あるディストピアSFのプロローグ

 おじさんの手足は奇妙な方向にねじれ、首はあらぬ方を向いていた。


 おじさんに意識があれば、わたしたちのスカートの中が丸見えになっていたことだろう。だけどおじさんは完膚なきまでに死んでいて、だからわたしたちはおじさんの目線に頓着することなく端末を操作して文章を打ち込んでいる。


 おじさんの死を「描写」する。


 わたしは自分の「作品」の中で数え切れないほどの死体を転がしてきたけれど、生身の死体を見るのははじめてだった。


 むかし、この国では毎年三万人の人間が自ら命をなげうっていたと言う。


 ホロコーストの六〇〇万人やソ連で粛清された七〇〇万人というのも想像しがたい数字だが、毎年コンスタントに三万人の人間が命を絶つというのもそれはそれで不気味な話だ。まるでリアリティがない。


 このおじさんはどうして自殺を選んだのだろう。


 死を選ばざるを得ないほど苦しいことがあるなら、それはきっと素晴らしい「作品」のモチーフになっただろうに。


 それをどうして言葉として表現しなかったのだろう。


 それが悔やまれてならない。


 死は最悪の表現だと「リテラ」は言う。それはコミュニケーションの断念、世界に向かって突きつける絶縁状なのだと。


 おじさんはもしかしたら「表現弱者」だったのかもしれない。いや、きっとそうだろう。そうでもなければこんな拙いかたちで絶望を「表現」したりはしない。「リテラ」の教育がどこまで行き届いても、落ちこぼれは生まれえるものなのだ。それが年間千人程度の自殺者を生む。死それ以外に表現の術を持たない人間を。


 言葉は、それを書く人間がいなければ生まれ得ない。その意味で表現の術を持たない人間の声は、誰にも届かない。存在しないのと同じだ。言語に支配されたわたしたちにとって、この世界にはまだ言語で表現できない感情や世界が残っているという事実はとても興味をそそられる。それはたとえるなら、一部の人が宇宙や深海に抱くロマンと同じものだ。人はいつだって自分たちの手が届かない場所に憧れる。


 言語で表現しえないものを他ならぬ言語で表現する。


 それこそがすべての作家が目指すべき境地だろう。


 だからわたしたちはおじさんの死を「描写」する。みじめに死んでいったおじさんの周りをハゲワシのようにたかり、おじさんの死から掠め取れるだけのものを掠め取る。それが他ならぬおじさんの供養になると信じて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る