スペクタークラフト

久佐馬野景

亀が泳ぐ街

 牛の首に殺される。

 この言葉が再び現れた時、警視庁刑事部捜査一課はにわかに色めき立った――はずだと信じたい。

 先日、神保町のファミリーレストランのトイレ内で不審死を遂げた女性の所持していたスマートフォンの中に、その一文が保存されていた。

 現在捜査一課が血眼になって犯人を追っている、先月発生した調布市のマンション内殺人事件。その被害者の残した走り書き――つまるところのダイイングメッセージと見られる――にも、同じ言葉が残されていたのだ。

 連続殺人の可能性が浮かび上がる。そんな関連性を持った言葉だった。

 ところが、神保町の被害者の死には、不審な点が多すぎた。

 現場の状況はこうだ。下着を着用したまま洋式便座に腰かけた女性の頸動脈がかき切られていたにも関わらず、トイレの個室内に血痕はない。拭き取った跡もない。代わりに、便器の中に大量の被害者のものと思われる血液が溜まっていた。なお、凶器は見つかっておらず、トイレの個室には鍵がかかっていた。

 不審死以外に言いようがない。自殺というのは不可能であると思われることから、殺人事件の方向で捜査が進められているが、犯人の手がかりは一切なかった。

 そこで発見された一文――牛の首に殺される。ほとんど唯一の手がかりであり、調布の殺人事件と繋がりを持つ可能性のある言葉。

「で、地取りに来たわけか」

 樹木きき書店の店主、樹木幸也ゆきやはいつもそうであるように仏頂面のまま応対する。

「やだなあおじさん。一人で地取りに行かされるほど私が信用されてると思います?」

 そう言って鬼島きじま三月みづきは相好を崩す。よれよれのスーツ姿にろくにセットせず纏めただけの薄い茶髪。へらへらと笑う顔は申し訳程度の薄化粧がされている。

「サボりか。公僕がいいご身分だな」

 嫌味どころか説教レベルの文句を言われても、三月はへらへらとした笑みを崩さない。

「いやね、一応これでも捜査の足しになればと思ってのことなのよ。というわけで、慈姑くわいいる?」

「いるよ」

 樹木慈姑はそう言って店の前に停めてあった古書を山ほど積んだ軽トラックの助手席から降りた。昔は艶やかで三月も憧れたはずが、今は自分で切っているせいか手入れをろくにしていないせいか、伸び放題の荒れた黒髪。着ているのは中学時代のジャージである。「何もかも無理になった」と宣言して大学を辞めてから六年。今も心情はその頃と同じらしく、倦み疲れたような表情からは何の覇気も感じさせない。

「うおびっくりした! いるなら私が来た時点で顔出しなさいよ」

「聞き取りなら応じるつもりはなかったから」

 慈姑はそう言って荷台の本を一山持って店の中に入る。

「仕方ない。上がれ、三月」

 幸也に言われて三月はようやく店内に踏み込んだ。

 樹木書店は特にこれと言って専門に扱う本の種別はない。学術書や専門書もあれば、未成年に有害と言われる写真集に漫画雑誌、小説の単行本も文庫もある。一応棚ごとに分類されているが、それも曖昧としており、棚を眺めて回ると目が回るともっぱらの評判だった。

 慈姑は大学を中退後、父である幸也の経営するこの店を手伝っている――というのは建前であり、実際は日中のほとんどを店の奥で棚に並ばない本を読んで過ごしている。店の表に出ていくことはまずなく、いてもいなくても変わらないような有様だった。

「牛の首――ねえ」

 店内で二人の被害者の残した一文について話した三月は、じっと慈姑の言葉に耳を傾ける。

「三月は『牛の首』の話、知ってるよね?」

 頷く。慈姑から聞かされていたからだ。

 牛の首という怪談がある。その話はあまりに恐ろしく、聞いただけで死んでしまう。なので誰もその内容を知らない――そんな実態のない怪談を伝える怪談だと慈姑は言っていた。

「殺されるっていうのがよくわからないな。牛の首は『聞くと死ぬ』話であって、それ自体が害意を持って襲ってくるわけじゃない」

「そうそう。そこが気になってさあ。今のところ二つを関連づける点がなさすぎるからって、共同捜査本部は組まれそうにないし。牛の首がこれこれこういう意味ですって説明しようにも誰も聞く耳持たずだし。だからこの言葉の意味をずばっと明らかにできればなーと思って」

 慈姑は溜め息を吐いて、首を横に振った。

「それで僕をあてにしにきたの? 期待されても困るんだけどな」

「だって、牛の首のこと私に話したの慈姑じゃん」

「それは昔の話でしょ。今回の事件と僕は無関係じゃないか」

 不満そうに唇を尖らせる三月に、慈姑はやれやれといった調子の溜め息で応える。

「じゃあこういうのは? 『牛の首に殺される』というのは近頃若い女性の間で流行りの魔除けの言葉で、今回の被害者はたまたまその言葉のあるところで殺されていた」

「え? マジで無関係?」

「例えばの話だよ。でも、実際こんな顛末なんじゃないかと思うけどね。さっきも言ったように、牛の首は殺しにこない。黒史郎が『妖怪補遺々々ようかいほいほい』で取り上げていた『牛の首』っていう怪談も、『死の報せ』のような話だし――」

「えっ、牛の首って中身があるの?」

 慈姑はしまったと溜め息を吐く。

「黒先生が取り上げたのは、『牛の首の姿をした怪異が登場する怪談』だよ。いや、タイトルも『牛の首』なんだけど、いま世間に流布している『牛の首』とは無関係というか、今までほとんど誰も知らなかった話で、凄まじい熱意がなければ見つからなかったようなものであって――」

 わかったわかったと三月が慈姑をなだめる。話に熱が入るとどんどん長く早口になっていく慈姑の癖だ。慈姑自身、「オタク特有の早口」と自嘲している。

「だから、実際に存在する『牛の首』という怪談と、都市伝説になっている『牛の首』は切り離さないといけない。名前が同じだけの別物ということにしておかないと、ややこしくなるだけだから」

 もう一度わかったわかった。慈姑の話に横槍を入れてややこしくしたのは三月だが、そもそもその種を蒔いたのは慈姑だ。

「とにもかくにも、牛の首は殺しにこない。そのダイイングメッセージは意味をなしていないよ」

「ちぇっ。収穫ゼロかー」

 三月はそう言って立ち上がり、幸也に声をかけてから店の外へ出た。

 仮庁舎の神田署へ戻ると、特別捜査本部の置かれている会議室ではなく自分のデスクへと向かった。

 警視庁神田警察署刑事課強行犯係所属の巡査。それが三月の表向きの立ち位置だった。

 ところが一人で外に出ていたのにも関わらず、課の誰もそれを問い詰めたり咎めたりしてこない。普通、刑事は二人一組での行動が原則である。三月も今回の事件では捜査一課の中年刑事と組んでいるが、そちらからも何のお咎めもない。

「鬼島さん。戻ったなら言ってくれないと」

 口調は柔らかいが、一応お咎めはあったか――と口の中で笑い、三月は今回組んでいる大嶽おおたけじゅんと向き合う。

 どう見ても堅気ではないと思わせる凶相である。本気で凄まれたなら多分三月は泣く。しかし実際はどこまでも柔和な話し方と声で聞く者を安心させ、その顔で見る者を恐怖させる。一人飴と鞭だと半分本気で呼ばれている。

「それで、話は聞けました?」

 頷き、慈姑から聞いた話を大嶽に伝える。大嶽には今回の外出について話していた。

 大嶽は捜査一課でも腕利きの刑事として知られている。それがなぜ三月などと組まされたのか。それは互いにはみ出し者として扱われているからだろうと大嶽は述懐していた。

 大嶽は過去に大きな不祥事を起こしたらしく、常に捜査一課から制裁を受け続けているような状況だという。大嶽の発言は、全て無視される。捜査会議でも発言は一切認められない。私的なのか公的なのかすらもはやわからないレベルで常態化している。

 それでも、大嶽が優秀だということは疑いようのない事実として認められている。

 そのため大嶽は組むことになった刑事や、ほかの捜査一課の刑事などに直接自分の捜査状況を伝え、伝えた人間が捜査したことにして捜査会議の俎上に載せさせる。表に出ることを許されなくなった代わりに、捜査一課を裏から束ねていると称される。それでも大嶽のことを疎ましく思う者が――特に上層部には――いるのは確かで、今回は三月と組まされることになった。

 三月が話し終えると、大嶽はやはりと言った様子で頷いた。

「この二つの事件を結びつけるのは難しいでしょうね」

「でも――」

「意味をなさない共通の文章。これは確かに重大な点に見えます。ですがよく考えてみなさい。この文章は意味をなさないんです。それはつまり、ダイイングメッセージなどという劇的なものではないということですよ」

 三月は俯く。それに――と大嶽は優しく諭すように続ける。

「私たちの担当している事件の被害者の残したメモは、死亡する二日前にスマートフォンの中で作成されたものです。ダイイングメッセージなどではないことは明白じゃないですか」

 言われて、慈姑にそのことを伝えていないことに気づいた。それでも多分慈姑のことだろうから、それくらいは察していたはずだ。

 何か言い返そうとするが、言葉は出ない。

「いいえ。それはダイイングメッセージですよ」

 聞いただけで背筋が伸びそうな、厳格な女教師のような声が響いた。

 染めていないのに調和の取れた灰色の髪。寸分違わず身体に合わせて仕立てられたスーツ。銀縁の眼鏡のレンズで和らげられていてもなお鋭い目つき。大嶽が暴力的な怖さなら、この女性は理知的な怖さだった。

 三月は知らない人間の登場に首を傾げ、ちらりと大嶽の顔を見て、思わず目を剥いた。

 大嶽は、衝撃のあまり愕然と強面を固めていた。

「お久しぶりです、大嶽さん」

 女は礼儀正しく一礼し、三月に微笑みかける。

「あんた――いえ、あなたがなぜこちらに?」

 まだ衝撃から抜けきれないのか、わずかに震える声で大嶽が女に訊ねる。

「決まっています。仕事ですよ」

 その言葉は、女の登場よりもはるかに大きな衝撃を大嶽に与えたようだった。

「初めまして。宮内庁の十塚とつか紅葉もみじと申します」

「――は?」

 女の言葉に頭が追いつかず、思わず間抜けで無礼な声を上げてしまう。

 十塚はそれに不快感を示すこともなく、穏やかに笑って大嶽と向き合う。

「大嶽さん。私が出張ってきた意味は、もうおわかりですね?」

「――あなたがどうしようと、私たちは私たちの捜査を続けるだけです」

「続けられるのなら――ね」

 大嶽は苦虫を噛み潰したような顔を作る。大の大人が見ても裸足で逃げ出しそうな凄まじい顔だが、十塚は全く動じない。

「いえ、いえ。今回は捜査協力を申し出に参ったんです。できるなら大嶽さんと組みたいと思いまして」

「本当にいい性格をしている」

「当然です」

 一人蚊帳の外の三月は半分呆けたように二人の真剣での立ち合いのようなやり取りを眺めていた。

「すでにお二人は捜査本部から外してもらいました」

「はあっ?」

 思わず前に出そうになる三月を、大嶽が制する。

「これからは私たち三人で、独自に事件を追うということで。よろしいですね?」

「ちょっと待っ――」

 口を出そうとする三月だったが、大嶽に目で黙らされてしまった。

「拒否権はないんでしょう。いいですよ。お供します。鬼島さんも、諦めてください」

 諦めろと言われても、なにがなんだかさっぱりわからない。

 大嶽の圧力は消えていたので、三月はやっとまともに口を開く。

「あの、十塚さん、さっき宮内庁って――」

「ええ。私は宮内庁に勤めています」

「官僚じゃないですか」

 警視庁という官公庁に勤めている時点で、上にはごまんと官僚がいるのは当然なのだが、宮内庁となれば話は違う。畑違いもいいところだ。それが警察に口を出し、共同捜査を申し出ている。常軌を逸していると言うほかない。

 そもそも宮内庁は皇室関連の官公庁であり、警察とはまるで無関係だ。いや、皇宮警察という組織が存在している時点で無関係というわけでは当然ないのだが、それにしたって今は刑事事件の捜査である。明らかに分を超えている。

「私は、どちらかと言えば技官テクノクラートですよ」

 ますますわけがわからない。宮内庁に技官が入るところがあったかと頭を捻るが、三月では判断しかねた。

「場所を移しましょうか。私たちの捜査本部として、部屋を確保してあります」

 本当に何者なのだと叫び出したくなるのをぐっとこらえ、三月は十塚と大嶽のあとに続いて仮庁舎の中を進む。

 十塚の案内した捜査本部というのが、署長室に隣接する応接室だったことに三月はもう驚かなかった。この人は何でもありなのだ。

 一人ソファに腰かけた十塚が、穏やかに口を開く。

「さて、では私から捜査方針を。私たちはこれより、調布市マンション内殺人事件と、神保町ファミリーレストラン内殺人事件を、連続する事件として扱います」

 十塚の言葉に三月は待ったをかける。大嶽は部屋の隅に憮然と立っており、止めに入る様子はない。

「根拠はなんですか? 宮内庁が何か情報を掴んでいるんだったら、特捜に伝えたほうがいいんじゃ――」

「鬼島さん、私があなたたち二人を捜査本部から外させた意味を考えてください。これはね、警察の手に余る事件ということですよ」

「それは――皇室が絡んでいるとか……?」

 十塚は苦笑する。

「そう思われても仕方のない立場ですが、皇室は一切関係ないと断言しておきましょう。その点は安心してください」

 一応の安心はするが、胸を撫で下ろすことはできない。宮内庁が出てきて皇室が無関係となると、事態は余計に混迷を極める予感がしてならない。

「それにあなたはすでに、この二つの事件が連続していると判断していたのでしょう?」

 うっと言葉に詰まる。それは確かにそうなのだが、まさかこんな形で三月の報告が採用されるとは思わなかった。

「慧眼ですね。調布署から資料は取り寄せてあります。そして、こちらが私から提供する資料です」

 十塚はトランクから数枚のコピー用紙を取り出した。

 名前と職業、年齢、性別、住所。それらが一セットになった項目が、およそ十。

「これは……?」

「都内で次の被害者になる可能性のある人物のリストです」

 思わず身を乗り出す。

「次って――なんでわかるんですか?」

 十塚は三月の質問を、真正面から無視した。こうも居直られては問い詰めることもできない。

「お二人はこのリストの人物の許へ行っていただき、聞き取りをしてください」

「聞き取りって、何をです?」

 先ほどの質問を無視され気色ばむ三月は若干語気を強めて訊ねる。

「決まっています。鬼島さんは、この二つの事件にどこから関連性を見出したんです」

「『牛の首に殺される』――」

「次の事件発生を未然に防ぐのなら、そこを当たるのが妥当かと思います」

 確かに次の被害者候補が――どういうわけか――わかっているのなら、そこからさらに絞り込むために、このキーワードは有効に思える。

 不信は拭えないが、どうせ元の捜査から切り離されてしまったのだ。それにこれは三月が望んだ捜査方針でもある。

「十塚さん」

 大嶽がこの部屋に入って初めて口を開いた。

「なぜ、公安ではないんです」

 十塚はふと、遠い昔を眺めているかのような間の抜けた表情を寸の間浮かべる。だがすぐに落ち着いた態度を取り戻し、大嶽に答える。

「公安が担当する事件ではないからですよ。現に、今起こっているのは警察の見解では別々の殺人事件です。なら、捜査をするのは刑事部でしょう」

「――わかりました。捜査に協力しましょう」

 大嶽は三月に資料のコピーを取るように頼み、渡されたコピーに自分も目を通す。

「優先順位は?」

「ありません。全員等しく危険があります。強いて言うなら――」

 十塚は明確な事実であるかのように淡々と言う。

「愚かな者から死ぬでしょう」

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