3-1-05
図書館は三階建てで、一般に公開されている開架図書のある閲覧室は一階、二階は閉架図書が収められている書庫と事務室やロッカールーム、給湯室などがあり、三階は視聴覚室や会議室、多目的ホールなどがあった。
「また、外見てるんですか」
俺が振り返ると、ナオミちゃんが立っていた。
三つある会議室のひとつ、いちばん見晴らしのいい第三会議室の窓際に置いたテーブルの上に腰かけ、窓の下のエアコンディショナーに足を乗せて窓の外を眺めるのが、俺の日課になっていた。
メサは少し離れた席で本を読んでいる。
「うん」俺はナオミちゃんにうなずくと、また窓の外に目を向けた。
マンションとビルが並び、少し離れた場所には住宅がひしめき合うように建っている。そんな町の光景がここからは一望できた。
俺とメサがここに来て、一週間が過ぎた……はずだ。
なぜか、時間の感覚が曖昧になっている。その日起きたことが思い出せなかったり、あっという間に時間が経ってしまっていたりした。メサによると、この仮想空間にそこまでの処理能力がないからだそうだ。
ナオミちゃんも窓際に立って、外を眺めた。
俺は机から降りて、ナオミちゃんの左側に立った。右目に眼帯をしている彼女の右側に立つと、俺は視界に入らないから、なるべく彼女の左側にいるようにしている。
町は相変わらずひっそりとしている。
たまに、どこか遠くの方で煙が上がることがあるくらいだ。
でもたぶん、町の中に入ったら異様な光景が繰り広げられているはずだ。
じっと町を見下ろしながら、ナオミちゃんがいった。
「お兄ちゃんが、来てほしいって」
「わかった」
「ガスも止まったよ」
俺が二階の給湯室に降りていくと、春彦さんが備蓄食料を整理する手を止めて、いった。
俺はうなずくと、春彦さんを手伝い始めた。
備品とリストをチェックしていく。
「水は?」
俺の質問に春彦さんは答えた。
「まだ生きてる」
最初に電気が止まり、次にガスが止まった。
「たぶん、システムのオペレーションが複雑なものから止まっているんだろう。水道もいつまでもつかわからない」
「念のため、ミネラルウォーターも確保しておきましょう」チェックし終わったリストを春彦さんに手渡しながら、俺はいった。「後で調達に行ってきます」
「ひとりで大丈夫か」
「はい」
これまで世界を支えていた経済活動はすべてストップしているため、俺たちはスーパーやコンビニなどから必要な物品を調達していた。幸いなことに、町にはそれほどたくさんの人間が存在しているわけではないようで、店にはまだ品物は残っていた。それでも、俺たち以外の人間も同じような行動をしているらしく、町の中のストックはどんどん減っていた。
俺と春彦さんは交代で、町の状況の確認と物資の確保を行っていた。俺は、メサのおかげで町の住人達と出くわすことなく行動することができた。町へ行くのは俺だけでいいと主張したけど、いつも春彦さんに却下された。
大きなリュックを背負って――キャリーバッグは音を立てるから使わないようにしている――俺はメサと町に下りた。
「もしかして」俺は数日前から考えていたことをメサに尋ねた。「この仮想空間の時間の進み方と現実世界の時間の進み方は違うんじゃないのか」
「その可能性は高いです」メサは周囲を警戒しながら、答えた。「おそらく、ここの時間の進み方の方が遅いんだと思います」
「ということは、もし元の世界に戻れたとしても、こちらで過ごした時間よりも多くの時間が経っているかもしれないということだな」
「はい」メサは申し訳なさそうにいった。「すみません、右京さん。まだ元の世界に戻るためのヒントすらつかめてなくて……」
「メサが謝ることじゃないさ」俺はいった。「ここに飛ばされたのが俺だけじゃなくてよかったよ。感謝してる」
メサはぶんぶんと首を振った。
「さあ。とっとと仕事を終えてしまおう」俺は務めて明るくいった。
予定通り物資を調達して、俺たちが図書館に戻ってくると、閲覧室の方から話声が聞こえてきた。春彦さんとナオミちゃんが、どうやらいい争っているみたいだ。これまでそんなことはなかった。
話の内容まではわからなかったが、ナオミちゃんが春彦さんに食ってかかっているみたいだ。
「もう少しあとにした方がいいかな」
俺の言葉に、メサはうなずいた。
「そうみたいですね」
踵を返そうとしたとき、閲覧室からナオミちゃんが飛び出してきた。
俺と目が合うと、ナオミちゃんは気まずそうにうつむいて、階段の方へ早足で去っていった。
閲覧室に入ると、春彦さんが腕組みをして座っていた。
俺に気付くと、「お疲れ様。どうだった?」と立ち上がった。
「特に問題ありません。荷物は給湯室に置いてます」
「ありがとう」春彦さんはちょっと照れたような表情を浮かべた。「さっきの、聞こえてた?」
「ええ。でも内容までは……」
「あいつは、ここを出るべきだといってるんだ」春彦さんはそういって、また席に着いた。俺も向かいの席に座った。
「ここを出る……」確かに、それも選択肢の一つとして考えなければならない日が来るとは思っていた。
「このままここにいても、近くにある物資を食い尽くしてしまったら、どうしようもなくなる。そうなる前に、自給自足ができそうな場所を見つけて移動すべきだと」
「一理あると思います」俺はうなずいた。「でも、やみくもに動くのも危険です。まずは移動先を探して、安全を確認してから移動の計画をすべきでしょう」
「僕も同じ意見だ」春彦さんは肩をすくめた。「あいつは、僕たちと同じように、影響を受けていない人間がいるはずだと思ってる。そういう人たちを探して、力を合わせるべきだと」
「確かに、そういう人がどこかにいるかもしれません。でも、見つかる保証もない」
「そうだね」
春彦さんは少しためらいがちに、話し始めた。
「あいつが気に入らないのは、僕があまりにもあいつに対して過保護だからなんだ」
「それは……こういう状況だし、当然じゃないですか」
春彦さんは首を振った。
「あいつの、ナオミの右目のことで、僕はずっと責任を感じているから。
ナオミもそれをわかっているから、あいつなりに気を遣ってるんだと思う。
少し、昔話をしてもいいかな」
俺はうなずいた。
「僕が中学生で、ナオミが五歳のときだ。
僕はナオミの手を引いて、地下街を歩いていた。
大きな駅の地下で、とても混雑していた。
その日は雨が降っていて、道行く人はみんな傘を持っていた。
スーツを着た男の人が、人をかき分けながら僕たちを追い抜こうとした。急いでいるみたいだった。
そいつも傘を持っていた。
そいつは、持っている傘を前後に大きく振りながら歩いてたんだ。
そいつが腕を後ろに振ったとき、尖った傘の先端が、ちょうどナオミの目に突き刺さった。
一瞬、何が起きたのか、把握できなかった。
うずくまったナオミの様子を見て、ようやく理解した。
男は自分のしたことに気付いた様子もなく、どんどん先へ行こうとしてる。
迷った挙句、僕はナオミをそこに残して、走って男を追いかけた。
男に追いついて、腕をつかみ、そいつのやったことを訴えた。
男は一瞬戸惑いを見せたけど、僕の手を振りほどくと、僕を突き飛ばして、逃げ去ってしまった。
ナオミをずっとひとりにしておくわけにもいかず、仕方なく僕はナオミの元へ戻った。
ナオミは失明したよ」
春彦さんは、そこまで淡々とした口調で話すと、ふと窓の外を見た。
「だから、雨は嫌いなんだ」
そうつぶやいて、僕の方を見た。
「前に、あいつがいったのを覚えているかい? 僕は想像力に関してはちょっとうるさいって」
俺はうなずいた。「覚えてます」
「その出来事があってから、僕はずっと考えたんだ。
なんでそんなことが起こったのかって。
もし、あの男に、自分の後ろに、小さな子供がいるかもしれないっていう可能性が頭の中にあれば、あんなことにはならかったんじゃないか。
自分が振り回している傘の高さと同じくらいの背丈の子供が、後ろにいる可能性について思い至れば。
その可能性を想像することができれば。
それを想像することは、そんなにも難しいことなんだろうか。
想像力の欠如。
僕は、それからも日常のいろんな場面で、想像力の欠如によって発生する様々な問題を目にしてきた。
ほんの少し想像力を働かせるだけで、問題を回避できたはずの出来事があまりも多いことに、僕は気づいた。
だから、事あるごとに、僕は周りの人間にいって回ったんだ。
想像力を常に働かせろって。
もちろん、自戒を込めて、自分自身に対してもね。人は知らず知らず、誰かを傷つけたりするものだから。
ただ、断言してもいいけど、世の中には二種類の人間しかいない。
傘を振り回して歩く人間と、何があっても決して傘を振り回さない人間だ。
まあ、それはいいとして。
いい加減みんなうんざりしていたと思うよ。
でも、幸いにも、みんな文句もいわず僕の話を聞いてくれたけどね」
そこで春彦さんは、ぱん、と手のひらを合わせた。
「以上、昔話はおしまい。
そんなわけだから、僕は逆にナオミには気を遣わせることになっていたのかもしれないね」
「たとえそうだとしても」俺はいった。「春彦さんがナオミちゃんのことを大事に思う気持ちは間違っていませんよ。ナオミちゃんがもう少し大きくなれば、彼女の感じ方も違ってくるかもしれません」
「そうだね」春彦さんは照れ臭そうに微笑んだ。「移動の件に関しては、またゆっくりと考えよう」
「そうですね。いずれは考えなければならないことですし。あと、俺からもナオミちゃんに声かけておきます」
「ありがとう」そういって、春彦さんはぺこりと頭を下げた。
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