第五章

第五章

富士警察署。刑事課。

刑事「困りましたね。高橋香織の家族というものはどこへ行ってしまったのでしょうかね。」

華岡「いつまでたっても逮捕できない。」

刑事「たぶん、家族が、高橋香織を置きざりにし、出られないように外から南京錠をかけたんだと思うんですが、そんなことをする理由なんてあるんでしょうか。」

刑事「ええ、彼女が通っていた学校にも問い合わせましたが、中学校入学直後の数日だけ学校に来て以来、完全に不登校で、卒業式にも出なかったそうです。」

華岡「じゃあ、高校受験もしてないよな。当然のことながら、高校にも行っていないと。」

刑事「そうですよ。全く、彼女は、なんのために生まれてきたのか。本当に哀れでならない事件ですな。」

刑事「まあそうですねえ。彼女というよりも、犯人を早く捕まえなきゃ。俺たちの仕事はそっちじゃないですか。」

華岡「よしわかった。とりあえず、彼女が通っていた中学校に、彼女が学校に来なくなった理由を突き止めよう。それがあれば、とじこめられた理由もわかるかもしれないぞ。」

刑事「学校だけではありませんね。同級生や、その保護者も当たったほうがいいでしょう。」

華岡「そうだな。それでは、中学校に行ってみてくれ。」

刑事「はい!」


製鉄所。水穂の居室。

ピアノの練習をしている水穂。

と、そこへドアをたたく音。

水穂「どうぞ、開いてますよ。」

ガチャンと音がして、香織が入ってくる。

水穂「どうしたんですか?」

香織「あ、おばさんが、お茶もっていってやってって。」

水穂「ありがとうございます。机の上にでもおいといてください。」

香織「はい。」

と、机の上に湯呑を置く。練習を再開する水穂。香織は、ピアノの前に近づいてくる。

水穂「聞いていきたければどうぞ。」

さらにピアノを弾き続ける。

曲が終わると、香織は手をたたいて拍手をする。

香織「素敵、誰のなんていう曲なんでしょう。」

水穂「ヤナーチェクの霧の中。」

香織「シンフォニエッタの?」

水穂「ええ。まさしくそうです。よく知ってますね。あの本でも読んでいればわかるかな。」

香織「その本は知らないですけど、シンフォニエッタは知っています。私、あの曲大好きです。」

水穂「へえ、珍しいですね。女性で、あの曲を好む人は、なかなかいませんよ。」

香織「私、ショパンとか、メンデルスゾーンのような、おしゃれな音楽はあまり好きじゃないんです。それよりも、こういうちょっと不思議なところがある音楽がいい。まあ、ピアノを習ったわけではなく、ただ聞くだけでしたけど、ヤナーチェクのシンフォニエッタは大好きでした。」

水穂「いつ頃から、ヤナーチェクの曲に興味を持ったのです?」

香織「小学校の高学年のころからかな。クラスでいじめられてて、気晴らしに聴いてました。だって、他の人たちが聞いていた曲なんて、本当につまらなかったですもの。だって、ただ、男性が、女性に一方的な思いを寄せ付けるだけでしょ。それよりも、この曲のほうが、よっぽど情景も、書いている人の意思もしっかり伝わってきますから、ずっと面白いですよ。」

水穂「偉い偉い。そうやって、クラシック音楽に興味を持ってくれるなんて、環境が許せば、音大にでも行ってほしかったですね。なかなか、音大生でも、クラシック音楽を学んでいるのに、真剣にやっている人は極めてまれですからね。」

香織「そうなんですか?」

水穂「そういうもんですよ。どこの大学でも同じでしょう。大学というか、学校自体が、みんな劣化してそうなってますよ。」

香織「どこの学校でも?」

水穂「はい、そうです。そして、それが普通だと受容されてしまっているのも問題だと思います。本当はね、大学ほど、勉強するのに恵まれたところはないですよ。本来であれば、それをフル活用して、大いに力をつけられるはずなんですけどね。それが、今は、根無し草のような若い人の温床になっている。本当はね、それではいけないですけどね。」

香織「ねえ、水穂さん、ゴドフスキーのソナタって知ってます?」

水穂「ああ、ソナタホ短調のことですか。楽譜は持ってますが、弾くのは体力的に難しいかも。」

香織「そうか、、、。残念だわ。」

水穂「しかし、よく知ってますね。」

香織「ええ、そういう物が好きなんです。」

水穂「いいじゃないですか。自分の感性を大切にしてください。」

香織「ありがとうございます!しばらくお邪魔でなければ、聞かせてほしいです。」

水穂「いいですよ。どうぞ。」

と、言いながらも咳をする。

香織「お体、よくないんだね。水穂さんも。」

水穂「そういう事になりますね。」

香織「そうか、、、。」

水穂「ああ、もし、怒りとか、憎たらしいとか、そういう感情がわいてきたら、遠慮しないで殴ってもかまいませんからね。」

香織「いえ、そんなことはできませんよ。」

水穂「何か意外ですね。あれほど、不当な扱いだったのに。あなたは、さんざんひどいことをされてきて、他人に対して、怒りや憎しみがわいてきても仕方ありません。現にそれで僕もさんざん殴られたものです。それも、僕たちは、ある意味では当然としてみなければならないと思います。だってそれは、本当にやむを得ないことですから。自分は、さんざんひどい目にあってきて、それなのに、周りの人は、みんな幸せそうな生活をしているんですからね。なんで自分だけがって、怒りがわいてきても当たり前のことですよ。だから、無理しないでいいですからね。そういう感情って他人に言ってはいけないとも言われますけど、これをクリアしないと、前へ進めないということも、僕たちは知っていますから、そうなれば喜んで標的になりましょう。」

香織「私は、できないです。」

水穂「なぜです?」

香織「綺麗な人だからです。綺麗な音を出す人だからです。」

水穂「これ?」

と、顔を指さすが、

香織「違います。そのピアノの音です。そういう人をどうして怒りで殴ることができますか。私にはとてもできません。」

水穂「変わってますね。」

香織「そうでしょうか。」

水穂「ええ。そうですよ。大体の人は、ここで殴ってもおかしくないでしょうしね。」

香織「そうですか?」

水穂「ええ。誰でも怒りに満ちればそうなりますよね。」

香織「でも私はできないし、するつもりもありません。」

水穂「珍しい。それならなぜ、あのような状態で見つかったのでしょう。理由がわからないですね。」

香織「後で迎えに来るからって言って、出て行ったんです。」

水穂「それは誰ですか?」

香織「しゃべってはいけないって、、、。」

水穂「しゃべってはいけない?」

香織「ええ。そういってました。そうしないと、迎えには来ないからって。」

水穂「なるほど。出て行ったあとは、どうやって暮らしていたんです?」

香織「ええ、部屋は施錠されてしまったので、ずっと部屋の中にいました。与えられたものは、外にあった天水桶につないだチューブから出る水でした。明かりも撤去されてしまいましたし、はじめは座っていたのですが、しばらくしたら動けなくなって、ずっと横になっているしかできませんでしたね。時間の流れもわかりませんでした。だから、何年そこにいたのかも知りません。わかったのは日が暮れて夜がきて、夜が明けて朝が来る。これだけでした。だって、窓もありませんでしたから。」

水穂「なるほど、わかりました。今のこと、華岡さんに話してもかまいませんか?」

香織「えっ、警察の方に?」

水穂「そうですよ。」

香織「だって、誰にもしゃべってはいけないって、、、。」

水穂「しかしですね、これは、重大な事件になるんです。あなたが、なぜ、そこに閉じ込められたのか、理由はわからないけれど、誰かをそういうやり方で閉じ込めるというのは、犯罪なんです。だから、警察に何とかしてもらう必要があるんですよ。」

香織「でも、私は、言われました。これが、最高の愛情だと思えと。」

水穂「誰から?」

香織「あっ!」

水穂「安心してくださいね。これはですね、決してあなたを悪循環に追い込むということではありません。むしろ、あなたには、ここから、出てもらわなければなりません。そのお手伝いをするというのが、僕らの役目なんです。」

香織「でも、怖い。だって、外の世界では、ひどい人がいっぱいいるからって、、、。」

水穂「怖いですか?」

香織「だって、あの部屋に入る前、そういわれて、、、。」

水穂「わかりました。これ以上追及はしないようにします。でも、肝心なことだけは言っておきますよ。まず、教授も言っていましたが、ここは終の住処にしてはいけないのです。それはね、どの利用者さんも同じ。今、鉄を作っている人たちだって、何れは、鉄をもってかえるでしょう。そしてあなたにもそうなってもらわねば。それだけは、全部の利用者が、達成しなければならないことです。期限を設けているわけではないけど、それは必ず守ってもらいますよ。それはお願いしますね。」

香織「そ、そうしたら、私、どうしたらいいのか、、、。」

水穂「まあ、その結論は誰が出すのかは、僕にはわかりません。でも、期限はないのですから、ゆっくりなさってくださいね。それ、」

と言いかけて、またせきこんでしまう。

香織「だ、大丈夫ですか?」

水穂「ええ、平気で、、、。」

さらにせき込む。

香織「それどころじゃないじゃないですか。」

とうとう、口に当てた手指が、赤く染まりだした。

香織「水穂さん、、、。ああ、どうしたらいいのかなあ。」

声「そろそろ、晩御飯の時間だけど、二人ともどこに行ったの?」

香織「ここです!」

思いっきり大声で叫ぶ。

声「ああ、部屋にいたのか。」

足音が近づいてくる。

香織「助けてあげてください!私が、もしここから出てしまったら、水穂さんどうなるか。」

足音が急に早くなる。戸がばたんと開いて、調理係が飛び込むと、どうしていいのかわからずにただ泣きはらす香織と、ピアノの下に座り込んでせき込んでいる水穂の姿が見えたのである。彼の周りは、吐いた、おびただしい血で赤く染まっていた。

調理係「水穂さん横になろうか。ね、そのほうがいいよ。香織ちゃんも手伝ってくれる?」

香織は、なにも言えず、動けないままでいる。

調理係も、彼女を責めることはなく、黙って布団を押し入れからだし、静かに水穂を持ち上げて、布団に寝かせてあげた。

調理係「水穂さん、薬あるかな?」

と、周りを見渡し、机の上にあった粉剤を見つける。

調理係「ついでに水も持ってこなきゃ。」

急いで部屋を出て、厨房にいく。すぐに水を入れた吸い飲みをもって戻ってくる。

調理係「これ飲んで!」

と、吸い飲みを彼の口元へもっていく。水穂は、震える手で薬を口へ流し込むと、吸い飲みの水を一気に流し込んで、布団に再び倒れこむ。しばらくは苦しそうだったが、十数分ほどすると喀血は止まる。

調理係「よかった。しばらく横になってなさいな。もうしばらくして、落ち着いたらご飯を持ってくるよ。香織ちゃんも、ご飯だから、はやく食堂へ来てね。」

香織「私のせいでしたでしょうか。」

調理係「いや、香織ちゃんのせいではないわよ。だれだれのせいなんて追求したって全く意味はないのよ。それよりも、こうなったときにどうするか、それを考えたほうが先。ほら、ご飯を食べないとなくなるよ。」

香織「私、ここにいたいです。」

調理係「いいのよ。こうなることはね、いつもの事なの。この製鉄所で暮らしていれば、なれちゃうわよ。そういうところが水穂さんなの。だから、必要なことだけやればそれでいいの。」

香織「でも、心配なので。」

調理係「優しいねえ。そんな子がどうして、ああいうやり方で見つかったんだろう。」

香織「わかりません。私、どこかにいってしまうより、そばにいてあげたい。そのほうが、私にとってはいいんです。離れてしまえば、心配でたまらなくなって、落ち着かなくなります。」

調理係「わかったよ、香織ちゃん。じゃあ、ご飯、こちらへもってきてあげるから、ここにいてあげて。」

香織「ありがとうございます。」

調理係「こんな優しい子は、今時なかなかいないわね。」

と、一旦厨房に引き上げていき、香織の食事と水穂の食事が乗った盆をもって戻ってくる。

調理係「これが、水穂さんので、これが、香織ちゃんのね。」

盆をそれぞれの前に置く。香織の盆には、ハンバーグとサラダが乗っているが、水穂には、コーンスープしかない。

調理係「じゃあ、私はほかの子のご飯があるから戻るけど、けっして無理はしないでよ。」

と、部屋を出ていく。

香織「水穂さんの食事ってなんでコーンスープしかないのかな。これだけでは、かわいそうだわ。」

と、彼の食事と、自分の食事をすり替えて、コーンスープを口にする。と、途方もなく味が薄い。

香織「たぶん、調理係のおばさんが、調味料を間違えたんだ。」

そのまま全部食べてしまう香織。そして、食器をもっていこうと思ったが、まだ心配だったので、そのままにしておく。

しばらくすると、眠っていた水穂が目を覚ました。

水穂「まだいたんですか。」

香織「心配だったから。これ、調理係のおばさんがもってきてくれました。」

と、ご飯の乗った、盆を彼に差し出す。

水穂「これ、あなたのでしょうが。」

香織「そうです。正直に言ってしまえば。だって、コーンスープしかなかったから、それはあまりにかわいそうだと思って。たぶん調理係のおばさん、味加減を間違えたんだと思います。だって、ほとんど味がないんですもの。それじゃあいくらなんでもおいしくないでしょうし、滋養もつかないでしょう。だから、代わりにわたしのを食べちゃってください。」

水穂「まあ、知らなかったのなら、余分なことをするなとは言いません。僕、普通の食事ができないんです。言っておくべきでしたね。」

香織「えっ、そうなんですか?でも、この中でも食べられるものってないんですか?」

水穂「ありません。全く。たぶん味が違うと思います。」

香織「あ、あたし、どうしよう!」

遂に泣きだしてしまう。

水穂「いいですよ。泣かなくても。どうせ、ご飯なんか今日は食べられないでしょうから。しばらくは、流動食くらいしかいただけないでしょうしね。」

香織「水穂さん、ごめんなさい。あたし、本当に悪いことをしてしまいました。調理係のおばさんに、確認を取るべきだった!」

水穂「いえ、かまいません。たぶんコーンスープでも無理でしょう。」

香織「ごめんなさい!ごめんなさい!」

水穂「いいんです。どうせ食することはできませんから、これ、いただいていいですよ。」

香織「いえ、私は悪いことしてしまったから、ご飯を食べる資格はありません。」

水穂「考えすぎです。」

香織「本当に、本当にごめんなさい!」

何を血迷ったか、香織は、いきなりドアを開け、ご飯の入った盆を中庭へ投げ捨ててしまった。

水穂「そんなことして何になるんです?」

香織「いえ、こうしないと私の気が済まないんです!」

と、開けたドアから、部屋を飛び出していった。水穂はそれを追いかけることはできなかった。


一方。由紀夫のマンション。

インターフォンを押す杉三。

杉三「おい!今日も心配だから来たよ!何をやっているんだ?」

反応はない。

杉三「おかしいなあ。留守にしていただけかなあと思っていたが、もう、四度続けて訪問しているのに、反応が何もないとは。どっかへ一人旅にでも出たか。」

藤吉郎「杉ちゃん。」

杉三「なんだよ。」

藤吉郎「大家さん。」

杉三「大家さん?」

振り向くと、まさしくこのマンションの大家さんである、男性が立っていた。

杉三「あ、大家さんも由紀夫さんに用があるの?」

大家「まさしく。家賃滞納なので、いい加減に払ってもらいたいんですよ。」

杉三「つまり、家賃を払わないという事か。滞納って。」

大家「はい、先月まできちんきちんと家賃を出してくれましたが、今月になって、家賃の納付日がきても全く来ないので、おかしいと思ったんです。」

杉三「いつから来ないの?」

大家「はい、家賃の納付日から、少なくとも二週間は経過しておりますし、今月もあと三日で終わりでしょ。」

杉三「ええ、それは大変だ。実は僕らも、彼を訪問して、すでに四度目なんだけど、全く反応がないんだよ。母ちゃんが知り合いからおかしもらってさ。もらいすぎたから届けようって、この馬鹿吉が提案して、こっちに来たんだけどね。」

大家「そうなんですか、、、。困りましたな。でも、どこかへ出かけたような気配はないですよ。それに、出かけるのであれば、管理人室の前を通っていくはずですが、そのような感じはありませんでしたし。」

藤吉郎「入ろう。」

大家「そうですねえ。不法侵入と間違われなければいいが、」

杉三「大家さんなら、合いかぎかなんかあるでしょ。それで、入ってしまおうぜ。僕、なんだか心配というか、不安になってきた。」

大家「わかりました。じゃあ、入ります。ちょっと待ってくださいよ。今出しますからね。」

と、合いかぎを取り出し、ガチャンと鍵穴に入れて鍵を開ける。

大家「佐藤さん、大家ですけど、今月分の家賃、早く払ってくださいよ。」

ドアを開けても反応はない。

杉三「僕らも来たよ!これで訪問したのは四度目なんだけど、、、。」

部屋の中には、大量の布や着物が置かれていた。それだけははっきりしている。しかし、食事をした形跡もなければ、洗濯物を干した形跡もない。まさしく廃墟の状態。

杉三「こうなったら、不法侵入も関係ないや、入っちゃえ!」

と、車輪を拭くのも忘れ、部屋に入ってしまう。

杉三「おい!どうしたんだよ!」

と、ふすまを開けて、仕事場である部屋を開けてみるが、そこに由紀夫の姿はない。次に、材料置き場として使っている部屋のドアを開けてみても、姿はない。

藤吉郎「杉ちゃん。」

杉三「なんだ!」

藤吉郎「居間。」

杉三「居間がどうしたんだよ!」

藤吉郎「居間。」

杉三が居間に行ってみると、テーブルの前に座って、何もしないで呆然としている由紀夫の姿が見えたのである。










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