階段の踊り場/春

 教室を出た春の足が、何かから逃げるように段々と早くなっていく。それでも辛うじて走らないのは、走ってしまったら本当に逃げているみたいだからだ。

 階段が見える場所までくると、春は進む速度を落とした。階段を一段一段降り、耳をそばだてる。完全に止まってしまっても、追ってくる足音は聞こえなかった。その事に安堵と落胆を感じる。

 踊り場の壁に背を預けると、手の平で顔を覆った。確かめるように触れた頬は、燃えるように熱い。その上指先は細かく震えている。

 そのままずるずると座り込み、自嘲気味に笑った。

 早く体育館に戻らなくてはならないのに、とてもじゃないが戻れそうにない。


 言ってしまった。言うつもりなんか無かったのに。

 

 言い逃げのように置いてきた小百合は、今どんな気持ちなのだろう。確かめたいけれど、確かめに戻る勇気は無い。それが確かめられる位ならば、あの場から離れない。

 告白をしにくる子達は凄いなと思う。だって彼女達は、春が答えるまでその場から離れない。叶わないと分かっていても、言い逃げなんてしないのだ。それだけで自分よりよっぽど偉い。

 でも、それでも言い訳をするならば、春は告白なんてするつもりは無かった。同性相手だからではない。女子高でそんな事を気にする生徒はいないだろう。同性愛というマイノリティは、思春期と相まって、ここではさながらマジョリティだ。偏見を持ち続ける方が難しい。だから、その点に関する後ろめたさはない。


 春は単純に怖かったのだ。

 普段自分自身が一方的な恋心をぶつけられる立場だっただけに。

 自分自身が告白を冷淡に聞き流す立場だった故に。


 「ありがとう」の一言で、自分の気持ちが流されるのは嫌だった。それを普段自分がしているにも関わらず、だ。

 だからあれは完全に、つい、というか、うっかり、というか。そんな風に漏れた言葉だった。


「だって女の子から超モテるじゃん」


 小百合はそう言った。その言葉以上の意味はなさそうだった。小百合の顔に嫉妬や、何か別の感情を見つけようとしても見つからなかった。それはそうだ。小百合と春は友達なのだから、春がいくらモテようと小百合には関係ない。

 少しモヤっとした気持ちになったし傷付きもしたけど、それはそれ。それ位なら受け流せる。しかし続けて言われた事を、春は受け流せなかった。


「好きって言われるのって、どんな気分?」


 それが無性にカチンときた。自分には関係ない事。興味本位。言われる事を想定してない無邪気な質問。

 そんなに言うなら言ってやろう、という気持ちになった。実際ここまで考えていたかどうかも分からない。


 むかっときて、ぽろって言って、やばいってなって、逃げた。


 実際はそんなものだろう。


 大きく深呼吸すると、鼻の奥がツンと苦しくなった。別に悲しい事が起こった訳ではないのに、なぜか泣きそうになる。瞼を強く手の平全体で押して、零れそうになった涙を押し返す。無理矢理戻した涙が鼻の方へ回って、春はズズッと鼻をすすった。自分のキャパシティーを超えた時も涙が出るのだと、初めて知った。


 明日からどうしよう。


 そう思って、すぐにまぁいいかと思い直した。

 春と小百合は部活も所属するグループも違う。クラスの係も違うし、席だって遠い。小百合は自分から話しかけてくるタイプじゃないし、春から話しかけなければ、まるで接点なんてないのだ。その事実に多少傷付きはするものの、こういう時はとても都合が良い。


 しかし接点のない筈の小百合に、春は恋をした。


 理由なんて色々ある。

 例えば見た目。小百合を構成するものは、全て春とは違っていた。

 小さな頭と小さな身体、絹糸のように細い髪、顔の面積に対してアンバランスとも思える程の大きな目。

 小百合の少女然とした風貌は、春の憧れだった。

 春はそれなりに自分に自信があるし、自分の見た目が嫌いという訳ではない。しかし普通の少女と同じく、可愛らしいものへの憧れは持っていた。

 大きなリボンやフリルのスカートは、きっと自分には似合わない。しかし小百合だったらきっと凄く似合うんだろう。

 初めはそうやって小百合を見ていただけだった。そのうち話してみたくなって、春の方から話しかけるようになった。

 苗字で呼び合っていた二人が名前で呼び合うようになるまで、おおよそ一年弱かかった。

 ノートを貸して欲しいと言ってみたり、テスト範囲ってどこだっけと聞いてみたり。

 最初話しかけた時、小百合はとても驚いた顔をしていた。大きな目を更に大きく見開き、「なんで私?」と言った。


「ノート綺麗だって聞いたから」

「えー、でも自分が分かるように書いてるだけだから、字汚いしなぁ」

「お願い、ね? テスト範囲だけでいいから」


 そう言って頼み込んで、ようやくノートを貸してもらった。今はこんなやり取りをせずとも貸してもらえる。「またぁ?」なんて笑って差し出されるノートは、最初に借りた時よりも丁寧にまとめられるようになった。それに気付いた時、春は自分の口角が勝手に上がるのを押さえきれなかった。

 しかし春は未だにLINEのIDも電話番号も知らない。高校を卒業したら。いや、来年別のクラスになったら消えてしまうような、そんな程度の関係だった。

 だから進路希望調査票と向かい合う小百合を見た時、チャンスだと春は思った。小百合の志望校を聞き出すんでもいいし、自分の志望校を刷り込むのでもいい。なんでもいいからうまい事同じ大学を目指せないかと思った。

 まぁ最終的には、勝手に志望校を書いてしまうという酷い結果だったけれど。


 まだ小百合は教室で一人、進路希望調査票と向き合っているんだろうか。私の志望校は「およめさん」の言葉と同様に、消しゴムで消されてしまったんだろうか。


 どうせ卒業と共に終わる恋だったんだから。

 

 そう自分に言い聞かせて、春は勢いよく立ち上がった。試合前に必ずやるように、手の平で頬を強く叩き、気持ちを切り替える。

 いい加減戻らないと顧問に怒られてしまう。それに最後の大会に向けて頑張ってる先輩たちの足を引っ張る訳にもいかない。


 しゃんとしろ、春。めそめそするな。


 春は背筋を伸ばし、小さく息を吐くと、体育館に向けて歩き出した。

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