仲夏の日差しと憂鬱と/小百合

 春が小百合を追いかけてきてくれた次の日の放課後。小百合が教室から出ようとすると、背中から春に呼び止められた。


「小百合! ちょっと待って!」


 小百合が振り返ると、春は安心したような嬉しいような顔で小百合を見た。その優しげな眼差しから、咄嗟に目を逸らす。

 春の顔を真っすぐ見れない。昨日は嬉しさのあまり、つい恥ずかしい事を言ってしまった。ましてそんな視線を向けられたら、昨日のように近寄りたくなってしまう。

 目の前に立つ春の口元辺りを見ながら、小百合は視線を上げる事が出来ずに「どうしたの?」と言った。


「これ、ありがとう」


 差し出された小銭入れとアイロン掛けされたハンカチ、そして小さなポチ袋を見て、小百合は思わず吹き出した。ポチ袋にはゆるいタッチで描かれたうさぎと共に「ありがとうのきもち」と書かれている。


「わざわざこんなのに入れてくれなくても、お財布に直接入れて返してくれればよかったのに」

「いくら借りたか分かった方がよくない?」

「春って律儀だよね。ポチ袋かわいい。ありがと」

「こっちのセリフだし。昨日はありがと。ほんと助かった」


 視界の春の口元が笑みを作る。半月型になった口元から視線を上げれば、きっとふにゃふにゃと目尻を垂れさせた春が見れるだろう。小百合が何度も見た事がある春の表情。意識してなかった頃は正面から見ていた、春の笑顔。

 春は表情が豊かだ。なんでもすぐ顔に出るのに、しかし決して人を不快にさせない。誰かを不快にさせないよう、表情に出さないように努めている小百合からすれば、それは結構凄い事だと思う。春は自分と違って嫌な事や汚い感情とか持たないのだ、多分。

 ふと、教室に残っているクラスメイトの視線を感じた。教室に背を向けている春には見えてないが、小百合には教室の中が良く見える。普段向けられる事のない視線に、小百合は思わず眉間に皺を寄せた。春の「どうしたの?」という不安そうな声に、小百合はなんでもないと返す。


「そういや先輩、大丈夫だったの?」

「平気平気。後輩からかうの好きなんだよ」

「ふーん、運動部の先輩ってもっと怖いもんかと思ってた」

「そうでもないよ。あ、あとスマホ返してもらったからLINE追加しといた」


 言われてスマホを開くと、可愛いスタンプで「よろしくね」と送られてきていた。少し悩んで、持っている中で一番可愛いスタンプを選んで送信する。小さいバイブ音の後、すぐに春がスマホを取り出した。


「小百合からの初ラインだ」

「あんまりスタンプとか持ってないし、返信もあんまりしないけど」

「そういうとこ小百合っぽいよね」


 春はそう言って、へへっ、と笑った。返さないところが小百合らしいと思っているなら、あまり返さない方がいいのだろうか。


「春はマメそうだね」

「部活のグループトークとかもあるしね。癖っていうか」

「運動部って上下関係厳しそうだし大変そう」

「聞いてる感じ、小百合の運動部のイメージって軍隊みたいだね」

「違うの?」

「違うよ」


 部活へ行くという春と一緒に、小百合も廊下へ出た。またねと言って手を振りあう。春が廊下を歩くと、どこからともなくやってきたバスケ部員達が春を囲んでいった。

 春は本当に人気者だ。周りにはいつも誰かがいる。春の背中と楽し気な周囲を見て、違う世界の人みたいだと思った。さっきまで、確かに二人で話していたのに。

 階段を降りる直前、ずっと見ていた背中が小百合を振り返った。咄嗟に小百合が手を振る。春はへらりと笑って片手を上げると、階段へ消えて行った。

 春を見送った小百合は、久し振りに部活に行く事にした。部活に精を出す春を見ていたら、久しぶりに部室に行ってもいいかなという気になったのだ。

 春は優しい。答えを出さない小百合を責める事もしないし、答えを急かす訳でもない。それでも自分が春の特別である事は実感できた。

 このままがいい。

 小百合はそう思っている。




 短い梅雨が終わりに近付き、雨の降ってない日の日差しは夏の訪れを感じさせた。小百合の好きな季節は、いつもあっという間に過ぎてしまう。

 春からは一日に一回か二日に一回、ラインが送られてきた。それは想像していたような雑談ではなく、大体何かの写真か、新しく発売するコンビニスイーツの情報だった。小百合はそれに一言二言返すだけ。理由がないとラインを送ってはいけないような気がして、小百合から送った事は一度もない。

 傘から持ち替えた日傘を差し、小百合は期末テストの事を考えた。中間と期末の間が一ヶ月も空いてないなんて、少し短すぎないかと思う。

 高校二年の最初の期末はとても大事なんだそうだ。先生も親もそう言っている。小百合は勉強が特別好きでも嫌いでもないし、成績も良い訳でも悪い訳でもない。今回のテストがどれだけ大事であっても、いつも通り挑むだけだ。

 そして期末テストが終われば夏休みがくる。夏休みになれば、毎日クーラーの効いた部屋にいられる。毎年暑さと日差しで夏バテになってしまう小百合にとって、毎日家を出る必要のない夏休みは歓迎するものだった。

 夏休み。楽しみな筈だ。きっと。そう思っても、どこかひっかかる。

 スマホを取り出してラインを開いた。春とのトーク履歴には、そっけないやり取りが並ぶ。一昨日春が送ってきた猫の写真に対して、一言かわいいねと送った自分の返信は全然かわいくない。

 軽くやり取りを遡って、すぐスマホをしまった。しかしまた取り出すと、少し迷って一文打ち込み、消し、また打ち直して送信ボタンを押した。


 肩にかけた日傘をくるりと回す。足元から伸びたまるい影が、はしゃいだように見えた。

 帰ったらノートをまとめ直そう。

 軽くなった足取りで、小百合は家へ帰った。

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