下校途中のスイカバー/小百合
図書室は静かだ。普段なら聞き落としてしまうような、紙をめくる音、ノートを走るシャーペンの音が聞こえる。いつも放課後の校庭から聞こえてくる運動部の掛け声もない。
テスト期間前で結構な利用者がいるのにも関わらず、図書室はいつも通りの静かさを保っていた。視界の端の春は、先程から船を漕いでいる。一緒に勉強しようと言ってここへ来たのは良いものの、これでは教え合うことは難しい。
「春、眠い?」
シャーペンの背で春の肩を突き、小さい声で話しかける。春は勢いよく頭を上げると、焦ったように口の端を手で拭った。
「ごめん、寝てた?」
「寝てた」
「あー……」
春の目の前のノートはほぼ何も書かれていない。小百合がシャーペンと消しゴムを筆箱にしまうと、春は焦ったように小百合の腕を掴んだ。
「ごめん! 大丈夫、今度は寝ない!」
「さっきもそう言ってたじゃん」
「……怒ってる?」
「べつに」
そう言いながらも、小百合は春を置いて立ち上がった。そのまま図書室の扉まで向かう。背中から筆記用具を片づける、春の慌ただしい音が聞こえた。それでも小百合は立ち止まろうとしない。
「ごめん、ほんとごめんって」
図書館を出るところでやっと追いついた春が、小百合の手を取った。
「や……っ」
「ご、ごめん! 痛かった?」
春の問いに小百合が頷く。春は手を離すと、叱られた子犬のようにシュンと下を向いた。本当は痛くなんかない。ただ、突然触れられてびっくりしただけだ。でも今の小百合は、春にそれを言ってあげる気分にはなれなかった。
「図書館って静かで、どうしても眠くなっちゃって」
春は段々を語尾を小さくしながら、言い訳する子供のようにそう言った。体を傾けた小百合が、春の顔を下から覗き込む。春はバツが悪いようで、小百合の視線を避けるように視線を斜めに下した。その春の頬を、小百合がふに、とつまむ。
「い、いひゃい」
「許さない」
「えぇ……」
小百合は勉強なんて、本当はどうでも良かった。勉強だけをするなら一人でやった方が捗る。春を勉強に誘ったのは、放課後を一緒に過ごす為の口実でしかない。
「春さ、今日ずっと別の事考えてるでしょ」
春がぎょっとした顔で小百合を見た。ほら、やっぱり。小百合はそう思い、唇を尖らせた。春の頬から手を離すと、再び歩き出す。春は顔に出易いところが長所であり、短所でもある。
「ちが、くないけど、別に小百合に関係する事とかじゃ」
「へぇ? 春は私と居るのに私以外の事考えてるんだ」
「いや、それも違うというか」
早歩きで廊下を歩く小百合の少し後ろを春が追いかける。小百合にとっては早歩きでも、春にとってはそうでもないのかもしれない。春と小百合は身長も違えば歩幅も違う。現に徐々に息を切らしていく小百合に対し、春は呼吸一つ乱さずぴったりとついてくる。
「私、楽しみにしてたのにな」
「なにを?」
「春と勉強するの」
「そんなのわたしもだよ!」
「嘘」
「嘘じゃないし!」
小百合は自分を、これじゃあまるで思ったより構ってもらえなかった事に拗ねてる子供みたいだ、と思った。そう思うと、必死に謝る春が気の毒に思えてくる。
「寝ちゃったのはごめん! 考え事してたのも……ごめん。でも、楽しみにしてたのもほんとだよ」
もう小百合は怒ってなんかいない。でも春がうたた寝していたのも、別の事を考えていたのも事実だ。
でも。
そう思って、小百合はきゅっと唇を結ぶ。
春に悪気がないとしても、簡単に許してしまったら春へ渡すノートをまとめた昨夜の自分があまりに可哀想だ。
「ハーゲンダッツ」
「え?」
「ハーゲンダッツの限定のやつ。それでゆるしたげる」
確か今年は甘夏味が限定だった筈だ。
高校生のお小遣いと、小百合の昨夜のウキウキした気持ちへの代償としては妥当だろう。
「なんで春はスイカバーなの?」
「ん?」
二人は公園のベンチに座り、買ったアイスを食べていた。買い食いらしく歩きながら食べても良かったが、小百合がリクエストしたものがカップアイスな以上、食べ歩きにはあまり向かない。
「美味しいじゃん、スイカバー」
「春もハーゲンダッツにすればよかったのに」
「んー。夏ってハーゲンダッツよりガリガリ君とかスイカバー食べたくならない?」
春の問いに、小百合は首をかしげる。夏だろが冬だろが、小百合はハーゲンダッツが一番おいしいアイスだと思っている。スプーンで掬い、口に入れると甘夏の爽やかな甘さが口いっぱいに広がった。
「……ていうか、スイカバー食べた事ない」
「ないの!?」
「ない。スイカ好きじゃないし」
「スイカの形してるけどスイカの味はあんましないよ」
春が一口、赤い三角の先端を齧った。スイカの味がしないのにスイカバー? と小百合は思ったが、多分メロンパンがメロンの味がしないのと同じようなものなのだろう。じゃあスイカバーはなんの味がするのか。赤いから、いちご味?
「食べてみる?」
そう言って、春は今まで食べていたスイカバーを小百合の方へ向けた。春が口を付けた部分が唾液で濡れ、赤色を濃くしている。
「いいの?」
「いいよ、その代わり、小百合のもちょうだい」
「えー、金額的に釣り合い取れなくない?」
「でもそれ私が買ったのだしー」
「まぁそうか。じゃあ、いいよ」
「やった! 小百合が先に食べていいよ」
小百合は髪にアイスにつかないよう、手で片側の髪を押さえながら顔をかたむけた。口にふくむと、しゃり、と氷菓子の感触が唇に伝わる。おいしい、と言おうとして視線をあげると、春は太陽のような明るい笑顔で小百合を見ていた。
「ね?」
「……うん」
「小百合のも、一口ちょうだい」
アイスを掬って、春の口へ運ぶ。間接キスだ。どきどきしながら春の口元を見ていると、アイスを食べた春がびっくりした顔で小百合を見た。一瞬、考えを察されたのかと、どきっとする。
「なにこれ、美味しい」
「美味しいでしょ、ハーゲンダッツ」
「同じアイスだけど、別物って感じだね」
小百合は胸を撫で下ろしながらも、いつも通りの春の様子に少しだけ寂しい気持ちになった。春にも、自分と同じように意識していて欲しいと思ったからだ。
「でも私はやっぱスイカバーが好きだな。夏はシャリシャリしたの食べたいじゃん。ハーゲンダッツ高いし」
「じゃあまた私がハーゲンダッツ買った時に、一口だけ交換こしよ」
「いいの? 釣り合い取れないとか言ってたのに」
「いいよ、一口くらい」
そう言いながら、小百合は微かな下心を見透かされてないか、ドキドキしていた。紅潮する頬を見られないよう、ハンカチで汗を拭うフリをして隠す。
「あー……暑いね」
「もうそろそろ夏休みって時期だしね」
公園内では、早く起きてしまった蝉が求愛に鳴いている。
アイスを食べきってしまうと、もう行き先がなかった。ゆっくり食べようにも、初夏の暑さはあっという間にアイスを溶かしていく。
手持ち無沙汰になった二人は駅まで行き、しかし帰る事なく改札前でダラダラと話していた。明日になったらまた教室で会える。なのに、どうしてもすぐに帰ろうという気になれない。
いい加減日も暮れてきていたし、小百合はもう帰らなくてはいけなかった。次の電車に乗らなければ、門限に間に合わない。
「じゃあ、また明日」
「うん」
「今日やらなかった分、ちゃんと勉強しなね」
小百合が言うと、春は露骨に嫌そうな顔をした。ふふ、と笑うと、つられた春が、ははっ、と笑う。
「あと、これ」
小百合はなるべく自然に聞こえるように、慎重に声を出す。
「テスト範囲のノート、まとめといたから」
要るでしょ? とノートを渡す。春は「ありがとう」と受け取って鞄にしまった。そっと胸を撫で下ろす。小百合の今日の目的は、これで達成されたようなものだ。
「じゃあね」
そう言うと小百合は春に背を向け、足早にホームへ向かった。小百合は逆方向のホームだから、今電車に乗ってしまえば明日まで顔を合わす事はない。
背中に春の視線を感じる。
振り返りたい気持ちをぎゅっと抑え込み、小百合は滑り込んだ電車に乗り込んだ。
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