3-1-06

 二階の書庫は小さな窓がひとつだけしかなくて、いつも薄暗い。

 俺たちは特に用事のない時の過ごし方が自然と決まっていて、ナオミちゃんはよくここでひとり本を読んでいた。

 俺は開いている入り口の壁を、とんとん、とノックした。

「どうぞ」

 部屋の奥からナオミちゃんの声が返ってきたので、俺とメサは中に入った。

 ナオミちゃんは床の上にあぐらをかいて座っていた。

 手には文庫サイズの本を持ち、床にも何冊かの本が置かれている。

「お兄ちゃんから何かいわれた?」

 俺もナオミちゃんの隣にあぐらをかいて座った。メサも俺のそばに腰を下ろした。

「君の目のこと。そのことで君に気を遣わせてしまっていること」

 ナオミちゃんは、無言でふんふん、とうなずいた。

「春彦さんは、君のことを心配してる。純粋に。兄として」

 それには答えず、ナオミちゃんは手にしていた文庫本を俺に手渡した。

「それ、読んだことある?」

「あ」俺の手元を覗き込んだメサがいった。「それ、前に右京さんが借りてくれた本ですね」

 それは、以前俺が図書館からメサのために借りた本の中の一冊で、メサが主人公たちの気持ちがわからないと俺に話した小説だった。

 俺はメサにうなずいてから、ナオミちゃんにいった。「あるよ」

「私、読むの二回目なんです」ナオミちゃんはじっと俺を見つめた。「最初読んだとき、すごくびっくりした。すごい小説だって思った。この人、ノーベル文学賞取ったんですよね」

「うん」

「でも、今読んだら、何も感じないんです。登場人物たちの気持ちもわからないし、最初に読んだときに感じた、苦しみや悲しみが心の中に沸き起こってこない」

「それは、単に二回目だから、ということじゃなくて?」

 ナオミちゃんは首を振った。

「右京さん。私たぶん、異変の影響を受け始めていると思います」

 俺は思わずメサを見た。

「可能性は、あります」メサがいった。

「そのこと、春彦さんには?」俺はナオミちゃんに尋ねた。

「いいました。たぶんそのこともあって、お兄ちゃんはいつにもまして私のことを心配しているんだと思います」

「でもまだ確実にそうと決まったわけじゃない」俺は自分にいい聞かせるようにいった。「今はとにかく様子を見るしかない」

 俺はメサにいった。「なんとかならないのか」

「すみません、右京さん。私には……」メサはうなだれた。

 俺が本を返そうとすると、ナオミちゃんは首を振った。「もういりません。右京さんが持っててください」そして、書庫に並んでいる本たちを見渡した。

「こんなにもたくさん本があるのに。もう私は本から何かを感じ取ることができなくなっていくのかな」

 ナオミちゃんのその言葉に、俺は何も答えてあげることができなかった。


「右京さん」

 その日も、俺はいつものように三階の第三会議室の窓から、町を眺めていた。

 振り返ると、メサが入り口に立っていた。

 そういえば、いつもは近くで本を読んでいるメサがいないので、どこにいったんだろうと気になっていたところだった。

「ナオミちゃんがいません」メサがいった。


「右京君はここにいてくれ」

 銃を手にした春彦さんがいった。

 玄関ホールは薄暗く、こちらを振り返った春彦さんの顔の半分を暗い影が覆っていた。

「俺も行きます」春彦さんのあとをついて行きながら、俺はいった。「とにかく今はひとりでも多いほうがいい」

「わかった」春彦さんは非常ドアを開けた。「くれぐれも無理はするな」

 俺はうなずいた。


 ナオミちゃんの遺体を見つけたのは春彦さんだった。

 俺が図書館に戻ると、ロビーの床にナオミちゃんの体が横たえられていた。彼女の衣服は剥ぎとられていて、春彦さんの上着がかけられていた。

 そばに春彦さんが座り込んで、じっとナオミちゃんの顔を見ていた。

 ナオミちゃんの顔には殴られた跡があり、手や足にもいくつか痣があった。たぶん抵抗した跡だろう。そして、彼女の首には紫色に変色した、絞められた跡がくっきりと残っていた。

 俺はただ呆然と春彦さんの隣に立ち尽くしていた。

「右京さん……」

 メサが俺の腕にそっと触れた。

「わかってる。彼らは現実の人間じゃない。これは現実の出来事じゃない。でも、今の俺のこの気持ちは現実だ。まぎれもない現実だよ。メサ」俺はメサを振り返った。「もし、ここから出ることができたら、ここで起こった記憶は保持されるのか」

「ここでの記憶はなくなりません」

「ここでもし俺が死んだらどうなる?」

「右京さんがここで死ぬことはありません。死を体験することはあっても、肉体はまたすぐに再生します。ただし、人間の精神がそんなことに耐えられるかどうか、疑問です」

 なるほど。できれば体験したくはないな。

「右京君」春彦さんが俺の方を見ずにいった。「頼みがある」

「はい」

「花を摘んできてきてもらえないかな。駐車場の脇に雪柳が咲いているんだ。ナオミが好きだった」

「わかりました」

「すまないね」

「いえ」

 俺とメサは図書館を出た。

 駐車場は図書館の敷地の裏手にあった。

 車は一台しか停まっていない。

 駐車場を取り囲むように生け垣が植えられていた。生け垣はすべて雪柳で、白くて小さな花を一面に咲かせていた。

 俺が何か入れるものを探そうとあたりを見渡しているとき、メサがじっと空を見上げていった。

「右京さん。何か、聞こえませんでしたか?」

「いや。別に何も」

「そうですか……気のせいかな。アイティの声が聞こえたような気が……」

 メサがふと図書館の方を振り返ったとき、鋭い声で俺を呼んだ。

「右京さん、あれ」

 メサの視線を追う。

 図書館から黒い煙が立ちのぼっていた。

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