第八章
第八章
増田呉服店
由紀夫「えーと、この店だな。」
と、店のドアを開ける。
由紀夫「こんにちは、、、。」
香織「私、呉服屋さんに来たのは初めてだわ。」
由紀夫「杉ちゃんが、一番信頼を置いている呉服屋と聞いたが、、、。」
カール「こんにちは。いらっしゃいませ。」
由紀夫「あ、あの、振袖にする反物を一枚ほしいんですけど。」
カール「はい、ございますよ。成人式とかですか?」
香織「違います。それはとっくに終わってしまいました。そうじゃなくて、一絃琴の演奏なんです。」
カール「ああなるほどね。じゃあ、これなんかどうですか。」
と、反物をいくつか出してくる。
香織「じゃあ、この緑のを、、、。」
由紀夫「いや、記念すべき初舞台だし、赤のほうがいい。」
香織「こんな派手なの着れないわよ。年も年だし。」
カール「でも、振袖は成人式の時だけとは限りませんよ。演歌歌手なんかもそうだけど、芸能人は、公演があると振袖を着ることも多いでしょ。ましてや、一絃琴なんて、日本の伝統芸能ですから、必然的に長期間振袖を着ることも多くなるでしょう。」
香織「でも結婚してしまえば、振袖は着用してはならないのですよね?」
カール「いえ、そうとも限りません。伝統芸能ですから、振袖で出演することは、既婚者でもありえます。それに、もし、気になる様なら、振袖の袖を切ってしまえばまだまだ使えますよ。」
由紀夫「そうですよ。それに、もし袖を切ってもう一度着たくなったら、僕が直してあげます。」
カール「へえ、お和裁やるんですか?若い人で珍しいな。お和裁されるって、大体年寄りですよ。」
由紀夫「そうでしょうね。」
カール「和裁学校に行ったんですか?今はなかなか若い子は入らないみたいだけど?」
由紀夫「いえ、違います。和裁学校ではなくて、通信講座で習いました。」
カール「なるほどねえ。いやいや、すごいですね。着物の仕立てと、伝統芸能に携わるなんて、本当に珍しいカップルだ。じゃあ、こっちも生半可な気持ちでは販売できませんね。しっかりしなきゃな。」
香織「店主さんだって、珍しいじゃないですか。外国の方なのに、着物の商売をやってるなんて。」
カール「どうしてうちを知ったんですか?」
由紀夫「杉三さん、影山杉三さんに紹介してもらいました。あの店へ行ってみろって。一番信頼のおける店だからって。」
カール「ああ、さようですか!杉ちゃんの紹介ね。じゃあ、余計にしっかりしなきゃな。杉ちゃんの、うちへの評価は厳しいですから。杉ちゃんは、いいお客さんを紹介してくれますから、しっかり着ましょう。」
香織「でも私、着物の柄とか種類とか、あまりよく知らなくて。恥ずかしながら。」
カール「そうですか。まあ、一絃琴という日本の伝統的な楽器であるわけですから、あまり現代的すぎず、古典的な柄のほうがいいでしょうね。それに、舞台映えするように、素材は正絹のほうがいいでしょう。中には、豪華絢爛な振袖で演奏される方もたくさんいます。そういう事から判断すると、やっぱり赤が一番なんじゃないですかね。」
香織「具体的には、どんな柄のものがいいでしょうか。」
カール「もちろん花柄もいいのですが、扇とか、流水とか、そういう柄がよろしいかと思います。よく売り出されている、ありきたりな柄じゃないものがいいでしょう。」
由紀夫「じゃあこれはいかがでしょう?」
と、大きな松の柄が入った反物を手に取る。
香織「こんな派手なもの、いいんですか?」
赤に、金糸刺繍で松が入っている華やかな反物であった。
カール「はい、大丈夫ですよ。松は、格の高い柄ですから、演奏会なんかにはもってこいなんじゃないですか。松はいつも緑の葉をつけていますよね。なので、日本では聖なる木と考えられていて、それで縁起のいい柄と解釈されていたようです。まあ、キリスト教のモミの木と似たような考え方ですが。」
香織「そうなんですか。そんなこと、少しも知りませんでした。」
カール「誰でもそういいますよ。ちなみに松竹梅という柄がありますが、先ほども言ったように、松がいつも緑なので聖なる木、竹は人間の生活に密着した重要な植物ですから、子孫繁栄とか、人間の努力を表し、梅は、極寒の後に初めて花をつける植物で、困難に耐えろという願いが込められているそうです。」
由紀夫「だから、松竹梅というものは、日本では気高いんですね、店長さん。」
カール「ですから、その中の一つである、松を身に着けて日本の伝統芸能をするというのは、とても理に適っているといいますか、非常に筋が通っていますので、とてもいい心がけではないでしょうか。」
由紀夫「僕もおすすめします!それに松は長寿という意味もありますし。」
カール「君も、なかなか詳しいですね。」
由紀夫「いや、和裁のテキストに書いてあったんです。」
カール「そこで種明かししちゃダメでしょう。」
香織「意味は大層立派であっても、これ、かなりお高いのではないですか、、、?」
カール「まあ、うちはガラクタ屋と一緒ですから、お安くできますよ。正絹であっても、一万円くらいでどうですかね。」
香織「それではもったいなさすぎます。」
カール「いや、今の着物屋は、このくらいまで値段を下げないと売れないものです。」
由紀夫「いいんですか。そんなことを言ってしまって。」
カール「いえいえ、だって、日本人でさえ、着物には寄り付かない時代なんですから、着物を売るのであれば、安くするしかないでしょう。」
香織「本当に一万円でいいのでしょうか。」
カール「はい。全くかまいません。むしろ、使ってくれる機会の多い人に買っていただければ、反物も喜ぶと思います。」
香織「わかりました、、、。じゃあ、この赤い松の柄の反物買っていきます。」
カール「初めてのお客様なので、消費税はまけておきますから、一万円だけで大丈夫です。」
香織「ありがとうございます。うれしいです。」
と、一万円札を取り出して、売り台の上に置く。
カール「今、領収書を書きますよ。」
売り台から領収書を取り出して、一万円と書き込む。
カール「はい、こちらですね。ありがとうございます。」
反物と領収書を手渡す。
香織「どうもありがとうございます。」
深々と礼をして、それを受け取る。
由紀夫「ありがとうございました。」
カール「ずいぶん礼儀正しいですね。本当に珍しいお客さんだ。また来てくださいね。」
由紀夫「わかりました。また来ます。」
香織「ありがとうございます。」
店の入り口から、出ていく二人。
道路を歩いている二人。
香織「本当にこんなすごいもの、私が着てしまっていいのでしょうか。」
由紀夫「いいんですよ。確かに、着始めた時は、大体の人が地味なものを選びますけど、ある程度年を取ると、若いときはやっぱり華やかなほうがかわいいなと思う方が、非常に多いみたいですから!」
香織「そうでしょうか。」
由紀夫「はい。そういう人は多いみたいです。振袖、必ず作って差し上げますからね。」
香織「わかりました、、、。お願いします。どれくらいかかるものなのでしょうか。」
由紀夫「そうですね、他にたくさんの依頼を抱えているわけじゃないから、数週間でできると思います。出来上がったら、製鉄所にもっていくようにしますから、香織さんは、一絃琴の練習に打ち込んでください。」
香織「はい、不安なほうが多いけど、、、。」
由紀夫「大丈夫ですよ。そうでなければ、先生が、出演依頼をするわけがないじゃないですか。それだけ実力があるということです。自信をもってください。」
香織「私は、由紀夫さんのほうがすごいなと思うわ。だって、実際に和裁検定にでちゃうんだもの。それに、資格までしっかりもらったんだもの。」
由紀夫「でも、他人から評価されたことは一度もないですよ。だって僕が依頼されたのは、青柳教授の関係者とか、そういう身近な人ばっかりで、社会的に通用したことは一度もありません。だから、時々発作的に自信をなくして、ものすごく落ち込んで、入院とかになっちゃうんです。香織さんは、演奏会に出て、見知らぬ人の前で音楽を聞かせてあげられるまで上達したんですから、それをもっと褒めてやってもいいのではないでしょうか。」
香織「なんだか、私たちって、違うかもしれないけれど似た者同士ね。どちらも自分に自信がなくて、相手のいいところばっかりほめあってる。」
由紀夫「いやあ、事実そうだからです。僕は、香織さんの事実を言っただけで。」
香織「私も由紀夫さんについて、事実を言っただけですよ。」
由紀夫「そうですかね、、、。僕ってそんなに強い奴でもないしなあ、、、。」
香織「そういう謙虚なところ、私、好きだわ。」
由紀夫「僕も、好きです!」
香織「何が好きなの?」
由紀夫「繊細で優しいところがです。障害とか、病気とか、そんなことは一切関係なく、その優しいところが好きなんですよ。」
香織「そんなにわたしのこと?」
由紀夫「はい。で、できることなら、ずっとそばにいたいなって、、、。」
香織「ま、まあ、、、。私じゃ何も役には立たないわ。」
由紀夫「はい。そうやって、へりくだっていますけど、本当は、香織さんは、すごいことをたくさん持っているのではないでしょうか。」
香織「由紀夫さんだって、私、いくつあげても足りないほど、すごいところがあると思うけど、、、。でも、ありがとう。」
由紀夫「もし、よかったらでいいです!仲良くなっていただけないでしょうか!」
突然頭を下げる由紀夫。
香織「由紀夫さん、、、。私ではもったいないのではないかと。」
由紀夫「そういってくれるからこそ、香織さんが好きです!」
香織「そうですか?そんなに私の事を?」
由紀夫「ええ、心から!」
香織「そうですか、、、。」
由紀夫「お願いします!」
香織「、、、わかりました。由紀夫さんの気持ち、受け取ろうと思います。」
由紀夫「ありがとうございます!じゃあ、香織さんのために、一生懸命、丹精を込めて、この振袖を仕立てさせていただきますので!」
香織「ええ、楽しみにしています!」
由紀夫「ありがとうございます!」
香織「由紀夫さん、顔が涙で滅茶苦茶よ。これで拭いて、、、。」
と、カバンから手拭いを出して、彼に手渡そうとするが、その拍子に、頬にぽろんと水が伝う。
由紀夫「香織さんこそ。先に顔を拭いたらどうですか。」
香織「あ、ああ、ごめんなさい。急いで拭きますから。」
と、急いで手拭いを目の下へもっていくが、同時に一気に涙があふれてきて、
香織「どうしよう、止まらなくなっちゃったわ。」
由紀夫「そんなら、今は、お互い、泣きたいだけ泣きましょう。だって、悲しみの涙ではないのですからね!」
香織「え、ええ!」
なおも涙が止まらない香織。
不意に由紀夫が香織の左手を取った。
つながれた二人の手。
由紀夫に導かれるように前進していく香織。
顔を、喜びの涙で濡らしたまま、なおも前に歩いていく二人。
製鉄所。一絃琴を練習している香織。
応接室。
内山先生「いやあ、すごい上達ぶりに驚いています。技術的には、というところはありますが、感性が素晴らしい。見事な表現力を持っていますよ、彼女。この分だと、ただのミニライブでは満足せず、正式な演奏会に出してもいいかもしれません。」
水穂「そうですね。演奏技術は、彼女の努力次第で、何でも身につくのではないですか。」
内山先生「はい。私も、軽い気持ちでは教えられません。彼女の前では。」
懍「もともと、ああいう障害を持っている人は、何でも真剣にやろうとしますからね。それが、良い評価をもらえば、大成功ということにもなるんですが、現代では、それが嘲笑の原因になってますからね。」
水穂「特に、学校ではそうなりやすいですよね。昔であれば、学校でひどいことをされても家庭でカバーすることもあったのですが、今はそれもなくなりつつありますからね。」
懍「そうですね。もしかして、彼女のような人は、学校で学ぶのではなく、優秀な先生にじかに習わせるほうが、はるかに良いものを身に着けることができるかもしれません。本来、保護者が、そういう物を探して与えてやるのが当たり前だったのですが、今では保護者も知識がないですし、自分の事で精いっぱいという家庭がはるかに多いですからな。特に、五体満足な子供であればなおさらそうなりますよ。だから、今の若い人は、目標も指針もなく、のんべんだらりとしてしまうのかもしれないですけど。」
水穂「教授のいう通りですと、逆に障害や病気があると、しっかり告知されたほうが、親は子供のことについて、考え直すかもしれませんね。はっきりしないで、ただ変な子供だといわれ続けるだけでは、親もどうしていいものかわからず、そのまま放置してしまって、結局子供が、何もできない人間になってしまうという、最悪の結果を招きかねませんし。」
内山先生「そうなんですよね。そうして、何もできないとレッテルを貼られてしまったら、ぜひ、うちの一絃琴教室においでください。一本しかない絃をはじくだけの単純素朴な楽器ですし、なんといっても、深刻な演奏家不足ですから、演奏会に出て、自信をつけることも可能ですよ。」
水穂「確かに、一絃琴は、簡単な楽器ですが、非常に奥の深い楽器でもありますし。」
懍「もしかしたら、被害者ともいえる、そのような若い人たちを救うのは、伝統芸能かもしれないですね。」
内山先生「はい。事実、私も、この街で一絃琴教室を始めて30年近くたちますが、最近では若い人の入門が急に増えています。中には、そのような重たい事情を抱えてくる子もいるんです。はじめは嫌でしたけど、今は、そういう子が、大活躍できるような社中にしたいと思っております。彼らは、確かに傷ついていますが、素晴らしい表現力を持っていることに、気が付きました。ですから、私たちは、何とかしなければいけないでしょうね。」
懍「そうですね。僕ももう、83になりますが、この製鉄所をやって、毎日が新しい発見ばかりですよ。そして、同時に、彼らを育ててきた、大人というか保護者達の弱さにも、気付かされるのです。」
内山先生「そうですなあ。まあ、我々年寄りも、もう悠長に隠居していればよいのだという時代ではなくなりましたね、青柳先生。むしろ、今の時代は、年寄りは、ぼろではなく、若い人を育てていくという大きな使命感を持って生きなければならないようだ。」
懍「うまいこと言うじゃないですか。まさしく、その通りですよ。生涯現役。いろんな意味で、それができる時代です。」
内山先生「ええ。私たちも、まだまだこれからということになりますな。では、次の生徒の家を訪問しますので、そろそろ帰りますよ。」
と、椅子に掛けていた、二重廻しを着込む。
懍「ええ、ありがとうございました。」
水穂「今、玄関のドアを開けてきます。」
内山先生「いえいえ、お気に召さず。生涯現役なのですから、余分なお気遣いはしないでも、大丈夫ですよ。ははは。」
立ち上がってカバンを持ち、
内山先生「では、次の稽古が楽しみです。」
と、玄関から帰っていく。
杉三の家。空き部屋で、一生懸命振袖を縫っている由紀夫。少しずつ、振袖の形が見えてくる。裾に、松の柄を大きく配置した、立派な本振袖が完成する。
杉三「ご飯だよ。由紀夫さん。お、すごいなあ、もうできたのか。」
由紀夫「はい、何とかできましたよ。へたくそですけど。」
杉三「いやあ、下手なんてもんじゃない。きっと香織さんは喜ぶぞ。」
由紀夫「だといいんだけどなあ。明日届けようかと思うのですが。」
杉三「よかった、演奏会に間に合ったね。さ、ご飯だよ。早く来て。」
由紀夫「わかりました。」
翌日。製鉄所の応接室。インターフォンが鳴る。
水穂「はいはい、どなた?」
声「佐藤由紀夫です!振袖を届けに来ました!」
水穂「上がってください。今呼んできますので。応接室で待っていただけますか?」
由紀夫「お邪魔します。」
と、玄関の戸を開けて中に入る。
由紀夫が応接室に行くと、水穂に連れられて香織も入ってくる。両手にはろかんが付いている。
由紀夫「香織さん、出来上がりましたよ。」
懍「テーブルの上においてください。」
由紀夫「わかりました。」
その通りにたとう紙を置く由紀夫。
懍「開けてみてください。」
香織は恐る恐る、たとう紙のひもをほどく。
香織「まあ、、、。」
水穂「ちょっと試着してみたらどうですか。」
香織は、振袖を取り出して、羽織ってみる。
香織「あ、、、。」
懍「驚くのもわかりますが、感想はしっかり伝えるべきですよ。」
香織「自分じゃないみたい、、、。」
由紀夫「ほんとうに?」
香織「ええ!もちろんです!」
水穂「よく似合いますよ。これであれば、立派な吉祥文様ですから、演奏会だけではなく、結婚式なんかに用いても、違和感はありませんね。」
懍「ええ、赤ですからね。華やかでいいんじゃないですか。」
香織「ありがとうございます!こんな立派なもの、私が着れるなんて驚きです。だって私、成人式すら出席させてもらえなかったんですから!もう、それはとっくに通り過ぎてしまった年だから、一生振袖を着ることはできないだろうなと、あきらめていたのに、、、。」
懍「もしかしたら、今、成人式を行う年に到達したのかもしれませんね。」
水穂「そして、結婚式も同時にやってくるというわけですね。」
由紀夫「な、なにを言うのですか!僕は結婚なんてできる身分じゃありませんよ。」
香織「私もそんな自信は、、、。」
懍「いいえ、二人とも、もっと自分たちの気持ちに素直になるべきでしょう。」
水穂「そうですよ。そして、遅すぎることはありません。本番、頑張って弾いてくださいね。」
二人は、ひどく赤面した。
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