ミュンヘン8

 全国民に「経済的制覇」というナンセンスなことを政治の方策のして、その反面「世界平和」の維持を政治の目標として全民衆に提示し、理解させることができたことについては我々の政治思想が不健全であったことが深い原因があった。


 ドイツの技術と工業、貿易の上昇しつつある成果とともにこれらはみな強力な国家を前提としてのみ可能なのだという認識が失われていった。


 反対に多くの仲間の間ではこの現象のおかげで国家が存在しており、第一に経済的利益に従って統治されるべき一つの制度であり、だからこそその存立も経済に依存しているのだと主張するに至った。


 さらにその状態が最も健全で自然なものだとみなされ、賞賛されたのだ。しかし、国家は特定の経済観や経済的発展とは無関係なのである。


 国家は経済的な問題を克服するために、一定の制限された生活圏の契約者をまとめたものではなく、種の発展を可能にしている、摂理によって規定された自己の目標を達成するための心理的、精神的に同一な生物の共同社会組織なのである。国家の目的と意義はこれであって、他の何物でもない。


 そのさい経済はこの目的を達成するために必要な数多くの補助手段の一つにすぎないのである。


 しかし、経済は国家が初めから誤った土台に立っていない限り、国家の原因でもなければ目的でもない。国家は前提条件として領土的境界を持つことを決して必要としないことはこれによって明らかなのだ。


 これは同じ種族を扶養しようとし、したがって労働によって生存競争を戦い抜く覚悟がある民族に必要なことである。


 雄バチのように他の人類の中に忍び込むようなことができ、あらゆる口実をもうけて人類を自分のために働かせるような民族は、一定の境界をもった生活圏がなくても国家を形成ることはできる。このことはその寄生のために今日全人類が悩んでいる民族、すなわちユダヤ民族に当てはまるのだ。


 ユダヤ国家は地域的にも一度も国境があったことがなく、普遍的で際限なくただ人種の集合という点に制限があっただけだった。それゆえにこの民族はいつも国家の中に一つの国家を形成していたのだ。


 この国家を「宗教」として航海させ、アーリア人種が宗教上の宗派として認める心構えのできている寛大さによって安全なものにしてきたことは、最大の天才的なトリックであった。


 というのは、事実上モーゼの宗教はユダヤ人種保存の教説にほかならないからである。


 それゆえにこの宗教はユダヤ人種の保存のためにだけ問題になりえる社会学的、政治的、経済的な知識分野をほとんどすべて含んでいるのだった。


 人間が共同社会を形成した最初の動機は種の保存のためである。しかしながらそれと同時に国家は民族的な有機体であり、経済的組織ではない。


 この違いは今日のいわゆる「政治家たち」にはもちろんわからないぐらい大きいのである。それゆえに政治家たちは、国家というものは縁円にただ種の保存の本能活動の結果であるのに、国家も経済によって建設できると信じている。


 しかしこの本性は常に英雄的な徳であり、決して商人的利己主義ではない。その上種の維持は各々の献身に進んで赴く覚悟を前提としていた。


 詩人の言葉の意味はまさにそこにある。


「なんじが生命を賭さなければ生を得ることができない」


 種の保存を確保するためには個人の献身が必要だということである。


 それゆえに国家の形成と維持には同質同種を基礎とした共感の存在と、そのためにあらゆる手段をつくして進む覚悟を前提としていた。


 もしこの本性を多種多様な国家の存在の前提としないならば、自分たちの領土にいる諸民族は英雄に導かれ、寄生民族の場合は偽善や残虐行為に導かれるのである。


 しかし国家の形成はいつもこの本性によって生じるのであろう。さらにその場合、自己を保存する戦闘において互い戦う場合に英雄的な性質をほとんど持っていないような、あるいは敵の寄生民族の策略に対抗できないような民族は敗北するのである。


 すなわち征服され、それと同時に遅かれ早かれ死滅する。


 だが、この場合も敗北はいつも冷静さが不足しているためでなく、むしろ人道的思考というマントの下にかくれることだけを考えている決断力と勇気の欠如が原因だった。


 国家を形成し、国家を維持することが経済とどんなに薄い関係かは次の事実が明白に示している。すなわち、国家の内面的な強さが経済的発展と一致することは稀であり、むしろこの繁栄は無数の多くの例によれば国家が滅亡に近づいていることを示しているようであった。


 しかし、もし人間の共同体の形成が経済力、あるいは経済的衝動によるものであるとするならば経済的発展は同時に国家の最も強力な勢力を意味しなければならず、この逆であってはならないはずだ。


 経済力が国家を形成し、国家を維持するという信仰があらゆる点から見て歴史に逆行することが明らかであり、徹底されている国においても通用しているということは本当に理解しがたい。


 まさしくプロイセンは国家を形成づけるものが物質的特性でなく、観念的なものであることを明確に示している。


 この支持のもとに初めて経済も繁栄することができ、純粋な国家形成能力が崩壊するとともに経済も再び崩壊するにいたる。


 ちょうど今、私たちは恐ろしくも悲しいことながらこの過程を眺めているのだ。


 人間の物質的利益が最も繁栄することができるのは、それが英雄的徳性の保護のもとにあるときだけである。しかし、それを生存の第一条件とするならば、それは自己存在の前提を破壊することになるのだ。


 ドイツでは力の政策が高まったとき、いつも経済が盛り上がりはじめたが、経済がわが民族の生活の唯一の内容となってそれによって理念が窒息したときはふたたび国家は崩壊し、やがて経済がそれに巻き込まれたものである。


 だが、国家を形成したり、あるいは国家を維持したりするだけの力とはなんであるかと問うならば、それは二、三の言葉に要約できる。すなわち、全体のために個人を犠牲にする能力と意志である。


 この徳が経済となんの関係がないことは次の簡単な認識から推測することができる。人間は決して経済のためにその身を犠牲にしない。すなわち人間は商売のために死ぬものではなく、理想のために死ぬものだということだ。


 イギリス人が民心を認識するうえですぐれていることは、戦う場合に与える動機づけを知ること以上によく示してくれることはない。私たちがパンのために戦っているのに、イギリスは「自由」のために、それも自国民のためでなく小国の国民のために戦ったではないか。


 我々はこの鉄面皮を笑ったり、立腹したりしたが、それこそドイツの政治が戦前からいかに無思慮で愚かであったかを示しているのである。男が自由や決意からしをおもむくことができる力の本質について、ほとんど考えてもみなかったのだ。


 一九一四年にドイツ民族がまだ理想のために戦っていることを信じていた間はがんばっていた。しかし、日々のパンのためにのみ戦わされるやいなやこの賭けをむしろ投げ出してしまったのだ。


 だが、我が聡明な「政治家」はこの考え方の変化に驚いた。自分の経済的利益のために戦う瞬間からできる限りの死を避けるものである。というのは死は彼らが戦いの報酬を受け取ることを取り上げてしまうからである、ということを彼らはわからなかった。


 自分の子を助けようとする気遣いは弱々しい母親すらも英雄にする。そして種とそれを守る家庭、あるいは国家を維持するための闘争のみがいつでも男を敵に立ち向かわせるのだ。


 次の命題を真理として定めてもいい。すなわち、国家はいまだかつて平和な経済によって建設されたことがなく、それが英雄的な領域にあるか、狡猾な老獪さの領域にあるかは知らないが、つねにただ種の保存本能によってのみ建設されるのである。


 すなわち、前者がまさしくアーリア人の労働国家、文化国家を作り出し、後者がユダヤ人の寄生者を作ったのだ。しかしある民族や国家で経済それ自体がこの衝動を肥大のあまり圧迫し始めるやいなや、経済自体が圧制と抑圧の誘因となるのである。


 商業政策と植民地政策という平和的な方法で世界をドイツ民族で開拓したり、あるいは征服したりできるという戦前の信念は実際に国家を毛制して維持する有能な能力やそこから出てくる洞察、意志力、および決断力を失った典型的な例であった。


 そしてこれに対する自然の結果が、世界戦争なのである。

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