桃味のフラペチーノ/小百合
その日の朝はいつもより早く目が覚めた。二度寝を試みてベッドの中で何度か寝返りを打つも、いまいち寝れそうにない。
仕方なく起き上がってリビングへ行くと、朝食の準備をしている母親が驚いた顔をした。台所からバターのいい匂いがする。
「あら珍しい。こんなに早く起きてくるなんて」
黙ったままケトルに水を入れてセットをし、カフェオレの粉末をマグカップへ注ぐ。
「今お父さんの分のオムレツ作ってるけど、あんたも食べる?」
いらない。
そう言おうとしたが、思い直して短く頷いた。今日はちゃんとご飯を食べておこう。
母親はまた驚いた顔をした後、顔をほころばせた。なんとなくバツが悪くなって、逃げるように洗面台へ行く。
顔を冷たい水で洗うと、なんだかすっきりとした気持ちになった。しかし顔をあげて鏡越しに見た自分は酷い顔をしている。肌も荒れてるし、クマも出来てて……なんて顔だろう。
鏡に映った目の下のクマにそっと触れる。しかしクマはきゅっと音を立てるだけで、当然ながら消えはしない。
台所へ戻るとお湯を注がれたカフェオレと、その隣にオムレツとスプーンが置かれていた。
「チーズ入ってるけどケチャップいる?」
「……いらない」
オムレツにスプーンを入れると、半熟の黄身とチーズがとろりとお皿に広がっていく。それを集めるようにスプーンで掬い、口に運んだ。バターとチーズのもったりとした塩気が、口の中に広がっていく。
目の前にバケットが入ったお皿を置かれ、小百合は母親を見た。この人はいつの間にこんなに老けたのだろう。あまり顔を見て話さないから、知らなかった。
小百合が母親の不倫を知ったのは、本当にたまたまだった。
小学六年生の塾の帰り道。近道をしようと薄暗い路地を歩いて居たときに、ホテルから出てくる母親と知らない男の人を見た。小学生とは言え、最終学年にもなるともうそこまで子供ではない。それが何を意味するかは察しがついた。
咄嗟に建物の陰に身を隠し、そっと背中を見る。大通りに出る前に二人は短くキスをすると、そのまま他人のように逆方向に歩き出した。
バクバクと音を立てる心臓をぎゅっとつかむ。凄いものを見てしまった。抱えてしまった秘密に泣き出しそうになりながら帰ると、先に帰宅したのであろう母親はいつも通りの顔をして「おかえり」と言った。さっき見たのは別人であったのかと思ってしまうほどに。
あれからもう五年経つが、あの日以来小百合にとって母親は母親ではなく、女になってしまった。しかし母親がミスを犯したのはあの一度きりで、それ以来小百合の前にいる母親は完璧に母をこなしていた。文句の付けようがないからこそ、嫌悪感を覚えながらも嫌いになりきれない。
半分食べたオムレツを見下ろす。
これを、あの男にも作ったのだろうか。
「もういらない」
そう言うと、小百合は立ち上がった。
部屋に引き上げたはいいものの、小百合はすぐに時間を持て余した。春と約束している午後八時には、あと十二時間もあるのだ。本を読もうとしても、スマホで映画を見ようとしても、内容が全然頭の中に入ってこない。
ため息をついて、スマホを手にする。履歴から美月の番号を呼び出し、電話をかけた。いくらなんでも朝早すぎただろうかと思ったが、もう遅い。
何コールかして諦めかけた時に、電話口から眠たげな声がした。
「なぁにぃ」
今の今まで寝ていたであろう美月の声に、なんとなく申し訳ない気持ちになる。
「今日の昼間、ひま?」
電話の向こうでごそごそと音がする。きっとスマホを持ったまま寝返りをうったんだろう。
「てかまだ八時じゃん。早すぎない? 小学生なの?」
「なんか起きちゃったんだもん」
「えぇー……まだ私起きたばっかだしすぐ出られないぃ……」
むにゃむにゃと言う美月は、しかし起き上がったようだ。んー、と伸びをする声のあと「で、何すんの?」と言った。
「なんかしたい事ない?」
「逆に聞かれるパターンだ。予想外」
美月が電話の向こうでうんうん唸っている。誘ったのは小百合だが、本当に何も思い浮かばない。美月の提案でとりあえず十時に中間地点の駅で会おうという話になり、電話を切った。
待ち合わせ場所について五分後、美月がやってきた。半袖パーカーにジーンズのミニスカートという、ラフな格好をしている。
「小百合ってワンピース以外着ないの?」
ついて早々、美月は小百合を見て言った。
「ワンピースって楽じゃない? 一枚着れば終わるし」
「私あんま好きじゃない。かっちりしてる感じして窮屈」
小百合は自分の格好を見下ろした。縦にストライプの入った膝丈のワンピースに、足下はサンダル。それだけだ。小百合からすると、ミニスカートやズボンをはいている方がなんだか窮屈そうに見える。
「とりあえず服でも見に行く?」
そういって歩き出した美月に着いていく。
ウインドウショッピングというのを、小百合はあまりした事がない。買いもしない服を手にとるのは躊躇われたし、何より店員に声をかけられるのが凄く嫌だった。
一方で美月はあまり気にしないのか、明らかに自分たちの年齢では買わないような店にもガンガン入っていく。
「見てみて! これ小百合っぽくない?」
そう言って身体に当てられたワンピースは、確かに小百合が普段着ているようなデザインのものだった。
「それ入って以来凄く人気なんですよぉ。 今朝やっと再入荷してきたんです」
いつの間にか定員が近くにいたらしい。小百合は思わずきゅっと身を縮こめた。
「でも私たち見ての通り高校生なんで、ちょーっと高いかなって思うんですよねぇ」
美月はワンピースを手にしたまま、本当に残念そうな声を出した。
「これでしたらぁ、お客様の、今の? 年齢でも十分着られますしぃ。大人になっても着やすい? デザインなのでぇ。長く着て頂けますよぉ」
会話の中に度々入る疑問形はなんなのだろうか。店員に対応する美月を見ながら、小百合はそんな風に思った。ちらりと見たタグには一万五千円と書かれている。
「やっぱめっちゃ可愛い。可愛いよねぇ」
「え? あ、そうだね。可愛いと思うよ」
「もし良かったらぁ、試着だけでもどうですかぁ」
「や、私は……」
「今日は見に来ただけなんで、またきまーす」
店員と会話をするのに飽きたのだろう。そう言って店から出る美月の後ろを、慌てて追いかける。
「ショップ店員ってなんでみんなあの話し方なんだろうね」
振り返ってくつくつ笑う美月は、いたずらっこのような顔をした。
「ごめんね、私が出かけたいっていったのに、やりたい事なんもなくて」
「別にぃ。小百合から電話してくるの珍しいからさ」
あ、スタバ。
そう言って美月は立ち止まると、店頭に置かれた看板を指を差し、小百合を振り返った。
「じゃあさ、これおごって」
珍しく沢山歩いた小百合にも、生クリームのたっぷりのったそのドリンクはとても魅力的に見えた。スタバで友達と休憩。なんて女子高生っぽい行動なんだろう。
気付けば午後一時。お腹もすいたし丁度良い。美月と居れば、あっという間に夜まで時間を潰せそうだ。
列に並ぶと、美月は急にやっぱり自分で払うと言い出した。
「昨日お兄ちゃんと会って、迷惑かけちゃったからさ」
そう言うと美月は少しだけしゅんとした顔をした。
「あの時は本当に行ったの後悔した」
「だからぁ、ごめんってばー!」
「いいよ、今日でチャラね」
「でもさぁ、秋月さん大人っぽくてすごい綺麗だったよねぇ。うちの卒業生だったとか、なんか嬉しいなぁ」
うっとりとした顔で美月は言ったが、正直あまり覚えていない。どう反応したものかと思いながら、小百合は曖昧に頷いた。
「大学生って大人だね」
「ね。超大人って感じだった。存在は聞いてたんだけどね。大学入ってサークルで知り合って、すぐ付き合いだしたって言ってたから」
「じゃあ二年くらいってこと? 会った事なかったの?」
「家に連れて来なかったからさぁ。彼女いるの自体、嘘かと思ってたもん」
話をしているうちに順番がきた。美月が指差しているのは期間限定のフラペチーノだ。どうせなら違うものを頼もうか悩んでいるうちに、もう一つのレジが開いた。
フラペチーノは一番見やすい場所にでかでかと乗っていて、サイズもワンサイズだ。
「あの、これください」
なぜ女子高生はみんなフラペチーノを飲むんだろうと思っていた。実際買おうとすると、なんて事はない。体験してみないと分からない事も多いなぁと思いながら、小百合も受け渡しカウンターにむかった。
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