塩素のにおい/春

 子供の頃、プールの監視台の上に座ってみたくて仕方がなかった。

 大人しか登る事が出来ない、空に近づく梯子。あそこから見た景色はどんなだろう。小さかった春は特等席のようなそこを見上げては登る方法を考え、そこからの景色を想像した。


 しかし実際に座ってみたそこはただただ暑いだけだ。憧れは憧れのままにしておいた方が良い事もある。はしゃぐ小学生たちの姿を見下ろしながら、春はそんな風に思った。

 暑さには慣れてるからと言って気安く受けたものの、炎天下でただ座っているというのがこんなにつらいとは思わなかった。汗を拭うのも面倒になってくる。対角線上の監視台に座る夏希先輩も同じ気持ちのようで、先ほどからうつろな目でプールを見下ろしていた。


「これから十分の休憩に入ります」


 放送が流れた。それを合図に、ホイッスルを吹きながら監視台から降りる。


「お疲れ様ー」


 子供たちがプールから上がるのを確認していると、他の監視員の人に声をかけられた。名前はなんだったろう、と春は頭を回転する。挨拶の時に名前を聞いた筈だけど、思い出せない。

 逆三角形の体に、真っ黒に焼けた肌。確か「夏の間はいつも監視員のバイトをしているから遠慮なく頼ってね」と、快活さを感じさせる表情で言っていた人だ。


「初めてだったよね。結構しんどいでしょ」

「あっ、いえ、まだ全然!」


 春がそう言うとその人は笑った。第一印象を裏切る事のない、爽やかな笑顔だ。


「しょっぱなから無理しなくていいよ」

「いいえ! 何かやる事があれば、なんでも言ってください!」

「ははは、高校生は元気だな」


 そう言ったあと、でもなぁ、と言って苦笑いする。


「でも夏希ちゃんはそろそろ限界そうだし、二人で休憩しておいで」


 二人で夏希先輩の方に視線を送る。夏希先輩は顔を下に向け、じっと自分の足元を見ていた。

 まるで夏休みの終盤のひまわりのようだ。


「すみません……」

「最初はみんなこうなるからね。気にしないで」


 そう言うとその人はプールの見回りに戻っていった。

 夏希先輩には悪いが、先にバテてくれたおかげで助かった。正直言って春ももうふらふらだ。体力には自信があった方なのに、なんだか悔しい。






 休憩室につくと同時に、夏希先輩は長テーブルに倒れこんだ。


「あー!! つかれたぁ」


 休憩室はクーラーが効いていて、程よく涼しい。春としてはもっとガンガンに効かせたいところだが、おそらく濡れたまま来るバイトの為にこの温度設定なのだろう。エアコンのリモコンには「26°厳守!」と赤文字で書かれている。


「プールの監視員とかさぁ、なんか気持ちよさそうだな~って思ったんだけどぉ」


 春も夏希先輩から誘われた時、同じように思った。二人ともプールで遊んだ記憶を元に想像していたのだろう。よく考えてみれば分かりそうだが、蒸し暑い体育館で提示されたそれはとても魅力的な提案だったのだ。その上、夏休み限定なら余計都合が良い。


「でも休みの日は自由にプールに来ていいって言ってましたし、良いバイトですよね」

「まぁねぇ。でもバイト先の人たちに監視されながら遊ぶ気になるかっていうと微妙だけどぉ」

「あれ? 夏希先輩そういうの気にするタイプでしたっけ?」

「夏希ちゃんはぁ、春ちゃんと違って繊細なんですぅ」


 夏希先輩はぐーっと背伸びをすると、じっと春を見た。


「春はさぁ、来年もあるじゃん。良かったの? バイトなんかして」

「……そう思うなら誘わないでくださいよ」

「だってぇ。春と部活以外にも思い出作りたかったんだもーん」


 いつも通りのふざけた口調で夏希先輩が言う。



 先週、大会が終わった。

 負けてしまった事は悔しかったが、それ以上に先輩たちが引退するのが悲しかった。たくさんの時間を一緒に過ごした先輩達とは、もう部活では会えない。三年生にとっては最後の試合だったのだ。そう考えると、あの時ああしておけば、こうしておけば、という後悔が頭をぐるぐるめぐる。

 二年生の春としては、良い経験をたくさんできた。二年生でスタメンだったのは春一人なので、来年は春が引っ張っていくことになるのだろう。でも。


「そんなすぐ来年なんて。切り替えられないですよ」


 春のこぶしに力がこもる。

 そんな春を夏希先輩がパイプ椅子ごと引き寄せた。


「春の方が落ち込んでたらだめじゃーん!」


 そう言っていつものようにへらりと笑うと、春の頭をぽんぽんと撫でた。

 こうして夏希先輩と遊んでいられるのはいつまでなんだろう、と春は思う。夏希先輩とは部活の先輩後輩という以上に仲良くしてきた。でもそれは同じ部活で、同じ学校だったからだ。来年から夏希先輩は大学生で、春は受験生だ。きっと今まで通りにはいかない。


「そうですよね。大学行ってもたまには部活に顔出して下さいね??」

「もー、寂しがり屋だなぁ、春はぁ」


 余裕のある反応に、春は少しむっとした。こんなにさみしいのに、夏希先輩は寂しくないのだろうか。去る側より残される側が寂しいのは、なんだか不公平だ。

 夏希先輩はこんな気持ちになった事はないのだろうか。そう考えた春はふと、秋月先輩の事を思い出した。


「そういえば先輩、秋月先輩と仲良いんですか??」


 春の質問に、夏希先輩は肩をびくりとさせた。本当に驚いたようだ。今まで見たことのない顔で、春を見ている。その反応に、春は胸の内で首をかしげた。


「びっ……くりしたぁ。久しぶりに聞いたよぉ、その名前。学年被ってなくても知ってるんだぁ。」

「そんなびっくりします?? 有名人ですもん。秋月先輩」


 春にとって、夏希先輩はスタメンとして一緒に試合をする中で実体を持っていった憧れの存在だが、秋月先輩にはいわば芸能人に感じるような憧れを持っていた。その二人が仲良かったというなら、春にとってこんなに嬉しい事はない。


「別にフツーだよぉ? ただの先輩とこーはい」


 しかし春の期待とは裏腹に、夏希先輩は淡泊な様子でそう返した。部活で聞いた話では、結構仲が良かったという印象を覚えたが、春の勘違いだったのだろうか。

 そう思うも、秋月先輩と夏希先輩は二つ違いだから、春とは距離感が違ったのかもしれない。少しズレを感じたものの、春はすぐに深く考える事をやめた。


「そっかぁ、残念。仲良いって聞いたんで、もし今も連絡とってるなら」

「あ!!!」


 春の言葉を遮った夏希先輩が、大きな声と同時に立ち上がった。


「そんな事よりさ、夏祭りいこーよ夏祭り!」

「来週でしたっけ?」

「今週末ぅ! あ、でも春きゅんは大好きな小百合ちゃんと行くのかにゃぁ?」

「いや、別に。そんな話してないですけど……」

「あ、そうなの? てっきり大会終わってすぐ連絡とかしてるのかと思ったぁ」

「んー……そのつもりだったんですけど……」


 小百合に連絡は出来なかった。「また新学期、学校でね!」なんて言われてしまったら、連絡なんかできる訳がない。

 あの言葉に深い意味があるのだとしたら拒絶であるし、無いのだとしたら夏休みに自分と会う事を一切想定していないという事だ。どっちの意味でも春にとって旗色の良い言葉ではない。


「じゃあ一緒に行こうよぉ、夏祭り!」


 春を見る夏希先輩の目がきらきらしてる。春はその顔を見て、思わず噴き出した。

 夏希先輩は年上なのに、どこか子供っぽくて可愛らしい。


「いいですよ。可愛い先輩の為に、良い子の後輩が思い出作り手伝ってあげます」

「あー! なんか上から目線だぁ。ばかにしてるでしょぉ」


 笑いあっていると、施設内にプール休憩の放送が流れた。見ると休憩室に来てから三十分以上たっている。春は立ち上がると、大きく背を逸らした。


「とりあえずあと少し、頑張りましょ」

「うん! 元気でたかもぉ。終わったら当日の相談しよ」


 二人はバイト代が入ったら何をしたいかを話しながら、照り付けるプールサイドへ向かった。

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