味の薄いポカリスエット/春

 いつの間にか体育館から消えていた夏希先輩は、戻ってきて顧問の所へ行くとまたすぐ体育館を出て行った。その時一瞬春と目が合うも、直ぐに背を向け校舎の中へ消えていく。

 春はそれを横目に見ながら、マネージャーから受け取ったドリンクボトルを傾けた。勢いよく傾けたせいで口の端から漏れたが、それがかえって気持ち良い。Tシャツの裾を捲り上げると、汗と一緒に零れた分をぬぐった。

 夏の体育館は地獄のように暑い。しかし春はこの暑さがそんなに嫌いではなかった。中学でバスケ部に入って以来、春は夏を全てバスケに捧げている。それは今年も変わらない。どれだけ暑くてもどれだけ辛くても、夏は長い方が良いと思っている。


「休憩何分まで?」

「十分までって言ってましたよ」

「私次誰とチーム組むんだっけー?」

「あたしあたし! 今のうちに作戦きめとこーよ」

「作戦って、あんたらに猪突猛進以外の作戦あるの?」

「たしかにー!」


 笑い声が体育館に反響する。今日は実践的な試合形式の練習だからか、休憩中もみんなのテンションが高い。かくいう春も良い感じに心も体も温まっていて休憩時間なんか必要ないくらいだが、調子に乗って筋でも痛めたら大変だ。ストレッチでもしようかと周りを見渡すと、同じ事を考えていたであろう先輩と目が合った。


「ね、春ー! ちょっと背中押してくれない?」

 

 先輩に呼ばれた春は、ドリンクボトルを置くと先輩の元へ行った。


「いきますよ」

「おっけ、ストップって言うまで押して、深呼吸したらまた押して」

「おっけーです」


 汗で濡れたTシャツ越しに、ぐっと背中を押す。先輩は少し苦しそうな声を漏らしたが、そのままと手でジェスチャーをした。


「ベスト16、ですね」


 ぽつりと漏らした春の言葉に先輩が振り返る。そして前を向き直すと、弾んだ声で「そうだねー!」と返した。


「正直、そこまでいけたなんて信じらんないかも」

「うちのベストって、16が最高でしたっけ?」

「そそ。あたしが一年の時の三年生がとったんだよね。まさか自分らが並ぶ結果出せるとは思わなかったなぁ」

「生では見てないんですけどね。録画見てここに来るの決めたんです」

「あ、そうなん? 春ってどこ中だったっけ?」

「山二です」

「あー、あそこかぁ。そんなら夏は自分らの事で精一杯だよねぇ」


 先輩はそう言ったが、春の通っていた中学校は決して強豪校という訳ではなかった。そこそこ強いくらいの、普通の公立中学校。それでも頑張れば望む結果は残せると信じ、春達は全国大会を目標に努力した。しかし全国の壁は高く、それどころか県大会のベスト32にも入れなかった。

 大会が終われば三年は引退。残り僅かな夏休みを与えられ、受験生という肩書きに向き合うことになる。

 漫然と机に向かうも、シャーペンの背をノックするばかりでなかなか宿題は埋まらなかった。将来なんか何も見えてないのに、勉強なんかしてなんになるのか。

 その時なんとなしに流していたのが、この高校のバスケ部の試合だ。

 

「二番の人すごかったですよね」

「すごかったねぇ。夏希だって負けてないけど、やっぱ秋月先輩は別格だったよ」


 楽しそう。

 それがこの高校のプレーを見た春の率直な感想だった。どれだけ追い詰められた状況でも、全員の息のあった連係が崩れない。その中でシューティングガードの選手は踊るようにコートを駆け回っていた。あんな風に動けたらどれだけ楽しいんだろう。あんな風にバスケがしたい。そう思って春は今の高校に進路を定めた。

 もっとバスケの強い学校はあるし、推薦の話もあった。バスケを続けるなら他の高校を選んでも良かっただろう。しかし春の進学希望を聞いた部活の仲間は、同意と共に納得してくれた。


「あの試合見ちゃうとね、わかる」

「でも春、もったいなくない? あそこって弱くないけどそこまで強いって訳でもないしさぁ」

「そうそう。せっかく推薦ももらってたのに」

「あと春、女子高行ったらめっちゃモテそう」

「今もモテてるのにねぇ」

「えー、なんか私たちだけの春じゃなくなるみたいで嫉妬すんだけどぉ」

「彼女とか出来たら言ってね!」


 その時春は「あそこにはバスケしに行くんだよ」と笑って返した。それが、まさか。

 そういえば夏休みに入ってから、小百合に会ってない。LINEを送ろうと思ったことは何度もあるが、今の春は毎日バスケして家に帰れば泥のように眠る生活をしている。共通の話題のない小百合になんと送ればいいのか分からなかった。

 小百合の事だから、夏休みもどこも出かけずに家に居るんだろう。プールに行ったりする印象はない。そもそも小百合の白い肌に炎天下は似合わない気がした。どちらかと言えば小百合には夜の方が似合う。

 小百合は普段どんな服を着るんだろう。寒がりな小百合の事だ、夏と言えど夜はカーディガンを羽織るのだろうか。

 そうだ、再来週は大きな花火大会がある。それなら――


 そこまで考えた春は頭を振り、小百合の事を頭から追い出そうとした。

 今週末はベスト8をかけた大事な試合だ。ここで勝てればベスト4。その先だって見えるかもしれない。全てをかけてきた先輩達の為にも、春が居る事でスタメン落ちしてしまった先輩の為にも、そんな事は思ってはいけない。


「どこまでいけるかな」

「え?」

「地区大会。どこまで勝てるかな」


 先輩の声の弱さに、どきんと心臓が鳴る。

 空気を変えようと、春は「目指せ全国!」と叫んだ。それを聞いて、周りの先輩達が笑う。春はほっとした気持ちで、向かい合わせになって開脚した先輩の手を引いた。大丈夫、先輩も笑っているし、自分も笑えている。


「春もやっぱ秋月先輩目当てでうち入ったんでしょ?」

「目当てっていうか、あんな風にプレー出来たら最高だなと思いますし、一緒に試合してみたいとは思いますね」

「ぼこぼこにされたりして」

「先輩知りませんでした? 私そういうの燃えるタイプなんですよ」

「ドエムだ」

「ドエムですよドエム。一回くらい一緒にやってみたいなぁ。生で見るだけでもいいです」

「まぁ私も憧れてたから分かるよ」

「そういえば秋月先輩って今もどっかの大学でやってたりするんですかね」

「どうだろうなぁ。他の先輩はたまに来るけど、秋月先輩来なくなったし。夏希だったらわかるんじゃない?」


 意外な名前に春は驚いた。夏希先輩から秋月先輩の名前を聞いた事はない。仲が良かったと言うが、最近は会ってないのだろうか。

 先輩は最後にぐーっと背をのばすと、ありがとー、と言って立ち上がった。先輩の履いたボロボロの、しかしよく手入れされたシューズがキュッと音を立てる。それと同時に顧問のホイッスルが鳴った。


「休憩終わり! 1チームと2チームはコート入って、一年はアップ!」


 顧問の声に全員が散り散りになっていく。いつの間にか戻ってきていた夏希先輩は、チームメンバーに手を合わせて謝っているようだ。

 大会が落ち着いたら、夏希先輩に秋月先輩の話を聞いてみよう。もしかしたらあの時の憧れと試合ができるかもしれない。そう思った春は俄かに楽しい気持ちになった。

 楽しいであろう先の予定は多い方がいい。すっかり気持ちを切り替えた春は、コートに向かって走った。

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