名前5:ユリ

 自宅に向かって走っていると、前から歩いてきていた中年男と肩がぶつかってしまった。

「おいっ! 痛いだろーが!」

「…………」

「ちゃんと謝らんかクソガキが! これだから最近の若いもんは!」

 男が臭い息と唾をまき散らしながらまくし立ててくる。

「醜い」

「ああっ!? なんだお前ガッ!?」

 左頬を思い切りグーで殴ってやると、男は途端に半泣きになり、

「くっそ! 何なんだよぉ、馬鹿野郎がっ」と震えた声で叫びながら逃げていった。

「…………あ」

 この時、俺は自分の心の奥底にある感情に気づいてしまった。

 梅野咲良に彼氏がいた、ということよりも、その彼氏が『おっさん』だったことが何よりも許せなかったのだと。

 俺は昔から、『おっさん』という存在が嫌で嫌で仕方がなかった。

 原因は分かっている。親父とその取り巻き連中のせいだ。

 親父はどうしようもない女狂いで、しょっちゅう浮気をしては、母を泣かせていた。

 そして同時にヤツはどうしようもない酒飲みでもあり、よく飲み屋で知り合った男連中を自宅に呼びつけ、夜な夜な酒盛りを繰り返していた。

 奴らは例外なく、下品で、粗暴で、汚らしかった。

 しかも俺が成長するにつれ、奴らの目つきが嫌らしく変化していった。

「ユリちゃんはほんと美人だねぇ。お母さんに似たのかな?」

「おっきくなったねぇ、ユリちゃん。色んな意味で」

「綺麗な髪の毛だなぁ。ツヤツヤじゃないか」

 俺は口調を変え、髪を限界まで短くし、胸にはサラシを巻き、知り合いには『マサトシ』と呼ばせることにした。男連中に、自分が女として見られることに耐えられなかったからだ。

 そして少しでも男と関わる機会を減らすために、わざわざ自宅から遠くにある中高一貫の女子校に入学し(私服が許されていたのが決め手だった)、高校一年生になってからは一人暮らしを始めた。

 その努力の甲斐があり、ここしばらくはおっさんに対する憎悪も影を潜めていたのだ――梅野咲良の彼氏を目撃するまでは。 

 俺は自宅に帰る前に、近くのスポーツショップに向かうことにした。 

 小学生の頃、親父を含めたおっさん全員の頭をバットでかち割る妄想をしながら眠りにつくという習慣があった。

 あの妄想を現実にすれば、さぞかしスッキリするに違いない。


 おっさん連中を襲撃するに当たり、私は一応、それらしい動機を考えることにした。

 別に完全に無差別でも構わないとも思ったが、自分がスッキリするためには僅かな罪悪感すら抱きたくないからだ。

 私は少しだけ頭を悩ませ、おっさんは大抵マナーが悪いことを思い出した。

 歩きタバコ、痰吐き、質の悪い酔っぱらい。

 そういう連中を『悪の怪人』と半ば強引に認定し、私は正義のヒーローを気取った。

 そうすると不思議なもので、自分がしていることが善行に思えてくる。

 また、襲撃の際にはコスプレショップで購入したセーラー服と黒髪ロングのカツラを身につけ、口調を女らしく変えることにした。

 もちろん変装の意図も含んでいるが、それよりも、おっさん怪人を退治するのは『女』じゃないといけない気がしたのだ。最初こそ気恥ずかしかったものの、私は段々と快感を覚えてきていた。まるで、自分が別の人間に生まれ変わったかのような、不思議な感覚。

 浅はかだという自覚はある。警察が本気で動けば、あっという間に私は捕まってしまうだろう。でも、それでもいいと思っている。もう引き返せないところまで来てしまったのだ。今更止める気もない。私はとにかく、少しでも多くの怪人をぶん殴りたかった。『自分がルールだ』って面構えで街を歩くおっさん共の恐怖に怯えた顔を見るたびに感じるあのゾクゾク感に、私はすっかり病み付きになってしまったのだ。

 通算七人目の怪人を成敗した後、その公園を通ったのは偶然だった。

 男女が会話をしている声が聞こえたので、何の気なしに目をやっただけだった。

 だけど、そこにいた女はよく知った顔だった。

 どいつもこいつも汚らわしい。

 外の世界に目を向けろ、ですって? その結果がおっさんとの逢引? 笑えるわね、全く!

「おいっ!」

 私が声をかけると、ビクリと身を震わせ、二人がこちらを振り返った。

「え……」

「あれ? あなた、もしかして…… え、なに? その格好……」

 いくら変装しても、知り合いにはバレるものだ。

 頭ではそう冷静に考えながらも、身体と口は既に制御が効かなかった。

「黙れっ! この……腐れビッチがっ!」

 そう言い放ちながらも、バットはおっさん目がけて振り下ろした。

 女子高生を誑かすなんて、問答無用で怪人だ。

――ゴシャッ、という鈍い打撃音と共に、おっさんが地面に倒れ伏した。


「マスターっ!!」

「あはははははっ! ああっ! キモチイイわぁ!!」

 おっさんがまるで糸の切れた人形のように地面に転がった瞬間、私は自分の身体が絶頂を迎えるのを感じた。

「マサ! あなた、どうしてこんなことを!」

「あはっ、何よあんた……教室にいる時とキャラが随分違うじゃない。ソッチがあんたの素ってわけ?」

「……あなたに言われたくない!」

「ふふっ確かに、お互い様よね……ねえ、あんた、ソッチの方が良いんじゃない?」

 彼女はそんな私のアドバイスを無視してポケットからケータイを取り出そうとしている。

 警察と救急車を呼ぶ気なのだろう。

 私は彼女の右手にバッドを叩きつけた。

「痛っ!?」

 間髪入れずに、地面に落ちたケータイを叩き壊す。

「何するのよ!!」

 彼女の形相が鬼のように変化している。本当に教室にいる時とは別人のようで笑いが込み上げてくる。

「あんたに顔バレした時点で、正直私はもう詰んでいるんだけどさ……黙って通報させるわけにもねぇ」

「……本当にどうしちゃったのよ、マサ。あなたが最近ニュースになってる暴行犯だったの? あれ以来、学校に来ないと思ったらこんな……」

「うるさいわね……あのね、これはあくまで善行なの」

「は……?」

「少し考えてみるといいわ。普通の人の人生において、凶悪な犯罪に巻き込まれる確率ってどれだけあると思う?」

「何を言って……」

「じゃあ、これはどう? 『街中で肩がぶつかり舌打ちをされる』『前を歩いている人の煙草の煙に思わず顔をしかめる』あとはそうね、『知らない酔っ払いに絡まれる』なんてどうかしら? あなたにもそういう経験があるんじゃない?」

「それが、なんだっていうのよ……」

「私達一般市民にとっては、そういう小さな実害の方がよっぽどオオゴトだと思わない? この世界のどこかで起こっているらしい、殺人や強盗なんかよりもね」

「だから、そういう不快な人たちを殴って回っているとでもいうの……じゃあ何でマスターを襲ったのよ!? 彼は何も悪いことなんてしていないのに!!」

「こんな夜遅くにあんたみたいな女子高生と会っている時点で、どう考えても悪じゃない。今までで一番タチが悪いくらいよ」

「なっ? わ、私たちはいかがわしいことなんてしていない!」

「はっ……どうだか」

「あなたの言う理屈は無茶苦茶よ! 暴行の口実をテキトーにでっち上げただけなんでしょう!?」

「あはっ。バレた?」

「見損なったわ。あなたが、フラれた腹いせでこんなことをやるような人だとは思わなかった」

「……はあ?」

 梅野咲良など、もはやどうでも良い。こいつは何も分かっちゃいない。私はキモくて害悪でしかないおっさんをぶん殴って気持ち良くなりたいだけ……

「フラれて逆上して暴れるなんて、分別つかない只のガキじゃない!」

「うるさいっ! 黙れっ!!」

 私はバッドを思い切り地面に叩きつけた。

「カースト最下層が、私に偉そうな口聞いてんじゃないわよ!」

「滑稽だわ! そんな似合わない変装までして……もういいっ! 早くマスターを病院に運ばないと……」

 おっさんに近づこうとする彼女の前に、私は立ち塞がった。

「どいてよ! あなた、このままじゃ人殺しになっちゃうわよ!?」

「……おっさんをかどかわしたあんたにも当然、罪はあるわ」

「……まさか、私まで殴る気なの?」

「あんたは今から『悪の怪人』よ――

 いつも決め台詞を呟き、右手を振り上げた。

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