第二話

鮮赤色のドロッとした液体に呑み込まれ、気が付いたら鬱蒼と深く茂る森の中心に立っていた。

 空を見上げると、雲ひとつない澄み渡った空。

 周りを見ると、自分の知っている草木があり、この世界でも、自分の持ってる知識が通用するだろうと予想する。


「それにしても……」


 最後に見た女神の顔を思い返す。

 見た者を戦慄させる感情が消えた能面のような顔。口調が変わり、退廃的な雰囲気。

 能面のような顔をした女神。微笑みを絶やさなかった女神。果たしてどちらが本当の女神だったのだろうか……。


「考えても仕方が無いか……。そんな事よりも記憶の消去……?」


 女神の言っていた規約の内容が記憶消去だった事を思い返しながら考える。


「記憶……?」


 記憶の海を探るが何もかも覚えている。

 この世界の文化、環境、地理、貨幣の価値に至るまで覚えている。何の記憶が消えたのか検討もつかない。


「なにかの手違いで記憶が消えていないのか?」


 その呟きは誰かの耳に届くこともなく、森林の中に霧散するのであった。


 ----


 あてもなく歩き出してすぐに鬱蒼と茂る森--その薄暗い森奥。

 ざざざざ--と何かが駆け寄って来る気配。


「な?!」


 辰也が狼狽えたような声を上げた、次の瞬間。


 前方の森の茂みから、ひとつの黒影が疾風のように飛び出してきた。

 その正体は--真っ黒な毛並みの狼型の魔獣だ。鋭い牙に爪、吊り上がった目は血走り、狂った獣の形相をしている。


「クソッ!」


 自衛する為の道具を持たない辰也は漆黒の狼に背を向けて走り出した。

 だが、これは悪手だった。

 逃げた事自体は悪手では無い。問題は、背を向けて逃げた事だった。

 生存競争の激しい魔獣達にとって食料確保は困難を極める。そんな中、無防備に背中を向けて逃げ出す辰也を獲物と定められても仕方なかった。


「あぁクソッ! 」


 後ろからは、擦れる木々の音と魔獣の獰猛な息遣いが聞こえ、彼の心臓を捉えて離さない。


 --深く茂る木々を掻き分けながら逃げること数分。

 静寂の中、辰也は小走りしながら後ろを振り返った。


(撒いたか?)


 --次の瞬間、空を飛ぶように跳躍してきた魔獣が辰也、目がけて一気に肉薄する。

 --その鋭い爪牙が、蹲る辰也に振りかざし--


「あぁ……」


 絶望の吐息を漏らす。辰也は観念し目を閉じ、最後の瞬間を待った。だが、いつまで待っても痛みがこない。


 恐る恐る目を開けると、眼前には魔獣が襲ってきているのが見える。眼前に血走った形相をしている狼が居るだけでも恐怖だが、もっと驚くべきことがある。それは、目の前に写る空間はすべて白黒に染まり、スローモーションのように動いている。

 これを辰也は走馬灯だと勘違いした。


(思えば短い二度目の人生だったな)


 思わず苦笑いする。

 女神と言葉を交わした短い時間を思い出す。


(あれ? 確か……)


 ズキリズキリと頭が割れるような痛みが走る。


(何か、なにかを忘れている……? 違う。何かを知っている?!)


 心臓が一気に限界まで警鐘の悲鳴を上げる。

歴史? 貨幣? 地理? そんな物じゃない。もっとも大切で重要な記憶。

それは--

 次の瞬間、スッと痛みが消え--思い出す。女神の言っていた"前世"の記憶消去の事。そして記憶を忘れていないと勘違いしていた事。


 永遠に思えた、引き伸ばされた時間ははゆっくりと時を刻み始める。白黒に染まった空間に色彩が戻ってゆく。


「ガァァァァァアアアッ!」


 魔獣の雄叫びと共に鋭い爪が、辰也の喉元に振り下ろされる刹那--漆黒の狼の眼前に手を伸ばし、無意識の内に重く暗い声音で呟いていた。


「追憶」


無意識の詠唱に合わせて腕から手にかけて、青色の粒子が集まり、あっという間に拳銃が形成される。

 銃を握った時の感触は、ひどく無骨で寡黙にみえる。そしてどこまでも黒々としていて死の気配を漂わせている。

 この道具を初めて握るはずが、なぜか自然と手に馴染み、懐かしさすら感じられる。


 彼は魔獣に銃口を向けて引き金を深く押し込む。

 魔獣は鋭い牙を唸らせ、喉笛に飛びつく。

 生物を殺める為に作られた武器が拳銃である。その武器を使った結果は必然だった。


 魔獣の牙が届く前に、拳銃が甲高い悲鳴を上げる。

 銃口から飛び出した鉛玉が漆黒の毛並みをもつ狼型の頭蓋を穿った。

 狼は空中で脳漿と赤黒い血液を撒き散らしながら、辰也の横を滑るように落下し絶命した。


「とりあえずは安全か」


 生臭い血と薬莢と共に吐き出された硝煙の匂いで顔を顰める。魔獣が生き途絶えたのを確認してからら周辺の音に耳を傾ける。

 聞こえてくるのは、風に揺られる草木の掠れる音とやけに大きく聞こえる辰也の鼓動の音だけ。


「森を出てから考えるか……」


 今は武器について考えるより森から出るべきだと考え立ち上がる。太陽の位置を確認してから、走り出そうとして、ふと気が付く。

 近くから悲鳴となにかが横転する音が聞こえる。


「……」


 辰也は無言で悲鳴の上がった場所に駆けていく。

 悲鳴が上がったという事は、そこで何かしらのトラブルがあった事を意味する。

 危険な森の中で出来事。普通なら見捨てるべきだか、走り出していた。

 何故かは分からない。

 ただ、強力な武器を持ってるが故の余裕だったのかあるいは、運命に導かれたのか……。


 駆け出してすぐに、音源は見つかった。

 そこにあったのは、無残に引き裂かれた馬、車輪は壊れ、もはや原型を留めていない馬車だった。


「助けてくれッ! うああああぁああア゙ア゙ア゙ア゙ア゙」


 悲鳴をあげていたのは、馬車を操作していたであろう、頭の中心が禿げた小太りな男だった。

 悲鳴から叫びに、叫びから絶叫に変わった。

 男は必死に逃げようとしたが、その試みは虚しく、漆黒の毛並みをもつ狼に喉元を噛みちぎられ死亡した。


「遅かったか……」


 ひとつ溜め息をつき、食い殺された男に黙祷を捧げてから立ち去ろうとした。

 立ち去る間際、フッと視界の端に残骸と化した馬車に唸り声を上げながら狼が向かっていくのを捉えた。


「なんだ?」


 狼が向かう先を凝視すると、残骸となった馬車に埋もれるように一人の少女が横たわっていた。

 少女を目視した瞬間、拳銃は甲高い悲鳴を上げていた。

 鬱蒼と茂る森林に響き渡る銃声に小鳥達が飛び立つ。それと同時に、漆黒の狼は湿った音を立てながら地に伏した----


 先程まで青く澄み渡っていたはずの空は、いつの間にか綺麗な茜色に染まり冷たい風が肌を撫でている。

 残骸と化した馬車の下敷きになっていた少女を助け出すのに予想以上に時間が掛かってしまった。


「ふぅ」


 少女を下敷きにしていた最後の板を退かす。額に浮かぶ玉の汗を腕で拭う。手のひらは薄く血が滲んでいる。


「まあ、一人の命を救ったと考えれば安いもんか……」


 ひとりでに呟き少女を優しく抱き上げ、木に寄り掛からせる。

 少女の容姿は、白い肌と白銀の長髪。所々破れ、薄汚れた外套を着ている。年齢は10代半ば頃。

 若さの特権であるはずの艶と張りのある肌が無かった。あるのは、傷んだ長髪と薄汚れた肌。額には血が乾いた跡もある。


 少しすると少女が目を覚ました。そしておもむろに立ち上がった。


「私は……奴隷……ひろって……ください…………」


 辰也の服の端を指先で摘みながらそう言った。

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