空へ続く階段を/春
次の日になっても、夏希先輩は元気がないままだった。
昨夜ぼんやりした顔で花火を見ていた先輩は、今日も目の前ではない何かを見ている。それでもバイトには支障がなく、決められた業務を淡々とこなしていた。さすがに子供たちの監視役をさせる訳にはいかず裏方作業に回されたが、それに対していつものように抗議をすることもない。近頃はバイトにも炎天下にも慣れ、時に子供たちとはしゃぎすぎて叱られていた位だったのに。
心配したバイトの人たちに「何かあったの?」と聞かれる度、春は適当にごまかすしかなかった。元気のない夏希先輩を見るのは胸が苦しいが、かと言って安易に元気出して下さいとも言えない。明日がプールの点検日で良かったと思う。
昨日。
花火が上がる度に薄く光る夏希先輩の横顔に、春は何を言っていいのか分からず、ただ花火を見ているふりをしていた。
最初、夏希先輩は小百合に会いたくなかったのかと思った。周りを見るも、他に知り合いらしい知り合いは居ない。しかし小百合と一緒に居た女性が誰だか気付き、横を見ると夏希先輩の身体が小さく震えていた。涙を堪えるように唇をぎゅっと結んで、夏希先輩が春のTシャツの裾を握る。
「シーブリーズのキャップの人なんですか」
帰り道でそう聞いた春に、夏希先輩は否定も肯定もしなかった。ただ下を向いてとぼとぼ歩き、小さな子供のように春の指を握っている。通りには花火帰りの人が沢山居て、なんとなく春は人気の少ない道を選んだ。
しばらく二人とも、黙ったまま歩いた。ひぐらしの鳴き声と、二人分の足音。線路沿いを人並みに逆らうように歩き続けていると、次第に人も少なくなっていった。
「別に、付き合ってたとかじゃないんだ」
ぽつりと言った夏希先輩の声に、耳を澄ませる。小百合にも、秋月先輩にも会わなければいいなと思いながら。
「へらへらしてるけど本当は一番根性があるところも、意外とすぐ泣いちゃう弱いところも、手をつなぐ時自分の手が下にならないと嫌がるのも、キスしたあとは必ず唇を舐めて、恥ずかしそうに笑うのも……他の部活の子達が知らない事、たくさん知ってた。でも、別に付き合ってた訳じゃないんだ」
いつものように語尾を伸ばす、とろけたような甘い喋り方はしない。それはまるで、自分に言い聞かせるような口調だった。
「だから、仕方ないの」
夏希先輩が丁度そういったところで、花火大会の会場から二つ隣の駅に着いた。夏希先輩は春の指をすっと離すと、下を向いたまま、ありがとう、と言った。
「じゃあね、明日またバイトで」
ホームに向かう夏希先輩の背中を見送る。
女の子が好きじゃない子は、絶対に私たちを裏切る。
夏前に夏希先輩から受けた忠告を、頭の中で反芻する。夏希先輩は、私たち、と言った。小百合が初恋だから、春自身元々女の子が好きな人間かどうかは分からない。でもきっと夏希先輩は、元々女の子が好きな人なのだろう。
春は昔から女の子によくモテた。高校になってからはそれが顕著になったが、それは女子高という閉鎖的な場所で男の代わりを求めていた結果だったり、アブノーマルへの憧れであったり、興味本位であったり、様々だ。どちらにしても、思春期に抱く行き場のない恋心の矛先に、春が適任だっただけだ。
夏希先輩は過去、それを真に受け、傷付いたのだろう。だからこそ同じ種類の人間である春を気にかけてくれていた。
それでも春には分からなかった。小百合とは手を繋いで歩いた事も、キスした事もない。それがどんな形でも、好きな人に一番近くなった時間というのは幸せではないのだろうか。それとも、全て終わってしまえばそれすら傷にしかならないと言うのだろうか。
ぐっと手を握り込む。
折れそうになる心を叱咤し、春は昨日屋台の前で感じた事を強く思い出した。
理由がなくても連絡したり、寂しい時に寂しいと伝えられる関係になりたい。些細な事を伝え合いたいし、喧嘩だってしたい。みんなが見れない姿を、知らない顔を見たい。
私服姿の小百合をうまく思い浮かべられない事が、関係性の遠さが、とても悲しく、嫌だった。少し距離を取られた位で、連絡出来なくなった自分が情けなかった。
監視台の上に座る春からは、清掃道具が入ったバケツを手に歩く夏希先輩が見える。
子供の頃憧れたこの場所は、慣れた今もやっぱり思っていたような素敵な場所ではない。上がる時ももうドキドキしないし、はじめは高いと思った目線にも慣れた。
夢のように思えた場所も結局は現実と地続きだ。
でもはしごを登っても空にいけないからって、はしごを登らないのは勿体ない。
ここから見る景色は、下から見る景色とはまるで違うのだから。
今夜、春は小百合に告白する。
前のような勢いではなく、しっかり小百合の目を見て、まっすぐと。
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