鼠を殺す


 粘着シートにかかった鼠は絶えずひくひくと体を震わせていた。ときどき思い出したように足を動かす。まるで人間の慈悲に期待するかのように哀れっぽい声で鳴く。


 下半身の辺りに目をやると、茶色っぽく汚れている。鼻を突くアンモニアの匂いはそこから漂ってくるらしい。


「お姉ちゃん!」末っ子のミナコが叫んだ。わたしの服にすがりつき、爪を深く食い込ませる。「鼠、やだ!」


「はいはい。お姉ちゃんたちがなんとかするから」


「僕が殺してもいい?」


 そう言って目を輝かせるのは、次男のヒロシ。小学校三年生になるのに、いまだ虫や蛙を殺す遊びから卒業できずにいる困り者だ。


「ダメ。ヒロシがやると玄関が血まみれになっちゃう」


「ええー、ケチ」


「殺すなんて!」それまで黙っていた長男のアキオがヒスリックな声を上げた。「野蛮にもほどがある」


「じゃあ、アキオ。この鼠はどうするの?」


 アキオはこの質問にひどく戸惑ったようだった。


「そ、それは……逃がすんだよ。当たり前だろ。それ以外に何があるって言うんだ」


「どうやって?」


「たとえば……そうだな。粘着シートごと家の外に持って行って、逆さにして揺さぶるとか」


「それはもちろんアキオがやるんだよね」


「は? 姉さんがやるに決まってるだろ」


 アキオは自分の言葉に微塵も疑いを持っていないようだった。


「あのね。あんたが言い出したんだよ。言った人が責任を持つのは当然だと思うけど」


「だって、しょうがないだろ。ヒロシが殺すなんて言うから」アキオはすねるように言った。「僕はこのかわいそうな鼠の命を救おうとしただけだよ」


「だからそれが無責任だって言うの!」わたしは言った。「あんたはいつもそればっか。綺麗事ばっかり言って中身がないんだ」


「じゃあ、姉さんもその鼠を殺すって言うのか」


「そうよ」


 実際のところ、この瞬間まで鼠の後始末なんてこれっぽっちも考えてなかった。けれど、言ってしまった以上はしょうがない。


 鼠は殺す。


「お姉ちゃん……」


 ミナコがせかす。


「わかってる。わたしが殺すから」


 わたしは宣言して、玄関からリビングに上がった。キッチンスペースに向かい、やかんに水をたっぷり注ぎ火にかける。


 沸騰するまでには時間がかかった。苛々する。気がついたら爪を噛んでいた。お父さんから子供っぽいからやめるようにと言われていた癖。でも、それが何だって言うんだろう。幼い兄弟の世話をしているのだ。爪くらい噛んだっていいじゃないか。


 やかんが音を立てはじめた。


 一刻も早くあの汚らしい生き物を殺さないと。


 コンロの火を止め、急いで玄関にとって返した。


「どいて!」


 飽きもせずに鼠を観察していたヒロシに言う。アキオがびっくりしたような顔で突っ立ってるが、相手にしているだけのゆとりはない。


 鼠はまだそこにいた。真っ黒な瞳。ガラスを引っかくような鳴き声。糞尿の匂い。そのすべてがわたしの怒りを煽り立てた。


「お姉ちゃん、早く」ミナコがせかす。


「わかってる!」


 わたしはやかんを傾けた。沸騰したてのお湯が湯気を立てながら、鼠の上に振り注ぐ。鼠の鳴き声がいっそうひどくなる。手足をばたつかせ、熱湯と粘着から逃れようともがく。


 死なないかもしれない。


 そんな不安が一瞬、脳裏をよぎった。


 「いや! 鼠!」


 「あはは。こいつ、抜け出そうとしてるよ」


 「やめてくれ、姉さん。本当に死んでしまう!」


 頼むから死んでくれ。


 わたしは祈りながらお湯を注ぎ続けた。 玄関が水浸しになり、家族共用のサンダルやお父さんの革靴、兄弟のスニーカーを濡らした。やかんが軽くなっていく。足りなければまた水を沸かして来よう。何度でも何度でも水を注ぎ、沸騰させ、鼠に熱湯を浴びせ続けよう。たとえ玄関が洪水になろうとも、鼠が死んでくれるならばそれでかまわなかった。


 やがて、やかんから最後のお湯が流れきった。


 玄関を沈黙が満たす。兄弟はもはや誰一人言葉を発しなかった。


 そして、鼠。


 いったい、いつから鳴き声を発しなくなったのだろう。最後に何度か体を引きつかせたきり、微動だにしない。体中の体毛がお湯に濡れ、濃いグレイになっていた。


「濡れ鼠ってはじめて見た」


 わたしは努めて冷静につぶやいた。それから兄弟の方に向き直る。ヒロシはやや興奮した面持ちで、鼠の死に様を観察している。ミナコはアキオの服にすがりつき、恐る恐る鼠の方を伺っていた。アキオは口を半開きにして、打ちひしがれたような顔をしていた。


「ちょっと何? 泣いてるの?」


 わたしが訊くと、アキオは体をびくっと震わせわんわんと泣きはじめた。つられるようにしてミナコもまた赤ちゃんのような泣き声をあげはじめる。


 なんなんだ。


 消えかけた怒りが再燃した。


 鼠の始末をつけてあげたのに、どうして泣くことがあるんだろう。


 わたしはアキオの頭をぶってやろうとこぶしを振り上げた。しかし、その瞬間、リビングから電話の音が聞こえてきて、わたしははっとわれに帰った。アキオと目が合った。涙に濡れた真っ赤な目。


 わたしはいま何をしようとしてたの?


 こぶしを引っ込め、リビングの電話へと向かう。冷静になることだ。いまはわたしがこの家を取り仕切っているのだから。 それに、鼠の死体をどう始末するのかだってまだ考えていない。波乱はこれからも続くのだ。


「はい、住谷です」わたしは受話器を取って言った。「はい。そうですけど……いえ、お母さんはいません。その……二年前に出て行ったので。ええ、はい、はい。……本当ですか? はい、わかりました。すぐに伺います」


 わたしは受話器を置いた。もはや鼠のことは頭から消えていた。いてもたってもいられず玄関にとって返し、大声で叫んだ。


「お父さんの死体が見つかったって!」

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