四角く切り取られた青/小百合

 夏希先輩が小百合の顔を覗き込んでいる。続けて遠く見えたのは、校舎で区切られた空。


 (……青い)


 瞼を開いた先の光景に、小百合は率直にそう思った。

 狼狽した夏希先輩と地面に横たわる自分から、何が起こったかは大体想像がつく。そういえば最後にご飯を食べたのはいつだろう。

 小百合は普段からよく貧血をおこす。人前で倒れたり電車を遅延させたりする度、申し訳無さと恥ずかしさでいたたまれなくなった。元々出不精な事もあるが、それもあってあまり外出はしない。その上夏はいつも以上に食が細くなるから余計だった。

 夏希先輩を安心させようと上体を起こそうとするも、まだ耳鳴りは酷いし視界もチカチカする。

 落ち着け、大丈夫。

 そう言い聞かせると、小百合はゆっくりと口を開いた。


「……ごめんなさい、びっくりしましたよね」

「凄い勢いで倒れたからぁ……どこか打ったりしてない?」

「大丈夫です、あの、ほんと、ごめんなさい」


 そう言いつつも起き上がろうとしない小百合に、夏希先輩はやはり動揺しているようだった。夏希先輩の手が、小百合の頭を遠慮がちに撫でる。


「どうしよぉ、どうしたらいいかな、えぇっと」

「先輩、部活戻らなきゃですよね? 日陰ですし、しばらく休めば平気なので……」

「こんなとこに倒れた女の子置いて部活なんか戻れないよぉ」


 小百合よりも青い顔をしている夏希先輩が、どうしようどうしようと繰り返す。


「えぇっと、でもとりあえず何か飲んだ方がいいよね!」


 夏希先輩はそう言うと、立ち上がって体育館に駆けていった。少しづつ遠ざかる足音に、ふ、と息を吐きだす。

 経験上、しばらくゆっくりしていれば問題ない筈だ。深呼吸を繰り返し、体の感覚が戻ってくるのを待つ。静かでひんやりとした校舎裏。ここにいると、体育館から楽しそうな笑い声が漏れ聞こえてくる。

 そうしているうちに足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。ゆっくりと目を開け、足音の方に頭を傾ける。


「お待たせぇ。ていうかここに居たら暑いよねぇ、ごめんねぇ、あたしテンパっちゃって」


 夏希先輩は小百合を抱き起して座らせると、ドリンクボトルを渡した。きっと急いできてくれたのだろう。夏樹先輩の息がきれている。

 ポカリの味が口に広がっていく。冷たい、それにとてもおいしい。さっきまで飲み物が欲しいだなんて思っていなかったのに、どうやら喉が渇いている事にも気付いていなかったらしい。

 ごくごくと喉を鳴らしてボトルの中身を減らしていく小百合を見て、夏希先輩は安心しているようだった。さっきまで得体の知れない人だった夏希先輩は、こうして見るととても分かりやすく、素直な人に思える。


「熱中症かなぁ。気持ち悪い? とりあえず保健室いくぅ? あそこ冷房効いてるから」


 そういうと夏希先輩は小百合を抱き起した。立ち上がる際に少しだけふらついた小百合にそっと肩を貸す。汚れてしまった小百合のワンピースを払い、何故か夏希先輩は泣きそうな顔をした。


「洗って綺麗になるかなぁ」

「あんまり外出かけないし、汚れても大丈夫です」

「そういう問題じゃないでしょー! 本当にごめんねぇ、私がもっと早く気付いてあげればよかったのに……」

「夏希先輩のせいじゃないので、本当に気にしないでください」


 誰もいない校舎はしんとしていた。校舎の中に入ると、それだけで少し涼しく感じる。日陰なのもあるだろうが、何より人が居ないからだろう。いつもは上履きを履いて歩いている廊下を、私服にスリッパで歩いている事が不思議だと思った。

 ちらりと横を見る。夏希先輩は私と目が合うと「大丈夫ぅ?」と言って、情けない顔をした。


「夏希先輩って良い人なんですね」

「確かに面倒見の良い先輩で通ってるけど、これ位当たり前だよぉ?」


 人気のある先輩と校舎に二人きりなんて、きっと恋愛小説だったら夢のようなシチュエーションだろう。ミーハー気味な美月に話したらきっと羨ましがられる。

 途中途中何度か廊下に座り込み、やっとの事で保健室に着いた。着いてすぐにベッドに案内され、そのまま倒れこむ。汚れた服で真っ白なシーツに寝転がる事に気は咎めるが、それでも横になって良い場所は安心した。

 まだ少し、耳が遠い。

 小百合はため息をつくと、利用名簿に記名している夏希先輩の背中を見た。


「あの、よくなるんです、眩暈とか立ち眩みとか」

「んん? そうなのぉ?」


 夏希先輩が振り返る。……よかった、さっきよりは顔色がいい。夏希先輩の狼狽えぶりは、倒れた小百合の方が心配になってしまう程だった。


「そうなんです、だから本当に先輩が悪い訳じゃなくて、ごめんなさい」

「……たまぁに部活中にそうやって倒れちゃう子いるから、慣れてる筈なんだけどねぇ」


 こっちこそテンパってごめんねと、困った顔をして笑った。いつの間にか作っていた氷枕を、寝ている小百合に持たせる。


「ついててあげたいんだけど、部活抜けてるからまた戻らなきゃなんだぁ」

 

 申し訳なさそうにする夏希先輩に、なんとか笑顔を作る。


「ここまで連れてきてくれてありがとうございます」

「先生への報告とはしとくから、落ち着いたらそのまま帰っていいからねぇ」


 じゃあねと言って、夏希先輩が保健室を出て行った。足音が遠くなり、再び静かになる。時計の秒針の音を聞きながら、小百合は目を閉じた。


 きっといい人なんだろうな、と思う。春が懐いている先輩だ、悪い人な筈がない。

 さっきの言葉も、別に小百合を傷つけたかった訳ではないのだろう。傷付かなかった訳ではないが、小百合にだってそんな事はわかっている。

 寝返りをうち、窓の外を見た。部屋の窓から見るのと同じ、四角く切り取られた青い空だ。

 保健室のリネンは硬くてゴワゴワしてて、ちっとも寝心地は良くない。でも不思議と部屋にいるより心が落ち着いていく。

 部屋だってクーラーが効いてるしベットは寝心地が良いのに、何故か部屋の中にいると息が詰まりそうな気持ちになる時があった。元々物が多いタイプではないが、必要なもので構成された部屋に居る事に、酷く息苦しさを感じる時がある。もしかしたら必要になるかもしれないと思って揃えた化粧品も、部屋も、家も、両親も、全て大事なものだ。しかし周囲にあるものを特別大事にする訳でもなくなんとなくその便利さを享受し、現状に満足してしまう矛盾が、自分が……酷く小さなものに感じた。

 きっと春は違う。新しいものをぐんぐん取り入れて、それらを大事にしながら進んでいけるだろう。そんな春を、小百合は自分とは違う人間だと思う。小百合には無理だ。必要なものを適当に周りに置いている癖に、それがなくなったら一歩も進めない。それが分かっているから、何かに一生懸命に取り組んだりしなかった。駄目だった時、自分がどうなるか分からない。

 でも保健室にあるものは、小百合の為にあるものではない。この位の距離感のものが、小百合にとっては心地よかった。それがないと生きていけないなんて、なんて窮屈なんだろう。



 一時間ほど保健室で横になっていると、大分体が軽くなった。まだ日は高いが、まっすぐ帰れば平気だろう。小百合は保健室を出ると、事務員さんに頭を下げた。


「ありがとうございました」

「本当にもう大丈夫? 親御さんに連絡とった方が……」

「いえ、もう歩けるので」


 心配そうにする事務員さんに会釈を返して職員玄関を開けると、同時に蝉の声がけたたましく響いた。そのうるささと日差しの眩しさに眉を顰める。

 体育館の前を通る時も、以前のような緊張はなかった。中から響く声に耳をそばだてる事もない。小百合は自分の変化に、とても安心した。これでやっと変に舞い上がったり落ち込んだりする事もない平穏な日々が戻ってくる。よくよく考えれば最近が少し変だったのだ。


「小百合……っ!?」


 一瞬、蝉の声が止まった。

 久しぶりに聞いた春の声。

 思わず体育館の中に視線を送る。


 春は驚きつつ、嬉しさを滲ませた目で小百合を見ていた。その表情に心臓の奥の方がきゅっと締め付けられる。

 その春の背中越しに、夏希先輩が見えた。春の大好きな夏希先輩。あまり良い印象を持っていないであろう小百合に対しても、とても良い人だった。

 唇をかみしめ、視線を春に戻す。


「練習がんばってね!」


 春に届くように大きな声でそう言うと、小百合は笑った。大きく手を振って、仲の良いクラスメイトがそうするように。

 今度こそ嬉しさを顔全面に出した春が、同じように小百合に大きく手を振る。


「ありがとう! あの、ラインっ」

 

 口ごもる春の言葉に、小百合が声をかぶせる。


「うん! また新学期、学校でね!」


 小百合は背中を向けると、足早に校舎を後にした。

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