窓越しに聞く求愛の歌/小百合

 窓ガラス越しに見える空は青く、日差しも強い。耳障りな蝉の求愛も、クーラーの効いた室内にはささやかにしか届かない。

 きっと外は今日も猛暑なのだろう。

 自室で一人、小百合は窓の外を思いながらカーディガンを羽織った。設定温度が二十八度な事を確認して、リモコンをベッドに放り投げる。どうしてクーラーの設定温度と効き方はイコールじゃないんだろう。

 ベッドに腰かけて読みかけの小説を開く。さて、どの行からだったろうか。そう思い目を走らせていると、部屋の扉がノックされた。

 コンコンという、人差し指の第二関節で扉を叩く軽い音が二回。


「小百合?」


 部屋の外で声がする。小百合は咄嗟に扉を見て、鍵がかかっている事を確認した。とはいっても以前小百合が怒って以来、母親が扉を勝手に開ける事はない。


「そうめん茹でたけど、一緒に食べる?」

「んー……いらない」

「そう言って昨日も食べなかったでしょ。なにか食べないと」

「お腹空いたら食べるよ、うるさいなぁ」

「またそんな事言って……そうやってずっと部屋の中に居たらカビ生えるわよ。市営プールの無料券あるから、行って来たら?」

「うるさいって。夏休みなんだから、好きに過ごさせてよ」

「分かった分かった。お母さんあと三十分くらいで出ちゃうから、ちゃんと食べなさいよ」


 スリッパの音が遠ざかっていく。リビングの扉が閉まる音を聞いて、小百合は大きく息を吐きだした。母親というのは、どうしてああもうるさいのか。

 きっと今日も暑い。クーラーの効いた室内で、ゆっくり過ごす方が良いに決まってる。

 でも確かに夏休みが始まってからずっと家の中に閉じこもっているのは良くない。めんどくさいけど、もう少ししたら出かけよう。そう決めた小百合は、閉じていた小説を再び開いた。




 玄関を開けると同時に、さっきまで遠くに聞こえていた蝉の鳴き声が急に大きくなった。ただでさえ暑いのに、蝉の声は暑さを強める。小百合は鍵を閉めると、急いで日傘をさした。

 目的地は特にない。行きたい場所もない。

 しかし照り付ける日差しは「早く行き場所を決めろ」とばかりに、ジリジリと小百合を責め立てた。

 どうして夏はこうなのだろう。暑さも、うるささも、思い出を作らなければいけない雰囲気も、全部好きになれない。夏はいつだって小百合を立ち止まらせてくれない。

 暑い。汗と共に、思考も溶け出していく。クラクラしだした頭で、小百合はいくつか行く場所を思い浮かべた。

 図書館。デパート。プール。学校。


 ……学校。


 春は、どうしているだろう。

 連想ゲームのように、小百合は春の事を思った。

 いや、違う。

 きっと小百合は春の事を思ったから、学校を思い浮かべた。


  財布に入れっぱなしの定期を確認する。大丈夫、まだ期限は切れていない。学校にはきっと春がいる。そう思いながら、小百合は学校へ向かって歩き出した。




 夏休みになってから、春とは連絡をとっていない。


「小百合は夏休みどうするの?」

「特に予定はないけど」

「ふーん」

「春は?」

「大会が終わるまでは毎日練習かな」


 終業式の時にそう言ってた事を思い出す。

 毎日昼まで惰眠を貪り、特に何もせず過ごす小百合とは大違いだ。部活という青春に身を捧げる春を尊敬するが、かと言って小百合が美術部へ行ってもやる事はないし、身を捧げる程の情熱もない。

 ただ春の事は眩しいと思った。

 夏休み明けに発生する、ひと夏の経験を匂わせて大人ぶる同級生より、よっぽど羨ましい。

 その一方で、春のチームが大会で早く負けてしまえばいいとも思った。バスケに熱中している間は、きっと春から連絡は来ない。

 自分はこんなに嫌な奴だったっけ。

 そう思いながら、小百合は流れる汗を拭った。友達が一生懸命取り組んでるものが、台無しになってしまえばいいと思うなんて。

 そんなの誰にも言えないし、誰にも知られたくない。




 体育館の方からバスケットボールの弾む音と、バッシュの鳴る音、指示を出すコーチの声が混ざって聞こえて来る。きっと扉が開いているのだろう。目的地である体育館はもうすぐだ。

 小百合は視線の先、体育館を見ながら考えていた。

 春にあったらなんて言おう。


 久しぶり。

 来ちゃった。

 頑張ってる?


 どれも正しい気もするし、間違っている気もする。

 会う事を考えるだけで、小百合の胸はドキドキした。体育館へ向かう脚が、勝手に早くなっていく。

 どうしよう、まるで恋してるみたいだ。


 体育館の扉まであと少し。

 というところで、大きく開かれた扉から、誰かが飛び出してきた。思わずハッと息を呑み、立ち止まる。

 しかし、その人は小百合が期待した人物より背が低い。安心したような、残念なような。小百合は複雑な気持ちでぼんやりとその人を見た。

 しかし、それだけでは終わらなかった。その人はくるりと小百合を見ると、驚いた顔をしてこちらへ駆けてきた。


 最初はこちらを見ているという事自体が、小百合の勘違いかと思った。自分以外の人物を見ているのかと、後ろを振り返ったりもした。しかし、小百合の周りには誰もいない。ではやはり自分に? それはなぜ?

 その人はしっかりと小百合と目を合わせ、どんどん近付いてくる。そして戸惑う小百合の目の前までくると、ぴたりと止まった。


「小百合ちゃん? だよねぇ?」


 語尾を伸ばす、とろりと溶けた口調だ。

 固まる小百合に、その人は慌てたように付け加えた。


「あ、ごめんねぇ? 急に話しかけちゃって。春の先輩だよぉ。春と仲良しなら、私の事聞いた事あるかなぁ?」


 小百合はふるふると首を振る。先輩はその反応に「ありゃー、可愛がってるのに薄情なやつぅ」と頬を膨らませた。

 しかし春から聞くまでもなく、小百合はその人の事を知っていた。

 というよりもこの学校に通っていて、先輩の事を知らない筈がない。バスケ部のエースで、学校の有名人だ。そんな有名人が自分の名前を知っている事に、小百合は驚いて返事を返せなかった。


「それで、小百合ちゃんはどうしたの? 美術部は夏休みはやってないよねぇ?」

「えっと、別に、特に……」


 先輩から投げかけられた質問に答えつつも、小百合は違和感を覚えた。

 小百合の名前も、美術部に入ってる事も、何故先輩が知ってるのかはわからない。

 しかしそんな事より、先輩の言葉に含まれる少しの棘の方が気になった。


「少しだけお話ししようか?」


 そう言って先輩は小百合に笑いかけた。有無を言わさぬ笑顔に、小百合は頷く他ない。




「ごめんね? 怖がらせちゃった?」


 反対側の校舎裏まで連れてこられた小百合の表情を見て、先輩は小百合を気遣うように言った。そんなに強張っていたのだろうか。虚勢を張らなければ。なんとか笑顔を作る。


「いえ、大丈夫です」


 うまく笑えていたかどうかは分からない。でも先輩は安心したように「よかったぁ」と言った。胸に手を当てて息を吐き出す仕草はオーバーで、どこか嘘っぽい。

 日が当たらない分校庭より涼しいかと思った校舎裏は、その分ジメジメとしていて湿度が高く感じる。息苦しさに、小百合は無意識に喉に触れた。額を伝い、顎から垂れてきた汗が指先を濡らす。


 本当に気遣うつもりなら、こんなところに連れてこないでほしい。

 校舎裏で先輩と二人きり。

 どう考えても良い想像は出来ない。

 先輩に憧れている生徒ならまだしも、小百合は今さっきまで「人気のある先輩」以上の感想を持っていなかったのだ。


「それでなんですか?」

「小百合ちゃんはさぁ、きっと春に会いに来たんだよねぇ?」

「……まぁ、そうですけど」


 友達の練習を見る事は、別に悪い事では無いはずだ。だから小百合はそこを否定しなかった。他の後輩や同級生だって、バスケ部の練習を見学している。それと同じだ。


「春のことが好きなの?」


 しかし、そう言われた途端、小百合は口を噤んでしまった。口と喉が急激に乾いていく。小百合の中は渇いているのに、背中からはダラダラ汗が流れていった。


「好きって答えられないなら、春には会わないで欲しいなぁ」


 黙ったままの小百合に、先輩は困ったような笑顔でそう言った。優しい顔で、優しい口調。しかし有無を言わさぬ雰囲気だ。


「前に春が小百合ちゃんを追いかけて部活を早退した事あったでしょ?」

「……はい」

「今ね、春すっごく集中してていい感じなんだよねぇ。春は来年も大会あるけどぉ、私にとっては……いや、このメンバーでの大会は、この大会が最後なんだよ。だからね、いい状態の春を、そんな中途半端な気持ちで振り回して欲しくないなぁって」


 先輩が一言発する度に、世界がグラグラ揺らいでいくように感じた。この人はきっと小百合の薄汚い気持ちに気付いている。 誰にも知られたくないのに。だけどそれは、この人になぜかバレてしまっている。


「だって小百合ちゃん、春の事好きじゃ無いんでしょう?」


 ズルいよ、それは。


 それは、小百合に届くか届かないかの僅かなボリュームで発せられた、ハッキリとした小百合への非難だった。


 しばらくの沈黙の後、先輩はごめんねと言った。

 小百合は返事を出来なかった。一刻も早く、この場所から逃げ出したい。



 しかしその瞬間、ぐらり、と小百合の視界が回った。

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