義理崩し

菊月 一

義理崩し

 「破ッ!」

 高い音を立て、また一枚、茶色の板が割れた。

 二枚のコンクリートブロックの間を渡すようにして置かれた、それが、一瞬にして二枚、あるいは三枚、数枚に分割される。

 コンクリートブロックの周りには、そうして分割された茶色の板の残骸が、無数に散らばっていた。

 その下には、適当に敷き詰められた新聞紙がある。


 「次っ!」

 主将が声高に叫んだ。

 頭を丸めた一年生が主将の前に駆け寄り、コンクリートブロックの上にそれを置く。

 銀紙を剥がした後の茶色の板、所謂いわゆる板チョコというやつだ。

 板チョコが置かれると、そそくさと一年生が離れる。

 一年生が離れるのを待たずして、主将は目を閉じて深く息を吸い込み、精神を集中させる。

 長い息吹の後、主将は両手で握り拳を作り、カッと目を見開いた。

 「破ッ!」

 気合一閃、主将は目にもとまらぬ早業で手刀を作り、一気に板チョコを叩き割ったのである。

 その動作を、空手着姿の男達が無言で見つめていた。

 男達が所属するのは、「聖バレンタイン高校」空手部の面々であった。


 毎年二月十五日、バレンタインデーの翌日にこの一見して奇妙な行為は行われていた。

 部室棟の前の青空の下で、空手着姿の男達が、板チョコを割り続けるという行為は奇妙この上ない。遠巻きに見守る女子生徒は

 「何これキモイ」

と眉をひそめ、他の部活の男子生徒も呆れ気味に、もしくは生温かい目でこの奇妙な風習を見ている。

 しかし、男達の行為にはれっきとした意味があった。


 「チョコはこれで全部か!」

 青々と刈り上げた坊主頭から湯気を出し、空手部の主将が叫ぶ。

 「はい、全部です!」

 運び役の一年生が、空になった金属のボウルを見せて応える。

 「よぉし…」

 主将が道着の懐から豆絞りの手ぬぐいを取り出し、汗を拭いた。

 「これで『義理崩し』の儀式を終了する!」

 

 『義理崩し』。

 それはこの空手部に代々伝わるバレンタイン翌日の過ごし方であった。

 空手部…。

 柔道部や剣道部と並び、武道系の部活として有名な部活であり、漢臭ぇ部活の代表である。

 古式ゆかしき、丸坊主(二年目からは角刈り、スポーツ刈りは可)での筋肉修行といったこの部活においては、女性からの本命チョコを貰えることはほとんどなく…。

 いつしか有志が持ち寄った家族、級友からの義理チョコを集めて食べていた過去を儚んだ昔の誰かが、こういった風習を作ったとのことである。

 

 「では、『固めの杯』と行こうと思うが…」

 そう言った主将の視線が、ふと長身の二年生の前で止まった。

 『義理崩し』の儀式は、この後割ったチョコレートを鍋で煮込んで溶かし、それを部員全員で回し飲みする『固めの杯』により終了する。

 しかし、どうも雰囲気がおかしい。誰もが主将の浮かべた薄ら笑いに、寒いものを感じていた。

 

 「本田ぁ」

 「お、押忍」

 名前を呼ばれた二年生が、驚いた顔で主将に答える。

 今年のインターハイに県代表の一人として出場した、次期主将候補の彼であるが、この日に限り、その声は酷く上擦っていた。

 そしてその声を聞いた主将が、猫科の肉食獣のように「にやっ」と歯を剥いて笑った。

 「『義理崩し』とは、何だ?」

 「押忍、軟弱なバレンタインの義理チョコを溶かして呑んでやることです」

 「おお、そうだ。軟弱な風潮を嘆く先輩たちが作った男の儀式よ。そうだよなあ、お前ら。」

 本田と呼ばれた部員全員が、押忍と答える。

 しかし、本田だけは口を開かなかった。

 

 「…新藤沙羅しんどうさら

 「!?」


 主将が告げた名前に本田は驚き、そしてがっくりと項垂れた。

 他の部員がざわめいている。

 新藤沙羅は、本田の同級生であり、目立たない図書委員だった。

 秋口までは眼鏡をかけてうつ向いており、お世辞にもクラスで目立つ存在ではなかった彼女だったが、冬休み明けの登校から一気に垢抜けたのである。

 髪を三つ編みからぱっつんロングにし、眼鏡も縁なしのそれにして、何よりも明るくなった彼女は、今では学年一の美人として有名になっていたのだ。

 その彼女と、長身で小肥り、進化できなかった類人猿のような本田が!


 「去年の秋。骨を折って入院したお前を心配して損したよ」

 「く…」

 「お前にノートを届ける役割を押し付けられた新藤は、最初は嫌がっていたようだが、お前の話し相手になっている内に情が移ったようだな」

 「そ、そこまで…」

 「クリスマスは、フォレストハウスの3Dプロジェクションを楽しんだそうだな」

 「そんなことまで、どうして…」

 「看護師の名札は良く見ておくことだな」

 「あ…!」

 

 全てを見破られた本田は、精気を抜かれたように呆然としている。

 しかし、精根尽き果てた中、最後の力を振り絞るようにして、本田は口を開いた。

 「すみません、主将」

 主将は本田の顔を見ない。いや、正確には天を仰いでその表情は誰にも見えない。

 長い沈黙。

 部員の誰もが固唾を呑んで二人を見つめている。それ以外は面白いものをやっているという感じで見ているが。

 「何を謝る」

 沈黙の後、主将は口を開いた。

 「恋愛結構、この時代にこの部活で、良くあんな良い女を見つけたもんだ」

 誰もが驚いた。

 普段、カップルを見れば邪魔をしろと後輩をけしかけ、絶賛校内嫌いな男で首位を誇るあの主将が、冷静に後輩の恋愛を認めている。

 「主将…」

 本田の目が潤んでいる。

 聖バレンタイン高校空手部の伝統は、誰が決めたか昭和後期から「色無し恋無し情けあり」である。

 その伝統を愚直なまでに受け継いでいた主将が…。

 

 「煮ろ」

 

 と、後輩たちに命じた。

 

 「しゅ、主将!?」

 主将の命令を受けた後輩が、驚く本田を尻目に、チョコの山を充分温まった鍋にぼとぼととブチ込む。

 それは『義理崩し』を裏切った者への制裁『崩しの杯』を告げる合図だった。

 「だが、掟を破った制裁は受けてもらわんとなぁ!女にうつつを抜かす軟弱モンがぁ、魂入れたるから覚悟せぇやオラァ!」

 本田に向けた主将の顔は、これまで部活で見せたどの怒りの形相よりも恐ろしかったと、参加者は後に答えた。

 『固めの杯』も『崩しの杯』も、飲むものは同じ溶かしたチョコレートである。

 違うのは、全員で飲むか一人で飲むかということだけであった。

 ちなみに、元々チョコレートは飲み物として普及した物である。


 「聖バレンタイン高校空手部の男の伝統を裏切った罰は『崩しの杯』で償ってもらう!漢の道を貫く仲間たちを私利私欲で裏切るとは言語道断!姉ちゃんからお前達のラブラブっぷりを聞かされる俺を苦しめた罰だァーッ!」

 「いや、主将!それが私利私欲やないですかーーっ!」


 容赦なく挙行される空手部の伝統。

 裏切り者、本田君の嘆く声が、冬空の元に響き渡った。


 なお、この風習は、女子マネージャーや女子部員の参加と共に、恋愛解禁を認めた翌年の主将によって廃止されたとのことである。

 

 

 










 


 

 

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