閑話12
影蛇の口から出てきた青年は、涎代わりの闇色の液体にまみれていた。涎ではないが、涎まみれに見える。それを手で払いのけると、スライムかゼリーのようにべちゃっと剥がれた。
「酷いなあ……。捕まえたと思ったらこれだもの」
まるでコメディのような発言で済むのは、彼がブラッドガルドの言うところの土人形――土の精霊であり、大地を司る神アズラーンであるからに他ならない。
ちょっとやそっとの事で死ぬようなことはない。
いくらかゼリーのような闇色の粘液が払いのけられると、浅黒い肌をした美丈夫が姿を現した。
「こんないたいけな女子供に無様な姿を晒しておいて、よく神と名乗れたものだな。もう死んだらどうだ」
「こういうときだけ私をダシにするなよ」
こんな時だけいたいけな女子供扱いされてもツッコミしか出来ない。アズラーンをおちょくるために言われてもまったく心に響かなかった。
「でも、ちょうど良かったよ――ブラッドガルド」
その瞳がやや睨むように二人を見る。
瑠璃は少しだけ背筋を伸ばした。
「その前に! はじめまして。きみが噂の魔女殿かな?」
「魔女?」
キョトンとする瑠璃をブラッドガルドが見下ろす。
「それとも、正確には巫女殿かな」
「この役立たずが巫女に見えるなら三度くらい死んだほうがいいぞ無能」
さすがにどこまで本気なのかツッコミきれないが、ブラッドガルドの背中を叩いておく。ダメージは無かった。
その様子に一瞬、おや、という顔を見せるアズラーン。
「きみと一緒にいるくらいだから、彼女がそうかと思っただけさ」
「これはその辺にいる猫のようなものだ」
「誰が猫だよ!? と、とにかく! ええと、は、はじめまして。ルリ……です」
萩野瑠璃と名乗るべきなのか、ルリ・ハギノとでも名乗るべきなのか。判断がつかず、とりあえずの自己紹介をしておく。
アズラーンの瞳に、黄土色の光が宿った。アズラーンからは、ブラッドガルドの強烈な魔力が――弱体化しているとはいえ、人間のそれとは桁違いのが――視えていた。だが、その隣にいる瑠璃からはこれっぽっちも魔力が感じられない。それをアズラーンは、隠されていると取った。この世界の多くの人間や魔物がそう判断してしまうように。
「はじめまして。僕はアズラーン。……そうだな、ただの奴隷だと言っておこうかな」
アズラーンは、瑠璃が当然自分の正体に気付いていると踏んだで冗談めかして言った。ついでに言うなら、瑠璃が自分の服装をちゃんと奴隷だと判断していると信じ切っていた。
ブラッドガルドは敢えて、瑠璃は魔力が無いからそんな冗談を言っても通じないぞ、ということを言わなかった。面白いからだ。
「えっ」
そして当然瑠璃は混乱した。
後ろでこそこそとブラッドガルドに言う。
「ブラッド君、あの人、土の精霊じゃなかったの!?」
「あれはただの土塊だ、二度と間違えるな殺すぞ」
「どさくさに紛れて罵倒してんじゃないよ!?」
ブラッドガルドが土の精霊も嫌いだということしかわからない。
「あとなんかちょっと怒ってない? 前回帰ってもらった時なにしたの?」
「何もしてないが」
戦闘をしていないという意味では何もしていない。
「えー……あー……」
瑠璃は振り返って、アズラーンと対峙する。
「とりあえず、お茶でも飲みますか?」
「おい、ピザを取れと言っただろうが無能」
「絶対取らないからな!!!!」
*
瑠璃が紅茶を準備している間に、アズラーンは物珍しげに部屋の中にあるものを観察していた。なにしろ家具以外はほとんど現代日本にしか存在しないものだ。
部屋の中を物色するアズラーンに対してブラッドガルドの機嫌は最悪に近かった。それでも手を出していないという状況を、アズラーンはおおむね好意的に受け取った。
「この間、ここにテーブルがあると言ったけれど……なるほど。べつだん、僕らに合わせてくれたわけではなさそうだね? こんなに低いテーブルがあるとは思わなかったけど」
「……」
「それにこの座布団、だっけ? こっちのほうはもっぱら椅子文化だと思っていたけど、こんな道具があるなんて思いも寄らなかったな。それにずいぶんといい布だ。僕らのほうに持って帰ったら、良いかもしれないね。でも、地面に座るのは僕ら……砂漠か草原のほうの人間だけだと思い込んでいたよ。僕もまだ視野が狭いと言うべきかな」
アズラーンは無言のブラッドガルドに尋ねつつ、返事は期待せずに喋りまくっていた。テーブルと座布団をさんざん見たあと、
「こっちもずいぶんといいものばかりじゃないか! 紙の束がこれほどとは! いったいどこからこんなものを……それにしてもずいぶんと美しい画家がいるようだね……。ああ、いちいち触ったら悪いかな。あまり触りたくないのも本音なんだ。……ところでこの生物は? ずいぶんと変わった姿だ。こんな生物、この世界に存在したかい? なんの剥製なんだ……」
「……それは、人類の業であり敵だ」
「はっ?」
急に喋り始めたブラッドガルドに、やや驚くアズラーン。
その手の先には、怪獣王のフィギュアが祀ってある。もとい、置いてある。
「人類がその手で作り出してしまった最悪の化け物……。犠牲者にして破壊者……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ!」
それが空想上の生物であるということを除けばだいたい本当の話である。そういう映画なのだ。映画の話でブラッドガルドが真剣になっている間に、瑠璃が扉からひょいと顔を出した。
「お待たせー。ってどうしたの」
「映画の話をしていただけだ」
「そっかー。……え?」
それちゃんと説明したの、という視線を、ブラッドガルドは完全無視した。
「え、えーと。とりあえず私から説明するので……。ええと、ブラッド君の席なんだけど、そっち側にどうぞ」
奥側にあたる座布団を示して瑠璃が言う。
――……ふむ?
この奇妙な二人の関係性を、アズラーンはいまだに掴みかねていた。
巫女と神、あるいは下僕とその主の関係なのかと思いきや、瑠璃はなんの躊躇もなくブラッドガルドの席を薦めてくる。かといって瑠璃が主を下に見ているのかというとそうでもない。
確かに、それとなくブラッドガルドの裾を掴んで近くに寄らせている瑠璃は、不敬極まりなく見えた。しかし、単に席を奪ったというのではない。その目の奥には不安が垣間見えて、隠しきれていない。
瑠璃はそれぞれに紅茶を配ったあと、こそこそとブラッドガルドとまた何か言い合っていた。
――……僕を恐れている。
少なくとも瑠璃はただの人間に見えた。
しかし、この世界の人々が神に対して抱くものとは違って見える。瑠璃の態度は神に対するそれではなく、初対面の人間、あるいは初対面の目上の人間に抱くそれと酷似している。
――これでは、まるで……。
――……いや。勇者と同じ構造、か……。
なんとなく納得したところで、瑠璃が視線を向けた。
「えーと……とりあえず、ブラッド君の説明が足りなかった疑惑があって……」
そのまま本題を切り出す。
「つまり?」
「ええと、その、ブラッド君がそう誘導しただけで……。ブラッド君と私がしてたゲームは現実じゃなくて。カードゲームとかボードゲーム、みたいな感じの」
陣取りゲームをしていた、と言いたいようだ。実際はPCやテレビなどのゲームと、ボードゲームはまったく違う。だがそれでなんとなく通じたようだ。
それでも、アズラーンの表情はそれほど劇的には変わらなかった。
「……ブラッドガルドがゲームに興じる事そのものが信じられないな」
「でも、カイン君とこに土地返したのもゲームで負けたからだし……」
「それだよ」
「それ?」
アズラーンは、瑠璃の斜め後ろで壁を背にしたブラッドガルドを見た。
「あのブラッドガルドが……。……あの自分以外は全部薙ぎ払う主義のブラッドガルドがゲームに興じるまでに落ち着いたのかと思うと僕は本当に感動して……!!」
「ええ……」
感動に打ち震えて声を荒げる様子に、さすがに何も言い返せなくなる瑠璃。
「ブラッド君、他の精霊の人たちまで脳筋と思われてんの?」
「誰が脳筋だ殺すぞ」
「事実じゃん」
魔力量と攻撃力にモノを言わせ、魔術で薙ぎ払うタイプを脳筋以外のなんだと言うのか。まちがいなく脳筋だ。
「……いやあ、まだ事実だと確定したわけではないけどさ」
「そうだな、世界に還れ土塊が」
「ブラッド君も喧嘩売らないで!!?」
瑠璃からすればここで暴れないでほしいという一心だった。
「まあ、とにかく僕は、ブラッドガルドの中途半端な説明で飛び出してしまったと……そういう事を言いたいわけだね?」
「貴様もいかんせん頭が悪いな」
「だから喧嘩売るのやめろ!!」
アズラーンはしばらく眉間に手をやった後、現状を噛みしめるように無言になった。
「割と半信半疑だったんだけど――」
顔をあげると、意味ありげにちらりと瑠璃を見た。
ブラッドガルドからの視線が来るのを感じた。一瞬だけであり、すぐにどうでも良さそうに視線は無くなった。
「……本当にちょっといいかな。なんかちょっと、本当に涙出そうなんだよ。あんなに人の話を聞かないブラッドガルドがそこで大人しく座ってるというだけでも僕は感動してだね」
「なるほど。いますぐに世界に還りたいらしいな」
「ちょっと!!」
周囲からヌッと一斉に出てきた影蛇たちに、瑠璃が声をあげる。
しかし、瑠璃が止める前にアズラーンが立ち上がった。
「……いや、失礼した。また今度改めて来ることにするよ。しばらく国を空けてしまったからね」
「二度と来るな」
「それにしても――」
視線を落とし、瑠璃とブラッドガルドを見比べる。
「うーん。しかし、そうかあ。なるほど……」
アズラーンはひとりで何かに納得していたようだった。
ブラッドガルドは何も言わないままだったが、代わりに影蛇たちがアズラーンに向けて威嚇しはじめる。どうやら今度こそブラッドガルドの逆鱗に触れかかったらしい、とアズラーンは頷いた。
「ははは。まあ、帰るよ。それじゃあ、ええと、ルリ。また今度――」
その体がゆらりと揺らいだ瞬間、影蛇がその大口を開けた。
ばくんと勢いよく閉じる。
その時にはもうアズラーンはいなかったらしい。影蛇が閉じた口を僅かに開いて、ゆらゆらと戻ってくる。ブラッドガルドは見るからに機嫌を悪くして舌打ちをした。
瑠璃はぽかんとしたまま、人がひとり消えた場所を見ていた。
食われたわけではなく先に霧散したのだと気付いてから、ハッと我に返る。
それからアズラーンの消えた場所を指さし、ブラッドガルドに視線を向ける。
「ええと。……最後のあれ、どういう意味だったの?」
「我に聞くな。殺すぞ」
「ええ……」
本当に機嫌を悪くしたブラッドガルドの意図すらわからず、瑠璃はそう言い返すしかなかった。
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