怪談

 あれはわたしがまだ信仰を失う前のこと。ある夏のことでした。中学二年生だったわたしは教団の催す修練会に参加したのです。


 修練会。期間こそ一週間と長いものの、やることといったら親睦を深めるためのレクリエーション大会やバーベキュー、堅いところで長時間にわたる特別講義やボランティア活動といったところで、修練会という響きから連想されるほどハードなものではなく、また新興宗教という響きから連想されるほどいかがわしい、洗脳的なものでもありませんでした。山歩きもまたそうしたメニューのひとつでした。


 そう、山歩きです。修練所の裏に位置する小さな山。その山道を通ってまた修練所に戻ってくるのがそのメニューの内容でした。それがどんな意味を持つのか当時のわたしにはよく理解できませんでしたし、あるいは企画した教団の人間にもよくわかってなかったのではないでしょうか。


 日が沈み始めた頃、わたしたちの班に順番が回ってきました――わたしたちは修練会の間、教区ごとに分けられた班に固まって行動するのが常だったのです。もちろん班員は男性だけでした。修練会には女性も参加していましたが、男女が接触する機会はほとんどゼロといっていい状態でした。ええ、そこだけは宗教らしい、男女交際に対する厳格さが働いていたのです。


 わたしたちは高校生の班長に従い山に足を踏み入れました。はじめの方こそ山道らしく、上り坂が続きましたが、ある高度に達するとそこからはほとんど平坦になりました。左右を鬱蒼と茂った藪や木々に挟まれた道の幅は狭く、二人通れるのがやっとというくらいでした。


 わたしは修練会の間に仲良くなったひとつ年下のS君と並んで歩きましたが、私語が許される雰囲気でもなかったので、お互いに足元の石や木の根に注意を促す以外は特にやり取りもなく、徐々に暗くなりつつある林の中を黙々と進みました。


 山に入って二十分も経つと、空はすっかり暗黒に染まってしまいました。ただ班長の持つ懐中電灯だけが、電車のヘッドライトのように前方の道を照らすばかりです。わたしはただ目の前の道を早く消化して、修練所に帰ることしか頭にありませんでした。露出した手足はすっかり蚊の餌食になっていましたし、汗でびっしょりと湿ったシャツも不快でした。早く修練所のシャワーを浴びたい。その一心で重い足を引きずっていったのです。


 道が急な下り坂に差し掛かったときでした。わたしたちは後方の班員に注意を促すため背後を振り向きました。そして、「それ」に気づいたのです。


 「それ」は白い顔をしていました。「それ」はわたしたちと同じくらいの背格好をしていました。「それ」はこ隊列の最後尾でぬぼーっと立っていました。光源のないはずの後方で、「それ」の顔だけが満月のように明々と浮かび上がっていたのです。

それはわたしの見たことがない顔でした。


 わたしは今でも瞼の裏にその顔を浮かべることができます。すっと通った鼻筋。三日月型の眉。長い睫が縁取る大きな目。ぼんやり光る顔の中でそこだけは唯一、闇を集めたような漆黒の瞳――まだあどけなさの残る、しかしまるで生気を感じられない子供の顔。それは女性でした。ちょうどわたしと同じ年頃の少女の顔だったのです。そこにいるはずのない女性の顔!


 わたしの目が「それ」に釘付けになっていると――といっても実際は二秒と見ていなかったでしょう――「大丈夫か」という声とともに懐中電灯の光が後方の班員を照らしました。班長が急な坂道を下る彼らに配慮したのでしょう。わたしはまぶしさに一瞬目を細めました。その間になにか風が頬をなでるような感覚を覚えました。ぞっとしたわたしが再び目を開いたとき、「それ」は完全に姿を消していました。その後、それとなく振り返ってもあの満月のような顔を見ることはありませんでした。


 やがてわたしたちは無事山道を下り、林を抜け、コンクリートで舗装された道路に出ました。一瞬崩れた隊列の中に「それ」の姿を探しますが、そこにいるのはいずれも見知った班員だけでした。


 やはりあれは錯覚だったに違いない――そう、安堵したときです。


 とん――と。


 誰かがわたしの肩に手を置いたのです。わたしは思わず小さな悲鳴を上げました。しかし振り返ってみるとそこにいるのはS君でした。


 ――どうしたんですか?


 ひとつ年下のS君が彼自身びっくりしたように問います。気づけばわたしたちは班員みんなの視線を集めていました。


 ――いや、いきなり手を置くから。

 ――意外と気が小さいんですね。


 S君は子供っぽい笑みを浮かべました。


 ――それより××さん、肩にこれが。


 なるほど。S君はわたしの肩になにかごみがついているのを見つけ、それを取ってくれたのでしょう。葉か虫か。そんなところだろう。わたしはそう思ったものです。しかし、S君が開いた手のひらには――


 ――この髪、××さんのにしても長いですね……


 それは黒い髪でした。当時、男としては長髪の部類だった私の髪にしても長い――


 女性の髪……


 わたしは「それ」を見たときの感覚がよみがえるのを感じました。あの時、班長が懐中電灯の明かりを後ろに向けたときに覚えた感覚。頬をなでるような、風のような感覚。あれは本当に風だったのだろうか。あれはもしかしたら、「それ」がわたしの横を通り抜けて行くときに接触した肌の感覚だったのではないだろうか。そしてこの髪はそのとき「それ」がわたしの肩に落としていったのではないか――


 わたしの身体を戦慄が駆けめぐったそのとき――


 ひゅん。


 ――あ。


 風がまた吹いたのです。あるいは「それ」が自分の忘れ物を取りに戻ったのでしょうか。風のような何かはたちまちS君の手のひらから髪を浚っていってしまいました。


 ――なんだったんでしょう。


 しかしS君はさして気にも留めていないようで。その後、わたしたちは何事もなく修練所にたどり着き、シャワーの恩恵に与りました。


 あれはいったいなんだったのでしょう。今でもたまに考えることがあります。しかし、受験生となり、勉強が忙しくなる中で徐々に信仰心を失い、気がつけば教会に通うことも修練会に参加することもなくなったわたしには、それを確かめる機会がありませんでした。

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