わがヴィーン時代の一般的政治考察10

 第一に、そして何より私を考え込ませたことは、個々人がおよそ責任というものを明らかに感じていないということだった。


 議会が何かを決議する。その結果が非常にとんでもないものであっても――誰もそれに対して責任を取らず、誰も責任を問われることがない。破綻したあとでも罪のある政府が総辞職すればこれで何らかの責任をとったというのか? あるいは連立を変更したり、そればかりでなく議会を解散すればいいのか?


 一体全体、この大勢の優柔不断な人間にいつか責任を負わせることができるのだろうか?


 すべての責任感というものは人に結び付いていないのだろうか?


 もっぱら多数の人間の意思と好みを勘定にいれた者達から成り立ち、そして遂行されるような行動に対して、政府の指導的人間に実際に責任を負わせることができるのだろうか?


 あるいは指導的な政治家の課題は、創造的な思想や計画そのものを生み出す代わりに、むしろ彼の企画の独創性を空っぽの頭を持った羊の群れに理解させ、さらに彼らの好意ある賛成を得るための技術においてのみ見られるのだろうか?


 政治家の基準は、彼が大方針を定め、あるいは大きな決断をして、政治家らしい怜悧さと同じ高度な説得の技術を持っていることなのか?


 指導者の無能さというのは、こうしてある一定の理念に対して多少とも幸運によって集められた群衆の過半数を獲得しえないということで証明されるのだろうか?


 実際この群衆が、そもそもその成果がその偉大さを示す前に理念を理解したことがかつて一度としてあっただろうか?


 この世のすべての独創的な事業は大衆の怠惰に対する天才の目に見える抗議ではないのか?


 政治家は彼の計画のためにこれらの群衆の好意にへつらって、それを得ることができなかったならば何をすべきなのだろう?


 政治家はそれを買い取るべきなのか?


 あるいは彼が市民の愚鈍さを考慮にいれて生活に必要と認められた課題を推敲することを断念して引退すべきなのか、あるいはそれにもかかわらず居座るべきなのか?


 そのような場合に真の品格を持つものは認識と品位、あるいはもっとよく言えば立派な志操との間の解決しがたい葛藤に陥らないのだろうか?


 この場合、一般人の義務と個人的名誉の責任を分ける境界はどこにあるのか?


 真の指導者というものはすべてこういう場合に政治的闇商人に堕ちることをことわらないでいいのか?


 そして逆に闇商人がすべて最後の責任は決して彼になく、把握しがたい群衆が追うべきであるということから、政治で「取引する」ことを天職と感じてもいいのか?

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