空色のハンカチ/春
間一髪、閉まりかけた電車のドアに滑り込んだ。荒い呼吸を繰り返す春の背後でドアが閉まる。乗り込めた安堵から、春は一層深く息を吐いた。いくら運動部とは言え、こんなに全力疾走したら息もあがる。
「え、春!?」
ドア傍の手すりにもたれかかっていた小百合が身を乗り出した。その拍子に小百合の片耳からイヤホンが落ちる。
何を聞いていたのだろう。気になるが、それ以上に小百合の方が色々聞きたそうだった。何せ、春を見る目がこれでもかと言わんばかりに見開かれている。
今にも質問をしてきそうな小百合に、ちょっと待ってと言う代わりに手の平を向けた。
春の身体は汗のせいか雨のせいかも分からない程濡れている。さっきまで部活中だった上に、霧雨とはいえ雨の中走ってきたのだから尚更だ。春はユニフォームの裾で顔を拭こうとして、しかしすぐに思い直した。電車には主婦やサラリーマンや、別の学校の男子生徒もいる。女子高の体育館とは違うのだ。
「これ使う?」
そう言って小百合が小さなタオルハンカチを差し出した。ありがたく受け取り、額の汗を拭う。汗を拭っているうちに、呼吸も落ち着いてきた。
「ふぅ、ありがと。洗って返すよ」
「いいよ、別に」
「私がやだ」
春はそう言いながら、小百合からじりじりと離れていった。小百合はそんな春を見て、訝し気に眉を寄せる。
「なに?」
「や、私ユニフォームだし、今多分、汗臭いから」
「そんな事ないけど」
「えー、うそだぁ。私凄い汗かいてるもん」
「臭くないって言ったら臭くないの。それで? 春、部活どうしたの?」
そう聞かれた春は、一瞬口籠ってしまった。
小百合からしてみれば、至極当然の疑問だろう。春がユニフォームを着ている事から、部活中であった事は想像に難しくない。そもそも今、春は手ぶらだった。
さて、なんて答えたものか。体育館の前を通った小百合の事が気になって、荷物も持たずに部活を飛び出してきた、なんて言える訳ない。
「いや、えーっと。小百合こそ大丈夫?」
「何が?」
「帰る時、体育館の前通ったでしょ」
部活中、体育館の扉の前を横切る小百合が見えた。普段から扉の方を見ている訳ではないが、今まで部活中に小百合を見かけた事はない。
「……見てたんだ」
そう言った小百合は目を伏せ、バツの悪そうな顔した。
「今まであっちの校門使ってるの見た事無かったし、その」
「なに?」
「なんか元気ないように……見えたから」
あの時小百合は何かから逃げるように、小走りに北門の方へ行ってしまった。逃げる。誰かに追われてる? ストーカーにあってるとか? 考えたくないけど、いじめ、とか?
そう思ったら心配で仕方なくなった。
結局いてもたってもいられなくなった春は、すぐ傍にいた誰かに「ちょっと出てくる」と言い残して、着替えもせずバッシュのままで外へ飛び出してしまったのだ。
「もし何かあったなら、私、力になるから」
春は用意していた言葉をゆっくり、勇気を振り絞って言った。
小百合から返事は返ってこない。沈黙が続く。
「もしかして心配してくれたの?」
しばらくの沈黙のあと、小百合は確認のようにそう言った。うん、と春は頷く。
「うそ。まさかその為にここまで来たの?」
「そうだよ」
ずばり言われると恥ずかしかった。春を見る小百合は「なんで?」って顔をしている。小百合の顔を見るのが怖くなって、春は視線を逸らした。
そりゃそうだ。あの告白以来、小百合と話してない。そんなクラスメイトが急に「悩みがあったら」言ってくれだなんて、どう考えてもおかしい。なんだかこれじゃあ自分の方がストーカーみたいだ。
春はここまで来た事を後悔した。どうして自分はいつもこう考えなしなんだろう。
「ふふっ」
俯いていた春は、前から聞こえてきた笑い声に顔をあげた。笑い声の発信源はまっすぐ春を見ている。さっきまで真っ白に見えた小百合の頬に、ほんのり朱が差していた。
「別になんでもないよ。今日はなんとなくそんな気分だっただけ」
「そうなの?」
「うん。北門の近くに駄菓子屋あるでしょ? 寄って帰ろうかなって思って」
小百合はそう言ったが、春には信じられなかった。駄菓子屋なんて、絶対嘘だ。
疑問点はいくらもあるが、小百合が言わない以上追及する事は出来ない。以前より開いてしまった距離がもどかしい。
「うそだよ」
ほら、やっぱり。
「じゃあなん……」
質問をしようと口を開いた春に、小百合がずいっと近寄った。まだ汗ばむ春の首元に口を寄せる。
心臓が一瞬止まって、その後で激しく動き出した。
「あのね、ほんとは」
背伸びをした小百合の声が、吐息が、春の耳に当たる。ぴりぴりとした肌への刺激。腰がぞくぞくする。梅雨の重たい空気が、小百合が唇を動かす度に波紋になって春に伝わる。
「春の事見えるかなって思って、北門の方から帰ったの」
そう言うとすぐ、小百合は春から離れた。そして再び向き合い、いたずらっ子のようににんまりと口端を持ち上げる。
小百合は「しかえし」と言って笑った。
「てかさ、制服とかどうするの?」
「制服?」
「制服。バックも持ってないじゃん」
さっき小百合が言ったしかえしについて聞きたいが、小百合の様子からするにさっきの話は終わりらしい。
「制服っていうか。携帯も定期も部室だよ」
「は? ホームどうやって入ったの?」
「線路から」
田舎の駅だから、踏切からホームにあがるのもそんなに難しくない。勿論普段はそんな事しないが、電車に乗ろうとしている小百合を見て体が勝手に動いていた。
「ばか。電車賃貸したげるから、ちゃんと払いなよ。バレたら部活出来なくなっちゃうじゃん」
「あー……確かに、そうだね」
それは素直に申し訳ないと思う。部活が活動停止になったり、大会の出場が取消になったら、部員にも顧問にもどう謝っていいのか分からない。いつも考えるより先に体が動いてしまうのだ。さっきも思ったが、もう少し自分の行動について考えなくてはならない。
「じゃあ学校戻るの?」
「んー……今日はもう帰ろうかな」
とりあえず今日の部活に関しては、あの時咄嗟に出る事を伝えた誰かがなんとか誤魔化してくれてる筈だ。急ぎ過ぎてて誰に伝えたかも覚えてないけど、今戻ってしまうと却って顧問に説明がつかない。
「悪いんだけど、ちょっと電話貸してくれない?」
「いいけど、電車の中だよ?」
「小百合ってどこで降りるの?」
「次」
小百合の声を合図にしたかのように、電車の速度が緩やかになっていった。程なくして電車が止まる。
小百合はドアが開くと、何も言わずにホームへと降りた。慌てて小百合を追いかける。
「はい」
「ん、ありがと」
小百合に渡されたスマホで、自分の電話番号をタップする。ワンコールのあと、すぐに声がした。
『もしもーし、春の電話でーす』
「春ですけど、その声、夏希先輩ですか?」
電話口の声を聞き、背中に冷や汗が流れた。誰かしらが春の荷物を持ってくれているとは思っていたが、まさか先輩が持っているとは思わなかった。
『サボりの春じゃーん。次からは誰に伝言頼んだか、ちゃんと確認した方がいいよぉ?』
「すみません、まさか夏希先輩だったと思わなくて」
『ごめんで済んだら警察いりませーん。部活さぼってどこいんのー? 顧問にチクっちゃうぞ?』
「勘弁してくださいよ。急にちょっと用事を思い出して……じゃなくて、私の荷物をロッカーに入れといて欲しいと思ったんですけど」
『おっけーおっけー、したら私が持っといてあげるから、明日朝一で私の教室まで来てよぉ。言い訳はそん時ゆっくり聞いてあげるからさぁ』
「全然オッケーじゃないじゃないですか! ……わかりました、朝一で行きます」
電話を切って、春は大きくため息をついた。
めんどくさい事になってしまった。しかしそこは運動部、先輩の言う事は絶対なのだ。それに完全に自分が悪いので、素直に言う事を聞くしかない。
スマホを返すと小百合は発着信画面をじっと見た後、再び画面を春の目の前に突き出した。
「これって、もしかして春の番号?」
「そうだけど」
「登録していい?」
「……いいよ」
「メールでLINEのID、送っとくね」
にやける口元をなんとか堪える。
小百合は慣れた手つきでスマホを操作し、ポッケにしまった。そしてスマホと入れ代わりに取り出した小銭入れを春に握らせる。
「あとはい、これ。千円くらいは入ってると思うよ」
「あ、ありがとう。ハンカチと一緒に返すから」
「三倍返しでお願いね」
「暴利だ!」
じゃあねと言って改札まで歩いていく小百合の背中を、春は見えなくなるまで見ていた。小百合が見えなくなってようやく、ふぅ、と息を吐き出す。発車時刻の案内板を見たあと、すぐ横の黄緑色の時計を見た。電車がくるのはあと十分後だ。
降りた事がない駅のベンチに座り、ぼんやりと駅舎を見る。携帯がないとする事がない。退屈だが、どこか新鮮な気もした。こうやってゆっくり景色を眺めたのなんていつぶりだろう。
ベンチに深く腰掛けて、ポッケに入れていた小百合のハンカチを口元にあてる。ハンカチからは小百合と同じ、薄荷飴のような甘く爽やかな香りがした。
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