4.エルフ、チャーハンを食べる

1-4-01

「心の準備はいいですか?」

 俺はアイノさんにうなずいた。

「たぶん」

 アイノさんは、あたりを見渡して、駐車場のフェンスまで歩いて行った。フェンスの根元に落ちていた薄汚れたテニスボールを拾うと、またこちらに戻ってきた。

「はい、これ」

 アイノさんが差し出したテニスボールをメサが受け取った。

 メサはうなずくと、はっきりとこういった。

「二分の一」

 そして、テニスボールを乗せていた手のひらをゆっくりと地面の方へ傾けながら、つぶやき始めた。

「四分の一、八分の一、十六分の一、三十二分の一、六十四分の一……」

 メサのつぶやきはどんどん早く、どんどんかすかになっていく。そして、メサの手のひらも徐々に地面に向けて傾斜を深めていく。

「……千二十四分の一、二千四十八分の一、四千九十六分の一、八千百九十二分の一……」

 その声は、次第に聞き取れないくらいの、小さな言葉の羅列になっていった。手のひらのボールは今にも転げ落ちそうになっている。

「……十億七千三百七十四万千八百二十四分の一、二十一億四千七百四十八万三千六百四十八分の一……」

 まるで呪文だ。

 そう思った瞬間、ボールがメサの手から零れ落ちた。

 クククククッ。

 と、まるでブレーキがかかったみたいに、ボールの落下速度が減退していく。

 そして、メサの手のひらと地面との、ちょうど真ん中あたりの空間に、ボールは停止した。

 メサはまだぶつぶつと数字を唱えていたが、やがて、大きな息を吐きだした。

「ふーっ。安定しました!」

 いったい、どうなってるんだ。

 俺は思わずしゃがみ込み、ボールを間近で見た。

 完全に空中に静止しているように見える。

「メサ、これは……」

「ふふふ。エルフにとってはこれくらい、朝ごはん以前の問題なのです」

「朝飯前だな」

「そ、そうでした」

 いや、冷静に突っ込んでいる場合じゃない。

 もうひとつ、おかしなことに気が付いて、俺は立ち上がった。

 音だ。

 何の音も聞こえない。

 普段は特に意識しない、風の音や、遠くを走るる車の音、エアコンの室外機の音、自動販売機が出す微かな機械音、上空を飛ぶ飛行機の音、そんな日常の町の音が一切聞こえない。

 無音だ。

 俺は再び、静止しているボールに目をやった。

「もしかして、時間が停まっているのか?」

「いいえ」アイノさんが首を振った。「この世界で時間を止めることはできません。時間の経過を極端に遅くしたのです」

「つまり」俺はボールを指さした。「こいつは今、とてつもなくゆっくりと落下しているってことか」

「そうです! その通りなのです!」メサがぴょこん、と飛び跳ねた。「私が無限級数的に時間を細かく刻みました!」

 よくわからないけど、どうやらこいつはとんでもない女の子のようだ。

「じゃあ、次は、これです」カバンの中から、メサは一冊の本を取り出して、俺に手渡した。「ウキョウさん、これ、読んでください」

 本の表紙を見た。『影との戦い』。

「この本……」

「はい。ほたるさんから借りてきました」メサは、期待に満ちた顔で俺を見ている。「さあ、さあ。どの部分でもいいですよ」

 いいですよっていわれても……と、戸惑いつつも、俺はページを開いた。

 子供の頃、何度も繰り返し読んだ本だ。

 そして、この本はずっと俺の手元にあって、ほたるに譲ったものだ。俺にはすぐわかった。ずっと持ち続けた本は、所有者にとってすぐにそれとわかるくらい、特別な何かを宿しているものだ。

 俺は適当に開いたページを読み始めた。

 不思議だ。こんな状況なのに、思わず作品世界に引き込まれそうになってしまう。

 隣に立っているメサが動く気配を感じて、目を上げた。

 メサが空を見上げている。

「リント!」メサが叫んだ。

 ざざざざざーっという音が遠くから近づいてくる。

「ウキョウさん、読み続けてください」

 メサの指示に、俺は再び、本に目を落とす。

 音はどんどん大きくなって――突然、俺の視界に、何かの影が飛び込んできた。

 鳥だ。

 無数の鳥が俺たちの周りを飛んでいる。

 鳥たちは羽ばたきながら、俺とメサとアイノさんを取り囲んで、ぐるぐると周囲を回り始めた。

 鳥たちの壁に囲まれて、もう完全に外が見えなくなっている。

 やがて、ざーっという音を残して、鳥たちは四方に飛び去った。

 俺は周囲を見渡した。

 そこは、もう駐車場ではなかった。

 駐車場どころか、建物も、道も、町も、空も、何もなかった。

 そこには、これまで見たことのない光景が広がっていた。

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