否!」
アレイが掌を広げ、飛び抜けた声で荒げる。
「世界、文字……にあらず、なり」
世界が文字でない。
「文字、ありき。ゆえに、世界、存在……なり」
そう、この世界は文字であったのだ。
たかだかこの有限の広さを持つ部屋に収まるだけに彫られた文字こそが、世界のすべての真実だったのだ。
それが認められず、ユキは臍を噛む思いでアレイを凝視する。
「だが、我、残念。物語、途切れる、なり」
二人は右の端まで歩き、すなわち時の果ての描写まで辿り着く。
(※)(※)(※)
(※)(※)(※)
(※)(※)(※)
(※)(※)(※)
何かのはずみで擦り切れてしまったのだろうか。形は少しだけ残っていた、いままでに書かれていた文字のどれかであり、それを特定した上で彫り直せば、また文字として読めるようになるだろう。
だが、その次に彫られている文字にユキは目を見張った。
(鬼)(短剣)(○)
(槌)(塔)(○)
(木靴)(○)(塔)
(塔)(稲妻)
(太陽)(*)(○)
(×)
このわずか六行の言葉で、物語は締めくくられている。
これらが何の物語っているのか、アレイは語る。
――人々は悪鬼となり再び殺し合い血で血を洗う惨事に。水と土は腐り果て彼らは塔を築かんとする。果たして完成し、人々はその塔を昇る。だが、稲妻により塔は砕け、神は大地に光の矢を放ち、大地は焦土と化す。世界の終わり。
「我、ユキ、希望」
「希望、何?」
「物語、途切れ。続く、不可能。ユキ、文字、書く、希望」
世界の終わりの直前、この擦り切れた文字の羅列(※)(※)(※)この四行に、文字を描けというのか。
ユキはノミと鉄槌を手に、この擦り切れた文字の羅列と、世界の終末を語る文章と対峙する。
ノミを振り上げた。
そして……甲高い音を立てて、鉄槌は振るわれた。
世界の終末を示す六行の言葉に、荒々しくも線が走った。
「何、する!」
「世界、決める、アレイ? ……違う」
鉄槌を何度も振り上げて、ノミで終末の六行を傷つける。何度も何度も。
「ユキ、やめる! 命令、ユキ、ユキ、ユキ!」
「うおおおっ!」
光を放っていた文字は判読不能となったと同時に、輝きを失った。
「ユキ……ユキ……」
無表情だったアレイが泣きじゃくりそうになる。
物語をけなしたのだから、それ相応の罰を受ける覚悟はできていた。
けれど、これだけはアレイに教えなくてはならない。
「物語、決める。それ、神? 文字? 違う」
物語を決めるのは文字ではない。そこに生きる人間の心だ。
そう言いながら、ユキはアレイから身を引いていった。
あれから数ヶ月が経った。ユキは外に出て、山岳の高みから彼らを見下ろす。
そこから見えたのは剣戟を交わす国と国の争い。
ユキがふと思い出す文言が、脳裏をかすめる。
――人々は悪鬼となり再び殺し合い血で血を洗う惨事に。
これはアレイが作り出した運命なのだろうか。
人間たちは果たして、幾度と戦争という蛮行を繰り返すのか、そんなことをうんざりするほどユキは考える。それはおそらく神すらも理解に及ばないかもしれない。人が人たるゆえんかもしれない。
あれからユキは文字を覚えた。それは物語を作るためではない、物語を作るのは人々の行動だ。彼はそれを記録するだけに留めるだけ。
ユキは今日も石版を彫り上げて、山小屋の倉庫に貯めていった。いつか誰かが読む日が来るかもしれない。
ただ漫然と記録のために文字を書き連ねるのみ。それが何の意味を持つのかはわからない。
アレイに寄り添う気持ちとともに、文字を書き連ねるに留めるだけ。
不文の文字書きさん 明日key @key
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