シーブリーズの香り/春
テスト期間前の最後の部活が終わり、帰り支度をしていると、すでに着替え終わった先輩がまだ着替えている春の隣へきた。おつかれぇ、と言った先輩に、お疲れさまですと返す。
「あれぇ? 春、なんか嬉しそうじゃない~?」
夏希先輩はそう言うと、にやにやしながら春の顔を覗き込むように首を傾げた。動きに合わせて、夏希先輩が愛用しているシーブリーズがふわっと香る。爽やかな香りは活発な夏希先輩にぴったりだ。
「そうですか?」
「うん、にやにやしてるよぉ? テスト前になると部活できなくなるってぶすくれてるのにぃ」
「いつもにやにやしてる夏希先輩と一緒にしないでください」
「お~言うねぇ」
語尾を伸ばす癖のある夏希先輩は、その口調のせいかふざけているような印象を与える。他の先輩と違って上下関係を意識させるような振る舞いもしないし、ともすれば後輩に舐められそうな程にフレンドリーな夏希先輩だが、エースとして実力を伴っている夏希先輩を舐めている部員はいない。
春にとっても夏希先輩は大好きな先輩だ。部のエースである先輩の事を尊敬もしている。下級生の中で唯一レギュラーに選ばれた時、先輩の中でプレーする事に慣れずに萎縮していた春と他のメンバーの橋渡しをしてくれたのも先輩だった。軽口を言っても許してくれる人だと分かってからは、特に仲良くなった気がする。
でもフレンドリーなのにどこか壁がある人だな、と春は常々思っていた。
「春のすきぴとなんかあったん?」
「すきぴって言わないでくださいよ! 馬鹿っぽいし、ちょっと古くないですか?」
「えぇ~! 古いかなぁ? でも女子高生の内しか許されないよぉ、こんな言葉。女子高生であるうちに使いまくらなきゃ~」
ケラケラ笑う夏希先輩は、バッグを床に投げ出すとその上に座り込んだ。春が着替え終わるまで待っててくれるつもりらしい。ならば早く準備しなくてはと、春は制服を頭からかぶった。Yシャツの裾から手を突っ込み、シーズリーズを体に塗りたくる。肌がひんやりと冷たくなり、襟元からすーっと良い香りが立ち上った。それだけで汗ばんでいた肌が清潔になった気がするから不思議だ。それを下から見てた夏希先輩に「セクシー」とからかわれた。
「テスト勉強誘われて」
「お、すきぴに?」
「だからすきぴって言わないでくださいよ」
「じゃあなんて呼んだらいいのさぁ」
唇を尖らせた夏希先輩に言われ、それもそうかと春は思う。以前小百合を追いかけて部活から飛び出した時、顧問や部員をごまかしてくれた夏希先輩には、後日理由を洗いざらい喋らされた。その時にやむを得ず好きな人がいる事は言ったが、しかし名前までは教えてない。
ならばしょうがないかと思いながら、春は丁寧にユニフォームやタオルをたたんでバックへ入れた。どうせ家に帰ったら出して洗濯するのだからぐちゃぐちゃに入れてもいいのだが、きちんとしまわないとどこかと気持ち悪い。だから春はいつも帰りが遅かった。今日だってもうみんな帰ってしまったし、部員は春と夏希先輩、あとは体育館で片づけをしている一年生しか残ってないだろう。
スマホで時間を見ると、完全下校時間の十分前だった。ロッカーを閉め、バッグを肩に下げる。
「お待たせしました」
「ま、知ってるけどねぇ、春と同じクラスの小百合ちゃんって子でしょ?」
春がそう言ってロッカーを閉めたのと、夏希先輩が小百合の名前を出したのはほぼ同時だった。驚きから目を見開いてるであろう春を見て、夏希先輩が喉の奥でくつくつと笑う。
「なんで知ってるんですか?」
「こないだ春の教室行ったでしょ? その子が一番春から聞いた話にぴったりだったから」
少し前に理由なく夏希先輩がクラスへ来たのを思い出す。春がため息をつくと、夏希先輩は楽しそうに声を弾ませた。
「それだけでなんで名前が分かったかって? 先輩の情報網を舐めないで欲しいなぁ~、美術部の小百合ちゃん、でしょ?」
「情報網って、どうせ先生に聞いただけの癖に……ちょっかいかけないでくださいよ?」
「可愛い後輩のすきぴにそんな事するわけないじゃーん!」
「信用できないなぁ」
そう言って軽口を叩き、部室を出る直前に、夏希先輩が立ち止まった。
「でもね、あーゆー子にはあんまりのめり込まない方がいいよぉ」
「……どういう意味ですか?」
「んー、老婆心? みたいな?」
なんで、と続けようとしたところで、体育館の掃除が終わった一年生達が入ってきた。先輩がいると思ってなかった彼女達が慌てて出て行こうとするのを引き留め、二人一緒に部室を出る。一年生の「お疲れさまでしたー!」という元気な声のあと、きゃっきゃとはしゃぐ声が聞こえた。夏希先輩か春のファンだったのだろう。さて、今年の一年生は何人残るのか。
二人で駅までの道を歩きながら、春は部室での会話を思い返していた。
夏希先輩はモテる。春だってモテる方だと思うが、夏希先輩は桁違いにモテる。バスケ部のレギュラーはみんなモテるが、なんたって夏希先輩はその中心であるエースだ。それなのに浮いた話を聞いた事がない。人の話にはガンガン首を突っ込む割に、自分の事は一切話さないのだ。本当に話す事がないのか、秘密主義なのか、春には分からない。
分からないが、さっきの話は数少ない夏希先輩の恋愛話に触れられるきっかけなのではないだろうか。そう思った春は深呼吸をすると、隣で昨日見たバラエティー番組の話をしている夏希先輩に切り出した。
「さっきのって、夏希先輩の経験談とかですか?」
一瞬だけ、空気が止まる。夏希先輩はちらりと春を見て、唇を尖らせ眉間に皺を寄せた。首まで傾げて、なんの話をしているか分からないという顔を作っている。
「えぇ~? さっきのって?」
「あんまのめり込むな、とか」
引かない春に、夏希先輩はため息をつき困った顔をした。
夏希先輩に恋人がいるという話しを、春は聞いた事がない。しかし夏希先輩の使っている青いシーブリーズには、ピンクのキャップがついている。少し前にCMでやっていて、恋人同士で交換するのが流行ったのだ。
春自身、中学時代は友達と交換していた。だから必ずしも恋人と交換したものとは限らない。しかし夏希先輩のキャップにはいくつも傷がついていた。買い直しても、キャップだけは捨てずに交換しているのだろう。
夏希先輩は頭の後ろで手を組み、うーんと唸ってから口を開いた。
「春はさぁ、元々女の子が好きなの?」
そして春の方を見ずにそう言った。聞かれた春が少し考えて、首を振る。
「分かりません」
春の言葉に、夏希先輩はふーんと言った。それだけ? そう思った春は、言い訳するように口を開いた。
「小百合が初めて……その、好きになった人なんで……元々女の子だけが好きかどうかまでは、ちょっと」
しどろもどろになりながらそう言った春に、夏希先輩はまたふーんと言った。同じ言葉なのに、春の耳には満足そうに響いた。そして春の頭に手を伸ばす。反射的に下を向いた春の頭の上に、夏希先輩の手の平が優しくのった。子供にするような手つきで、優しく春の髪を梳く。
「春って真面目だよねぇ」
嬉しそうにそう言った夏希先輩は、好き放題春の頭をぐしゃぐしゃにしてから手を離した。春は抗議しようと頭を上げる。しかし夏希先輩の顔を見て、思わず口を噤んだ。
「小百合ちゃんはきっと、元々女の子が好きな子じゃないよ。女の子が好きじゃない子は、絶対に私たちを裏切る」
普段の夏希先輩からは考えられない強い言葉に、春は返す言葉を失くした。夏希先輩は普段から想像できない、苦しそうな、今にも泣き出しそうな顔で春を見ている。
「意地悪言ってごめんねぇ。テスト勉強頑張りなよぉ! あ、二人っきりだからって暴走しちゃだめだからねぇ」
重苦しくなった空気を変えるように、夏希先輩は明るくそう言った。お道化た物言いはいつもの夏希先輩で、春はほっと胸を撫で下ろす。
「時期的に先輩の方が頑張らなきゃですけどね」
「嫌な事言うなよー! まぁ適当に頑張るかぁ」
「赤点取って部活来れない、なんてのはやめてくださいね」
「舐めてもらっちゃ困るねぇ、結構頭いいんですぅー」
それから最寄り駅で別れるまで、二人がその話をする事はなかった。ホームに降りて一人きりになったあと、小百合からラインが来た。いつもだったら飛び上りたいほどに嬉しい小百合からのラインなのに、どこか喜べない。
夏希先輩の言葉が、頭にこびりついて離れない。
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