ミュンヘン2

 恐るべき未来を避けるための四つの道があった。


 一、フランスを手本にして出生の増加を人工的に制御し、人口増加に対処する。


 自然は窮乏の時代や気象的に悪い状態の時などひどい飢餓の時にもまた一定の地方や人種の増加に制限を加える。もちろん無情と同時に懸命な方法ではあるが、自然は繁殖そのものを阻止することはない。しかし生まれてきた者を困難な試練と窮乏にさらし、強靭さや健康で劣る者をすべて土に返すように強制することによって生まれてきた者の存続を阻止するのである。


 それでもなお不公平に屈しなかった者は千倍もの試練に耐えた健全な者で、さらに生殖に適しているのである。こうして根本的な淘汰をはじめから繰り返すことができた。自然はそのように個々に対して残虐に立ち向かい、そして彼らが自然の嵐に堪えられない限り、直ちに呼び戻すことによって人種を力強くし、むしろ最高の能力にまで高めるのである。


 しかし、それとともに人口の減少は人の強化となり、結局は種の強化となる。


 人間が数の制限をするときには話が違う。人間は自然を木彫りしたものではなく、「人間的」なのである。人間はこの残忍な全知の女王よりもこのことをももっとよく知っているだろう。


 人間は個々の生きる権利を制限しないで、むしろ生殖そのものを制限する。これは常に自分自身だけを見て人種を見ない者にはより人間的であり、より正当だと思える。しかし、残念ながら結果はその逆になるだろう。


 自然は生殖を自由にさせておきながら、生存の維持は極端に困難な試練を課し、有り余る個体の中から最良のものを生きて行くに値するものとして選出するのである。


 こうして自然はそれだけを維持してその種の存続の担い手であるが、人間は生殖を制限しても一度生まれたすべてのものをどんな犠牲を払ってでも石持用途して惹きつけんばかりに一生懸命になる。


 神の意志を正すことが、彼には人間的であり賢明であると思えるようだ。そしてもう一度自然を凌駕し、自然に足りないところは証明したと喜んでいるのである。


 もちろん実際には数を制限したとしても、個々の価値を低下させられたことを神の愛すべき小猿は見ようともしなければ聞こうともしない。


 と言うのはひとたび生殖自体が制限され、出生数が減少すれば最も強いものや最も健康なものしか生きることを許されない自然的な生存競争の代わりに、最も弱いものや最も病弱なものもどんな代価を支払っても「助け」ようとする当然の欲望が生じ、また自然と自然の意思を軽蔑することが長ければ長いほどますます悲惨なものとならざるを得ない子孫のために種を残しておこうとする当然の欲望が生じるのである。


 しかし、かかる民族にはいつかこの世界の生存権が取り上げられるだろう。と言うのも人間はある期間までは生存維持という永遠の法則に反することができるが、遅かれ早かれ反動が来るからである。より強い種族が弱者を駆逐するであろう。


 生きようとする衝動は最後には、強者にその場所を譲るために弱者を滅ぼすという自然のヒューマニティをその代わりとするために個人のヒューマニティが破壊されていくのである。


 こうしてドイツ民族の増加を自ら制限することでその生存を確保しようとすることは、同時にドイツ民族から未来を奪うことにもなるのである。


 二、第二の道は私たちが今日もしばしば々提案しているもの、つまり国土の開発である。この提案を多くの人は良い意味に考えているが、たいていのものは考えうる限りの大きな損害を引き起こすように誤解されているのが常である。


 土地の収益は一定限度まで引き上げることができる。しかしそれは一定の限度までであり、無限にということではない。


 一定期間、人々は我が国土の利用を増やすことによって飢餓の危険なくドイツ民族の増加を防ぐことができるだろう。しかし生活の要求は住民数よりも急速に増加するということがこれに対立するのである。


 衣食に関する人間の要求は年々大きくなり、例えば今日でもおよそ百年前の我々の祖先の要求とは比べ物にならないほどの状態になっている。そのため生産の増加が人口の増加のすべての前提を果たしたと考えるのは間違っているのである。


 そうだ。それはある程度までしか当たっていない。というのは少なくとも土地の増産の一部は人間が増加する必要性を満足させるために用いられるからである。一方では節約し、他方では一生懸命働いても、それ以上に土地自体から生産される限界が来るのだ。どんなに勤勉に働いてもそれ以上土地から生み出すことができなくなる。


 例えば一定期間引き延ばしたとしても、再び運命は訪れるだろう。飢餓は凶作などがあったときも偶然現れるにすぎない。人口の増加とともにこれはますます現れるようになり、ついには豊作の年に穀物倉が満たされているだけ飢餓が来ないのである。しかしその場合でも困窮は癒されず、そして飢餓がそういう民族の永遠の同伴者になる時が近づくのだ。


 そうなると再び自然が助けてくれて、生存のために自ら選出したものの中で淘汰を行うか、あるいは人間がまたしても自らを助けなければならない。


 すなわち、種に対してすでに述べたような重大な結果を伴う人口増加の妨害に手を伸ばすのである。


 この未来はいつか全人類に迫ってくる。したがって個々の民族はこの運命からは逃げられないのだと反論することができるだろう。


 これは一見正しい。しかしこの場合次のことを考えるべきだ。


 確かに一定の割合に達したときには土地の生産力は増加し続ける人口に平衡を保つことができなくなるので、全人類は人口の増加を停止しなければならないだろう。そして再び自然の決定に任せるか、あるいは自助によって――この場合もちろん今日より正しい方法で――必要な平衡を保たなければならないのである。


 目下のところ、ただそういう危険に迫られている人種は自分に必要な土地をこの世界に確保する力と強さを持っていない人種であるが、しかしこれはすべての民族に当てはまることだろう。


 というのはこの地上には巨大な面積の土地が依然として利用されないまま残されており、そして開拓者を待ち焦がれているという状態だからである。しかしこの土地は自然によってとある国民あるいは人種に未来のための地帯として残されてものではなく、それを獲得する力のある民族のための、そしてこれを一生懸命開拓するための土地であり、大地であるということもまた正しいのだ。


 自然は政治的境界を知らない。自然は生物をまずこの地球上に置き、自由な競争を見ている。そして勇気と勤勉さで最も強いものが自然の最愛の子供として生存権を受け取るのだ。


 他の人種がこの地上の土地にしがみついているとき、もしある民族が国土開発にとどまっているのならば、ある時期になると他の民族が増加し続けているのに自己規制することを余儀なくされるだろう。


 しかしいつかはこういう時が来る。そして実際にその民族の自由な生活圏が小さければ小さいほどそれはますます早くなるのだ。


 とにかく遺憾ながらしばしば最善の国民が唯一の文化的人種、あらゆる人種の進歩の担い手だけがその平和主義に幻惑され、新しい土地獲得を断念して、「国土」開発で満足することを決意しているが、しかし劣等な諸国民がこの世界の巨大な生活圏を確保することを知っているので、これは次のような結果を導くだろう。


 すなわち、文化的には劣っているが、生来より残忍な民族は最も大きな生活圏を持っているためにその一でなお無限に増加し続けることができるのに、文化的には優れているが、遠慮がちな民族はその制限された土地のためにいつかはその人口増加をも制限しなければならないのである。


 言い換えれば世界はこうして文化的には価値が少ない、しかし実行力のある人類が所有することになるのだ。


 そこでなお遠い将来のことであるが、ただ二つの可能性だけが残る。つまり世界は我が近代史民主主義の観念に従ってすべての決定が数の多い人種に有利な結果に終わるか、あるいは世界は自然的な力の秩序の法則によって支配され、残虐な意思を持つ民族が勝つことになり、自制する国民が敗れるか、である。


 しかし、この世界がいつかこの上もない激しい闘争にさらされるだろうことは誰も疑うことができない。最後には自己保存の欲求だけが永遠の勝利をおさめるのだ。


 この欲望のもとでは愚鈍や臆病や自惚れの強い知ったかぶりが混ざり合って現れているヒューマニティは三月の太陽のもとでの雪解けのように溶けてしまう。


 永遠の闘争によって人類は大きくなった――永遠の平和によって人類は破滅するのだ。


 しかし我々ドイツ人にとって「国土開発」のスローガンはまったく因果なことであった。それは平和主義的な生活の中で「儲ける」ことが許される手段が見つかったという意見をすぐに広めることになったからである。


 この説がひとたび我々の間に受け入れられるならば、それはこの世界で我々にふさわしい場所を確保しようとするあらゆる努力の終わりを意味するだろう。


 このような方法でも生活と未来を確保できるという確信を平凡なドイツ人が抱き始めるならば、ドイツ人に必要な生を積極的に、つまり効果的に主張しようとするあらゆる試みは空虚になるだろう。


 しかし、国民のこういう態度によって真に効果的な外交政策は葬り去られ、それとともにドイツ民族の未来も死ぬことだろう。


 この結果をよく知っていてこういう危険な思想を我が民族に植え付けようとし、実際に植え付けることを知っているのがユダヤ人であることは偶然ではない。ユダヤ人は期待に背かないものをよく知っている。


 ユダヤ人はスペイン的蓄財のペテン師であるためにありがたがって犠牲になってくれるということを知らないはずがなく、自然を愚弄し、過酷な生存競争を無用にするようにして、その代わり「その場のご都合」次第で、あるいは労働によって、時にはまた何もしないでこの惑星の支配者に成り上がる手段を見つけられるだろうと思っているのだ。

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