第5話

あのころの私は、恋にも愛にも興味が無い、周りよりも少し冷めた普通の子供だった。

周りが足の速い男子が好きだと言ってもその会話には加わらず、一人で静かに読書をしていた。

周りがどうしてそんなものに夢中になるのかが分からなかったし、理解しようとも思わなかった。

適当に話を合わせて会話に加わるのも不誠実だ(勿論、その頃はそんな言葉を知らなかった)と思っていた。

私のそんな性格が招いたことなのかもしれない。

その頃から少しずつ、女子から無視されたり男子から石などを投げられるようになっていった。

私の触ったものは「香織菌」が付いたと誰も触りたがらなくなった。 帰り道では男子に囲まれて蹴られるようになった。

何度も死にたいと思った。学校に行きたくないと。

でも、絶対に負けたくなかった。

だから絶対に学校を休まなかった。

けれどいじめはエスカレートしていくばかり。

そんな時、父のピアノ教室に一人の男の子が習いに来た。

彼は父のことを「先生」と呼び、心から慕っているようだった。

彼はピアノをとても大切に扱ってくれた。

時には友人を慰めるかのように、時には恋人に触れるかのように。

ピアノもそれに応えるかのように、美しい音を聴かせてくれた。


「初めまして、香織ちゃん。僕は圭っていうんだ。よろしくね」


練習風景を覗いていた私に向かって、彼は優しく微笑んだ。

父とも、クラスの男子とも違う笑顔。

その笑顔に、私は初めての恋をしてしまった。


「よろしく、圭ちゃん……」


私は彼を“圭ちゃん”と呼んだ。

女の子のような可愛い顔をしていたから、“圭くん”よりは彼にぴったりだと思ったのだ。


彼と出会って数日が経った、ある夕暮れのことだった。

私は一人で帰っていたのに、いつの間にかいじめっ子たちが私を取り囲み河川敷まで連れてきたのだ。

怖かった。何をされるのかは分かっていたから。


「お前、最近生意気なんだよ」


“足が速くてかっこいい”と女子から人気だった彼が私を見下すように言った。


「早く死ねよ」


“優しくて王子様みたい”と評判だった男子が私のランドセルを奪い取ると、“スポーツ少年”に投げた。


「やめて、返して! パパとママが買ってくれた大切なーー」

「うるせぇよ!」


“王子様”が私の背中を蹴った。

痛い。辛い。悲しい。


「あーあ、これどうしちゃおうかなぁ」


ニヤニヤと、口元に下品な笑みを浮かべてーー“スポーツ少年”は私のランドセルを見つめる。


「……返してよ、早く」


涙が零れそうになる。

でも、こいつらの前では泣きたくなかった。


「あれ、もしかして泣いてる?」


取り巻きがニヤニヤと私の顔を覗き込む。


「……香織ちゃん?」


後ろから迫ってきた足音にも気づかないくらい、私は動揺していたのだと思う。

大好きなその人は取り巻きを押しのけると、私の顔を覗き込んだ。


「……けい、ちゃ……」


ぼろぼろと大粒の涙が私の頬を滑り落ちた。


「……香織ちゃん……」


彼は私を抱きしめた。

赤ちゃんにするように背中をゆっくりと撫でてくれた。

彼は私を背中に庇い、いじめっ子たちに告げる。


「三秒時間をやるよ。その間にこの子のランドセルを返して、僕らの前から消え去れ。そして、もう二度とこの子をいじめるな」


“スポーツ少年”は唇を噛み締めた。


「こんなもん、いらねぇよ!」


彼がカウントダウンをするよりも先に、“スポーツ少年”は私のランドセルを川に投げ捨てた。


「……あっ」


私の声が聞こえるや否や、彼は川に飛び込んだ。


「圭ちゃん!」


私は震える手で、ポケットに入れていた防犯ブザーを鳴らした。

川の流れは案外早くて、ランドセルを手にした彼はどんどん流されていってしまう。


「誰か来てー!」


絶叫のような私の声に、近所の人が走ってきた。


「お願い、たすけて! 圭ちゃんが流されて……」

「大丈夫だよ、おじさんに任せて。お嬢ちゃんは救急車を呼んできてくれないか」


早口にそう言うと、おじさんは思い上着を脱ぎ川に飛び込んだ。

私は近くの家に走り、電話で救急車を呼んでもらった。


急いで河川敷に戻ると、圭ちゃんは静かに座っていた。


「圭ちゃん……」


震える声で彼を呼んだ。


「香織ちゃん、もう大丈夫だよ」


私はただ泣くばかりで、彼の顔を見られなかった。


「泣かないで。ランドセルは取り返したからさ」

「でも……ごめんなさい、ごめんなさい……!」


壊れた人形のように、ごめんなさいと繰り返す私を彼はただ抱きしめてくれた。

彼はどこまでも優しく、私はどこまでも弱かった。


「香織ちゃん、君が好きだよ」

「圭ちゃん……私も好き」


初恋は実らない、と誰かが言っていた。けれど、確かにこの恋は実ったのだ。

私は彼が好きだった。彼も同じ気持ちだった(と信じている)。

それでも私たちは幼くて、現状を変えるだけの力がなかったのだ。


彼の姿を見たのは、それが最後だった。


彼のご両親が激怒して、彼を田舎に連れて帰ってしまったのだと聞いている。

でも、大好きだった彼は今私の目の前にいる。

その事実だけで、もう充分な気がした。

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