ガラスの先の金魚/小百合
その日もいつものように、部屋にこもって本でも読んでいる予定だった。なのに、なぜか今、小百合の部屋には美月が居る。
「ありがとー! まじで助かった……」
宿題を写す手を止めないまま、美月は今日何度目かの感謝を口にした。余程切羽詰まった状態だったのだろう、お盆に置かれたままのグラスは汗をかいている。
手持ち無沙汰な小百合は、なんとなしにスマホを手にした。サイドボタンを押してみるも、LINEの通知はない。
「夏休みなにしてたん?」
美月の声で、小百合は頭を上げた。美月はやはりテキストに向き合ったままだ。
「べつに。家でごろごろしてたよ」
「ははは、まぁ小百合らしいけどさー」
「美月は? 遊んでたの?」
「遊んだ遊んだ。学校も部活もないしね。やる事ないもん」
「宿題あるじゃん」
「うっ……まぁそれはそうなんだけど」
カレンダーを見る。半分以上は終わっているとはいえ、まだまだ夏休みは長い。
「まだ夏休み残ってるし、ちゃんと毎日やれば自分で終わらせられるよ?」
「写せるなら写したいじゃーん」
そういうと美月は小百合を見てにやりと笑った。
「小百合だったらもうこの頃には終わってると思って」
悪びれることもない美月に、小百合は深いため息をつく。
とはいえ小百合自身、いつも部活をサボっては美月に迷惑をかけていた。お互い様だ。そうじゃなければ昨日電話がかかってきた時点で断っている。
窓の外を見た。カーテンレールには昔家族旅行に行った時に買った風鈴が下がっている。窓を開けない小百合の部屋でそれが音を鳴らす事はないが、飾り気のない小百合の部屋にある唯一の調度品だ。薄く透明なガラスに描かれた金魚が、今日も透かせた先の空を泳ぐ。
「てか小百合、マジで夏休みなんもしてないの? どっか行ったりは?」
そう言われて、一日だけ外に出たあの日の事を思い浮かべた。でもあれは出かけたとは言わないだろう。それに部活もない小百合に、学校へ行く理由はない。
「どこも。行きたいところもないし」
「えー! せっかくの夏休みだよ? 来年は受験だなんだで遊べなくなっちゃうんだよ?」
「どこ行っても暑いし、混んでるじゃん」
「そうかもしれないけどさぁ」
春の事を誰かに話す気にはなれなかった。もやもやしたものを感じてはいるものの、どう話せばいいのかわからない。
春といると楽しいし、小百合を見つけた時の嬉しそうな表情を可愛いと思う。ちょうど犬が飼い主を見つけた時のような感じだ。でも小百合は飼い主ではないし、春は犬ではない。小百合を好きだから、春はあの表情を小百合に向ける。
それに、夏希先輩。こんな事を思う事自体、善良なあの人に悪いなと小百合は思う。口に出さなければ小百合が抱く無責任な下心は無かった事になるし、夏希先輩以外には見破られていないそれを吹聴される事もない。
小百合はあの日以降、春の事を考える時間が減った。頭によぎった時は宿題をしたり本を読んだりしてやり過ごした。でもそこに少しだけ残った何かが気持ち悪い。
スマホを見る。何度見てもLINEの通知は来ない。
「美月って人好きになった事ある?」
小百合がぽつりとこぼすと、向かい側の美月が勢いよく顔をあげた。短く言葉を漏らした口が、ぽかんと半開きになっている。
「ちょ、まって。小百合、好きな人いるの?」
「ちが、うけど」
美月がずいっと身を乗り出した。いつになく真剣な表情だ。
「ぜったい言わない。約束する」
そう真摯に小百合を見る美月の口元が、相反するようにニヤけている。
「だからちがうって」
小百合が否定すると、美月は「えー!」と言って机に突っ伏した。いちいちリアクションが大きい。
「うそだー! だって小百合、今まで恋バナとかした事ないじゃん!」
「女子高生なんだから興味持つことくらいあるでしょ」
「そうやって思い出したかのように女子高生を持ち出すのが怪しい!」
「何それ? 思い出したんじゃなくてずっと女子高生なんだけど」
美月はしばらくぎゃあぎゃあ騒ぐと、「なーんだ」といって座椅子の背もたれに体重をかけた。
「なんで恋バナ?? 小百合そういうの興味ないどころか嫌いそうじゃん?」
「そんな風に見えてるの?」
「見える見える。ていうか何に興味あるのかもわからん」
美月はグラスを持ち上げると、一気にそれを飲み干した。
「小百合はねー、大人っぽい? というか、なんかバカにされそうな気がして話しかけにくい。俗っぽい事しなそう」
小百合はそれについて特に反応を返さなかった。自分がそういう風に見られているのは、なんとなくわかっている。
「私はさぁ、小百合が大人っぽい訳でもなく真面目な訳でもなく、ただ怠惰なだけって知ってるよ」
「言い方」
「だってそうじゃん。でも周りから見たらそう見えるって話よ」
下らないと思っているのは嘘ではない。その結果遠巻きにされる事は受け入れている。誰かいないと寂しいというタイプではない。
「そっかぁ。小百合も初恋かぁ」
感慨深げに頷く美月を見て、小百合は眉を寄せた。
「だからちがうって。そうじゃなくて、好きになるってどんなんだろうって。好きかどうか以前の問題」
小百合がそういうと、美月は眉間をぐっと押して難しい顔をした。
「えー、なんだろ。一緒にいて楽しいとか、きゅんってするとか?」
いやに抽象的な答えだ。美月も自分と同じなんだと思うと、少しだけほっとした気持ちになる。
「美月もわかんないんだ」
「だって中学も付属だったしさぁ。男子と関わる事ぜんっぜんないからね。恋とかしようがなくない?」
そう言って頬杖をつく美月に、心臓が大きく脈打つのを感じた。
「共学行ってたら今頃違ったんだろうなぁとか思うもん。小百合もそうだけど、外部から来た子達って大体中学は共学だったじゃん? だから少し羨ましい」
女の子は女の子を好きにならない。その常識的な意見に、小百合は喉の奥が苦しくなった。
女子高に居るとたまにわからなくなるが、本来そうなのだ。環境的に多いとは言え、それは自然な事ではないだろう。
そんな小百合の動揺をよそに、美月は好奇心に満ちた視線を向けた。
「中学とかどうだったの? 小百合女の子らしいしモテそうじゃん」
「何それ。男子と話す事もほとんど無かったよ」
「えー、もったいなーい」
「付き合ったり別れたりしてる人はいたけどね」
「あー、まぁそれはうちもあったかなぁ。って言っても噂話の範疇だけどね」
体が冷たい。クーラーの温度をあげようと、リモコンを操作する。28℃から30℃に切り替えると、クーラーはごぉ、という音を立てたあと、静かになった。
「バスケ部の春とか、共学に居たの信じられない位「女子高!」って感じだよね」
「……そう?」
「そうだよ。実際後輩とかにめっちゃモテるじゃん。小百合、仲良いじゃん? 嫉妬とかされないの?」
「嫉妬?」
「なんであんたが、みたいな感じで呼び出されたりとか。中学ん時、それで大騒ぎになった事あったんだよね」
「……てか宿題うつさないとヤバいんじゃないの? やりなって」
小百合がそういうと、美月は「はぁい」とシャーペンを拾ってテキストに向き合った。再び、シャーペンが走る音が聞こえてくる。
美月のグラスに麦茶を注ぐと、小百合は本棚から本を取り出した。
ノートを書き写すカリカリした音と、小百合がページをめくる音しかしない。しかし開いている小説の内容は全然頭に入ってこず、目が機械的に文字を追うだけだった。
考えるのはさっき美月の言った言葉だ。
小百合が覚えている中で、春と仲良くしていて何か嫌がらせを受けた記憶はない。というより外から見ても春は仲が良いように見えていた事に小百合は驚いた。春の周りにはいつも誰かがいるし、小百合としてはその中の一人でしかないと思っている。春の気持ちは小百合しか知らない。
逆に春は嫉妬したりするのだろうか。頭に浮かぶのは嬉しそうな春の顔ばかりだ。春に嫉妬なんていう、粘着質な感情は似合わない。
「ていうか今日もうやめない? 疲れた」
顔をあげると、テーブルの向かいで美月は疲れ切った顔をしていた。しかしどう見てもテキストはまだ半分を過ぎたあたりだ。
「全然終わってないじゃん」
「いいよいいよ、どうせ今日一日で終わるつもりじゃなかったし」
「またうち来る気?」
「いいじゃん。暇でしょ」
暇だけどと返すと、「ていうか!」と美月が大きな声を出した。
「今日花火大会あんだってぇ、行こうよ」
「えー……美月と花火ー……?」
「えー! いこうよぉ。手つないでてあげるから」
「それはいいや」
窓の方を見る。青い空を泳いでいた風鈴の金魚は、今は赤い空を泳いでいた。
「かき氷おごるからぁ」
懇願する美月に、今日何度目かの溜息を返す。
「……仕方ないなぁ」
そういうと、美月は大喜びで両手をあげた。
一度くらい夏らしい事をしても良いだろう。小百合は息をつくと、二人分のグラスを片付けるために立ち上がった。
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