わがヴィーン時代の一般的政治考察15
しかし、この組織が個人を強要して、まったく畑違いの問題に態度を決めさせている間に、次第に性格が損なわれてくる。
「諸君、我々はこの事項については何もわかりません。少なくとも私個人にはまったくわからないことであります」
と宣言する勇気を奮い起こすことのできるものはいまい。(そのうえ、こんなことはあまり役に立たない。というのはこのような種類の率直さはまったく理解されないばかりか、このような馬鹿正直によって遊びを台無しにされるようなことはないからだ)
しかし、人間を知っているものならば、こういう社会では誰も好んで一番バカなものになりたくないこと、そしてある社会では正直はいつも同時にバカを意味することがわかるだろう。
こうしてはじめは高潔な代表者も、必然的に虚偽とごまかしの軌道に投げ込まれてしまう。まさしく個人が違った態度をとっても事態そのものは何の変化もないという確信が、一、二のものにはまだ生じるかもしれないという正直な衝動をすべて殺してしまうのだ。
彼はついに自分自身はまだまだ他の者よりも悪くない、もっと悪くなったものを阻止したのだと自分に信じさせるかもしれない。
もちろん人々は次のように異論を唱えるであろう。確かに個々の議員はあれやこれやの事項に精通していないが、しかし彼の態度は実際当人の政策指導者としての党派から助言されるのだ。この党派はもともと専門家から十二分に説明を受ける特別委員会を持っていると。
これは一見正しいように思える。だが問題は次の点にあるのだ。すなわち、最も重要な利害において、態度決定をするために必要な知識を持っているものが二、三人しかいないのに、なぜ五百人も選挙するのか、ということである。
しかし、これがまさに事の真相なのだ。
今日の民主主義的議会主義の目的は、おそらく賢人の会議を開くことではなく、むしろ精神的に従属している群れを寄せ集めることにある。個々人の人格的偏狭さが大きければ大きいほど、一定の方向へ指導することがますます容易になるのだ。
ただそうしてこそ、今日の悪い意味での政党政治がなされるのである。しかしそうしなければ黒幕が常に個人的な責任を負わされることなしにいつも注意深く背景に隠れていることができないのだ。
というのは、国民にとってそれほど有害な決定でも、誰の目にも実際はっきりとルンペンに見える者達には負わされず、党派全体の肩にかけられるからである。
しかし、それと同時に実際の責任はすべてなくなる。なぜなら責任というものは個々の人物の義務感の中にだけあるもので、議会主義的おしゃべり同盟の中にはないからである。
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