春と小百合

星 伊香

クリーム色のカーテン/小百合

 運動部の声や吹奏楽部の合奏が、全開にした窓から風と共に流れ込んでくる。普段は騒がしい教室に一人でいると、外の声も音もとても遠い。まるでテレビから聞こえる音のようだ。鍵付きの自分の部屋より、窓も扉も開けてる教室の方が静かな気がする。

 クリーム色のカーテンがはためくのを見ながら、まるで世界に一人ぼっちみたいだと小百合は思った。グラウンドから声も聞こえるし、教室の外へ出れば残っている生徒も見つかるだろうに。自分で作り出す孤独はこんなにも心地よい。


「あれ? まだ帰ってなかったんだ?」


 窓の方を見ていた小百合が頭だけで振り返ると、ユニフォーム姿の春が教室の中に入ってくるところだった。


「部活中?」

「うん。でも教室に弁当箱忘れてたの思い出したから取り来た」

「終わったあと取りくればいーじゃん」

「部活終わったあとにクラスなんか来ないもん」


 言われて小百合は、そうか、と思う。小百合の所属している美術部とは違い、春の所属するバスケ部にはきちんと部室が用意されているのだ。きっと放課後はそこに全ての荷物を持って行って、そこからそのまま帰るのだろう。

 春は自分の机の横にぶら下がっている弁当袋をとると、小百合の前の席に座った。


「それまだ出してなかったの?」


 白紙のままの進路希望調査票を見て、春は呆れたように言った。


「だって」

「いいんだよ、この時期のやつなんてそんなマジなやつじゃないんだから」

「そうだけど、変な事書いて親呼び出されたら嫌じゃん」

「親の前に自分が呼び出されるから平気だよ」


 春はそう言ってカラカラと笑った。

 部活に戻らなくていいんだろうか。そう聞こうと思って、しかしすぐにやめた。戻らなきゃいけないなら、勝手に戻るだろう。

 改めて目の前の進路表に向き合う。とっくに提出期限は過ぎていた。適当に書けばいいって言われても、その適当さえも思いつかない。

 どこかの大学に行くんだろうなとは思ってるけど、それがどこの大学かなんて全然考えてない。ていうか、卒業する事だってまだあまりぴんと来てない。だってまだ入学して一年とちょっとしか経ってないのだ。急かさないで欲しい。それが、これを配られた時の小百合の正直な感想だった。

 それともこんな風に思っているのは自分だけで、自分以外の人は将来の目標とか夢を見つけているんだろうか。例えば目の前にいる春も?

 そう思って視線を上げると、椅子の背を抱えるようにしてこっちを見ている春と目が合った。思ったより近くで合った視線に、どきんと心臓が跳ねる。


「私が決めてあげよっか」


 目が合った春は何を勘違いしたのか、そう言って小百合の筆箱から勝手にシャーペンを取り出した。用紙を自分の方へ向けて何かを書き込む。伏せられた春の多くはないが長い睫毛を見ていたら、書き終えたらしい春が上目使いで小百合を見た。


「なにこれ」

「いいじゃん」

「いやいや、小学生の将来の夢とかじゃないんだから」


 第一志望の欄には可愛らしい字で、「およめさん」と書かれていた。思わずため息をつくと、春はいたずらっ子のような顔をして笑った。

 その五文字はあまりに可愛すぎて、どう見ても真面目に考えた結果ではない。このまま出したら呼び出し必須だろう。担任の加藤が怒る時にする、片眉を持ち上げた嫌味な顔を想像してげんなりした。


「小百合はきっと、いいお嫁さんになるんだろうね」


 確信を込めた口調で、春は言った。


「なんで?」

「なんとなく」

「まだ彼氏も出来た事ないのに?」

「彼氏出来た事ないんだ?」

「女子高だしね」


 言い訳みたいだと思いながら、小百合は消しゴムで「およめさん」を消した。そりゃいつかは結婚して子供を産んだりするのかなとは思うけど、それだって大学の事と同じだ。現実的に何かを考えている訳じゃない。彼氏も出来た事なければ、誰かに告白された事もない。


「春はお嫁さんになるってよりも、お嫁さんもらいそうだよね」


 からかい半分に小百合が言うと、春は目を大きく開いて驚いた顔をした。


「なんで?」

「だって女の子から超モテるじゃん」


 新入生が入って一ヶ月しかたっていないのに、すでに春は後輩の何人かから告白されていた。実際に見た訳じゃないけど、こういう噂はすぐ回ってくるものだ。記憶に新しい、今年のバレンタインも大人気だったから、後輩が加わった来年はきっともっと増えるだろう。


「女子高だからなんだろうね」


 春はつまらなそうにそう言った。

 でも、と言いかけて小百合は口を噤んだ。春は中学から女の子にモテていたと、同じ中学校から上がってきた子に聞いた事がある。それなら女子高が理由じゃないのは自分でも分かっている筈なのに。


「女の子にモテるの嫌なの?」

「別に嫌ってわけじゃないけどさ」


 嫌じゃないならなんなんだろう。やっぱり女の子より男の子にモテたいんだろうか。小百合はそこまで考え、そりゃそうかと思いなおす。

 春は特別美人という訳ではない。ただ、他の子より高い身長と切れ長の目が、春の中性的な魅力を際立たせていた。その上運動神経も良く、よく気が利いて優しい。男の子に好かれない訳ではないだろうけど、それ以上に女の子に好かれる要素が多い。

 今だってさっさと部活に戻ればいいのに、こうやって小百合の居残りに付き合っている。人気者の春がなぜ自分に構うのか、小百合はずっと不思議でならなかったが、最近は面倒見がいいからという結論で落ち着いている。


「好きって言われるのって、どんな気分?」


 春が何も言わないので、代わりに小百合が質問した。

 小百合は誰かに告白された経験はない。好きになった事もない。誰かが自分を好きだっていうのはどんな気持ちなんだろう。

 だけど春は、進路希望の紙を見たまま、何も答えなかった。あまりされたくない質問だったのだろうか。失敗した。小百合は少しだけ後悔しながら、進路希望調査票に意識を戻した。


「好きだよ」

「え?」


 あまりにも突然の事で、そう言った瞬間の春の表情を、小百合は見逃した。


「私、小百合の事、好きだよ」


 春はもう一度そういうと、あっけにとられている小百合から進路希望表を奪い、さらさらと書いて戻した。


「行きたいとこないならさ、私と同じ大学目標にすればいいじゃん」


 じゃあ部活、戻るから。

 そう言って春は、小百合と目も合わさずに教室を出ていった。



 一人ぼっちになった教室で、小百合は窓の方を見た。外からは一人だった時と変わらず、運動部の声や吹奏楽部の合奏が聞こえてくる。クリーム色のカーテンも、空を切り取ったような窓の景色も何も変わらないのに、その中にいる自分だけが変わってしまった。

 進路希望調査票の第一志望欄には、東京の大学の名前が書かれている。

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