挿話5 煙る鏡と迷い猫

 失恋した。


「ごめん」


 相手からの謝罪の言葉は後ろめたさも困惑も無い、決意に満ちたものだった。


「ううん、知ってたよ」


 だから、瑠璃もちょっとした苦笑で返した。

 そんな小さな言葉のやりとり一つで――玉砕したのだ。





 バレンタインより一週間前の出来事だった。


 何となく、好きな子がいるんだろうなあ、という予感はあった。

 それが自分じゃないことも。

 幼馴染みではあったけれど、高校に入ってからは接点が少なくなってしまった。漫画やゲームの世界じゃあるまいし、毎日どちらかを起こしに行くこともなければ、常に一緒にいるわけじゃない。顔を合わせれば何となく馬鹿な話はするけど、お互いにそれぞれ友達がいて、特別な存在でもなくなっていた。

 それでも何となく諦めきれない何かが拮抗した結果、バレンタインをなんとなく避けてしまった。


 だから玉砕覚悟でも少し早い義理になってしまってもチョコレートだけは受け取ってもらいたかったのに、それすら拒否されてしまってはもう立つ瀬はなかった。


 ――よーちゃんたちになんて言おう……。


 持ち帰ってきたチョコレートを食べる気にもなれないまま、持て余す。

 せめて、振られちゃったあー、みたいな何となくわかってたような空気で連絡したい。


「……ただいま」


 家に帰っても、いつものような声は出せなかった。

 とにかくこのもやもやとした感情をなんとかしたかった。


 廊下を歩いていくと、妙にでかい荷物が部屋の前に置かれていた。


 荷物来てたよ、というメモがくっつけられている。

 律儀に時間まで書かれているのは、たぶん職業病。お母さんが仕事の前に受け取ったんだろう。


 ――そういえば、通販で安かったから買ったんだっけ。


 少し前から壁が気になったから、何か置こうと思ったんだ。妙に寂しいというか、暗いというか。

 古い扉を模した、姿見。扉を開けると中に鏡のあるタイプだ。もともと古い装丁にしてあるものだから、アンティークというわけじゃない。あくまでアンティーク風。お値段はそこそこ。けれど憧れの鏡。そういうわけで思い切って買ったのだ。

 もそもそと箱から姿見を出して置いてみる。

 それでもやっぱり暗いような気がしたけれど、きっと自分が思った以上に落ち込んでいるせいだろう。


 姿見の前でしゃがみこむと、適当に置いた荷物が指先に触れた。

 持ち帰ってきたチョコレートだ。それを何となく膝の上に乗せる。ふー……と行き場のない何かが、息となって口から出て行った。


 ――初めて買った鏡に映すのが泣き顔とか……。


 ちょっとそれはどうかと思う。ぐしぐしと指先で目元を拭って、そっと扉を開ける。一瞬映った自分の膝のあたりを見て、それでも思わず目を閉じてしまった。


 ――ぐあーっ、ぬあーっ! だめ、だめだ! もーっ!


 いつまでもうじうじとしていられない。

 目元が熱いのはわかるけれど、開けないとどうにもできない。ぎゅっと瞑った目をそろそろと開けると、意を決して前を見た。

 そんな瑠璃の視界に飛び込んできたのは、真っ黒に染まった鏡だった。


「ん? あ、あれ?」


 泣き顔が映るとばかり思っていたので、思い切り出鼻をくじかれた格好になる。

 いや、映ってはいるのだが、鏡はまるで墨を塗りたくったような――というより、まるで黒曜石のようだ。さっき開けた時は普通だったのに。


 ――さ、さすがにこれはおかしいでしょ。


 膝に乗せた箱を片手に持って、立ち上がる。

 もう一度目元を拭って近づき、その指先で鏡に触れる。指は少しだけぬれていたけれど、それすら気にならないほどだった。

 ひた、と指先が鏡に触れた途端、霧が晴れるようにぶわりと黒い色が飛んだ。


「ひょえっ!?」


 ショックもダメージも全部すっ飛び、涙は引っ込んだ。

 それどころか――映ったのは瑠璃の姿ではなく、妙に薄暗い部屋だった。指先は、ずぶりと鏡の中にめり込んでいく。鏡の向こうに在る、その部屋へ。

 水面にでも入っていくような自然さで、瑠璃の手は向こう側へと入っていった。誘われるように中へと滑り込んだ体は、バランスを取るために足が先に出た。妙にごつごつした足触りだ。せめて靴が欲しいと思うくらいには足に当たる。

 全面、石造りのようだ。


「なん……なにここ!?」


 思わずあげた声は反響して、自分の耳に返ってきた。

 いやまさか、自分の部屋の部屋に置いた鏡からこれほど寂しくて恐ろしい場所に来てしまうとは思ってもみなかった。慌てて後ろを向くと、驚くほど明るい自分の部屋が見えている。

 まったく見知らぬ場所につながっている。


「だ……大丈夫なのこれ……」


 思わず口に出てしまうくらいには、わざとらしいことでも言っておかないと驚きに耐えきれなかった。

 ポケットに入っていたスマホを取り出して、あたりを照らす。石造りの、六畳くらいの部屋だった。普通といえばそれまでだが、妙に空気が重苦しい。後ろの扉が開けられるまで、一切の光を遮断したような、あらゆる希望というものとは無縁の部屋。


 ――何なのこの部屋……。


 あるものといえば、向こうのほうに鉄の扉が見えるだけだ。でもそれ以外には窓もない。ずる、と音がした。


「へっ?」


 音のしたほう――下を見ると、僅かな灯りに照らされ、黒く蠢くものがあった。大きな何かが這いずるようにこちらに近寄ってきている。


「ぶぇあっ!?」


 間抜けな悲鳴に近いものをあげ、慌てた拍子に踵が石畳につまずき、そのまま箱を落として尻餅をつく。


「あいだっ!?」


 声が反響する。自分でもうるさい。

 目の前に落ちた箱から、中身がいくらか散らばった。

 しかしそれよりも、その向こう側から声をあげるもののほうが、明らかに脳に警鐘を鳴らしていた。


「お…………ア……ア?」


 何を言っているのかは到底わからない。ただ水分の足りないかすれた声だった。


 もぞもぞと芋虫のように動くそれは、確かに生きていたと言える。

 うつ伏せなのか仰向けなのかすらもわからない、ぼさぼさの髪のようなものが見えるが、その下がどうなっているのかもわからない。それを見たとたん、ぞくぞくと全身に鳥肌が立った。今まで感じたこともない何かが心の奥底から湧き上がってくる。心臓を射貫かれたように動けなかった。

 ただ、その瞳は瑠璃を見ているわけではなかった――瑠璃自身が、こっちを見ているわけではないと感じた。

 闇の中からぐりんと覗く片方の瞳だけが、転がった何かを視線で追っていた。


 丸くて、カカオの風味と、甘い香りを漂わせた、茶色いクルミのような外観のそれを。


「あ……それ……」


 瑠璃はなんとかそれだけ言った。

 向こうからの反応はなかったが、ただ、至近距離だったから甘い香りがしたのだと思う。その虚ろな瞳が動き、緩慢にずるりと動いたかと思うと、小さな欠片に覆い被さった。

 瑠璃は固唾を呑んでその様子を見守っていた。対峙するかのような無言が、瞬く間に過ぎ去っていく。ひどく長い時間そうしていたように思う。微かにしゅうしゅうという小さな音がしている気がした。


 途端。


 衝動に突き動かされるように闇が塊ごと動いた。

 それは到底人の姿には見えず――あるいは何らかの獣や蛇にすら見えずに――這いずり回る巨大な蟲のようだった。


「ひえっ……!?」


 瑠璃は思わず尻餅をついたまま後ずさったが、塊は瑠璃ではなく地面に落ちた箱へと覆い被さった。布だかなんだかわからないものの隙間から手のようなものが中身をつかみ取り、乱暴に口のあたりへと突っ込んだのだ。相変わらずしゅうしゅうという音が小さく響き、やがて萎びた手が見えた。手の先からぼろぼろと小さなチョコレートを取り落とし、何度も地面へ手を這わせながらもがっつく。

 たぶん、それが食べ物であると気が付いたのだ。


 だんだんと目が慣れてきたのか、その姿がはっきりと視認できるようになってきた。しゅうしゅういうような音は、もう聞こえなくなっていた。どうにも形が判然としなかったのだが、それが嘘のように見えるようになってきた。やがて口元を動かす様が見えると、それがかろうじてヒトであると認識できた。

 指先で溶けたチョコレートを惜しむように、今は衝動から解放されたように落ち着いていた。

 舌先が口元についたチョコレートを拭い取る。


「……うまい……」


 聞こえてきた言葉は掠れて聞き取りにくかったが、それだけ聞こえた。

 そりゃそうだろう。チョコレートなんだから。だがどうにもこの状況に合わない気がして、瑠璃の緊張感は緩んだ。


 すると、指先に見知った感触が伝わった。チョコレートがひとつ、こっちに転がってきていた。

 瑠璃がそれを手に取ると、ヒトらしきものの瞳が一瞬こちらを向いた。


「……はい」


 掌に乗せたチョコレートを差し出す。

 どうしてそんなことをしたのか、瑠璃自身に理由はない。

 別に自分が食べたいわけでもなかったし、哀れみでも同情でもない。ただ目の前のヒトらしきものがひどく飢えているように見えたので、単に見捨てることもできなかったという、たったそれだけのことだ。


「転がっちゃったやつだけど……」


 瑠璃が苦笑しながら言うと、目の前の人物は驚いたように目を見開いた。

 しばしの沈黙があってから、やや震えた指先が伸ばされた。指先もひどく痩せている。最初に暗闇で見た時はもっとミイラのようだと思ったが、それほどではなかったらしい。手はチョコレートをつかみ取ると、すぐさま口の中へ放り込まれた。


「……うまい」


 今度は噛みしめるような言葉だった。相変わらず掠れた声だったが、いくらか表情も和らいだような気がする。緊迫感は消えていた。

 そこでようやく、瑠璃は目の前のヒトが誰なのかということを考えた。そもそもこの空間自体がよくわからないし、そんなところにいるこのヒトも何者なのかよくわからない。

 助けて良かったのかどうかも、今はわからない。そもそもここまで衰弱しきった人間が、チョコレートを食べたくらいですぐに持ち直すとも思えない。

 もちろん頭から生えた角もそうだ。


 ――…………ツノ?


 冷静に、もう一度頭をよく見る。

 ぼっさぼさの髪の両側から、天を突くようにねじ曲がって生えているのは間違いなくツノだ。

 ……確認のためにもう一度よく見る。


 ――人間じゃなかった!!


 別の衝撃が全身を駆け巡ったが、時は既に遅かった。

 ごく普通にヒトではなかった現実をまじまじと見つめてしまう。よく考えれば、鏡の向こうに変な部屋があって、そんな所で閉じこもっているようなヒトが人間であるはずない。

 しかし、当の本人は全然別のことを考えていたようだ。


「……なんだ、これは……あまい……、うまい……。……あまい……」


 ――二回言った!!


 いや、うまいだけなら三回言ってる。


「えーと……チョコレートだけど……お、お口にあったようで何より……?」

「ちょこれえと……?」


 微妙な発音だった。

 今まで聞いたことのないものをオウム返しに発音する時のそれに似ている。


「……いかなる、魔術の……成果物かは……知らんが……」

「お菓子だよ……」


 そこは言っておきたかった。

 一瞬、変な間があったように思う。


 ――この人、チョコレートを知らない……?


「……まあ良い……礼を言うぞ、小娘……。この……我を……死の淵より、掬い上げたことに関しては……な……」


 最初は言葉かどうかもわからない声を発していたのと同じ人物とは思えない。

 ごくりと喉が鳴り、びりびりと緊張感が走る。


「我が名は、ブラッドガルド……。貴様たち人間が……女神の加護のもと、世界より追い出した迷宮主……」


 髪の隙間から覗く瞳が、瑠璃を射抜いた。

 掠れた声で、ひとつひとつ確認するように言葉を発している。


「小娘……封じられた……我を蘇らせ……なんとする……?」

「えっごめん……何?」


 自分でも頓狂な答えだと思う。

 瑠璃は今言われたことを頭の中で反芻する。


 まず封じられていたのか、とか、それを助けた形になるのかとか、おそらくそういうことなのだというのを少しずつ理解する。


「……何を欲する……金か名誉か……はたまた力か? それとも……我が迷宮での地位か……?」

「や、それは別に要らない……」


 その前にまず、目の前のツノの生えたヒトがなんなのかのほうが気になる。

 今、名前は聞いたけれど。


「強いて言うならこの鏡をなんとかしてほしいんだけど……」


 瑠璃は恐る恐る言った。


 隣は瑠璃の部屋だ。

 しかも新しく買った鏡だ。それがなぜだかわからないがこんな狭苦しくて重苦しい部屋に通じている。テンパらないわけがない。

 というか、普通に考えて鏡はどこかに通じていたりしない。


「……ほう。……鏡……?」

「……そうだよ、私の鏡!」


 瑠璃は自分を奮い立たせるように言った。


「なんでか知らないけどここに通じてるんだよ。私の鏡なのに! できればなんで扉ができたっていうか、鏡がこうなったか原因を解明して解決してほしいんですけど!」


 とにかくまくし立てるように言った。

 これなら願い事になるだろうか。だけれど目の前のヒトは、しばし沈黙していた。


「…………それは……なかなか、難問……だな」

「なんで!?」

「貴様が、故意でないなら尚更だ……わかるだろう、小娘……我はいまだここから動くこと叶わず……そして魔力も足りぬ……この迷宮の主ともあろう者が……」


 ギリ、と悔しげに口元が歪む。


 ――ど……どうしよう、言ってることがぜんぜんわかんない……!!


 でもただの中二病のヒトではないことは、そのツノを見ればわかる。というか、ここまで死にそうになっていて尚そんなことが言える余裕があったらちょっとどうかと思う。

 迷宮だの、主だの。


 まるで、こっちとはまったく違う世界みたいじゃないか。


「とにかく今すぐこの扉を元に戻すのは無理ってこと?」

「……そうだ」


 ――マジか。……マジかー。


 いろいろなことが規格外すぎて、すぐに情報が処理しきれない。あまりのことに、ひとまず理解できたのは「死にかけた人(?)が隣の部屋にいる」ことだけだ。

 マンションの隣の部屋ならまだともかく、自分の部屋の鏡の向こうにいるという事態が、まず非日常すぎる。


「あの……」


 瑠璃は顔をあげた。


「とりあえず……今日は帰るね?」


 自分でもずいぶんとトンチンカンなことを言っている自覚はあったが、それ以上の言葉は出てこなかった。







 後になって思うと、よく無事に帰してくれたものだ。

 あるいは、呆れられていたのかもしれない。そういえばまだ動けないみたいなことを言っていたから、単に追えなかっただけかもしれないけど。


 あれは夢だったのか。

 あれから一度も鏡を開くことなく、夜になった。いつものようにご飯を食べて、テレビを見て、お風呂に入って、そして……今はドライヤーで髪を乾かしている。

 今の今まで、どうにも開けられないままでいた。いやもう、自分でもどうしてそうしたのかはよくわからないけれど、とにかくあまりに非現実的すぎて目をそらしたのだ。


 ――いやもう、どうしよう。理解が追いつかなさすぎて……。


 どうしようもできないなあ、これ。

 隣の部屋に死にかけてる人がいるとか、困るというか大変というか放っておけないというか……。道で倒れている人とは……同じだけどわけが違う。

 なんてことを考えていると、ドライヤーの音に混じってノックの音が響いた。


「ねえねえ、瑠璃」


 深夜近くになって仕事から帰ってきたお母さんが、部屋にひょっこりと顔を出す。


「んあ? 何?」


 振り向くと、お母さんは悪戯っぽい笑いをこぼしながら中に入ってきた。うきうきと何かを期待する目をしている。


「ねえ、新しい鏡買ったんでしょ。ちょっと見せてよ」


 あ、それでか。

 それでなんだか楽しそうなのか。


「うん。いい……よ……」


 言いかけて、顔がざぁっと青くなる。


「びゃーっ!? ちょ、ちょ、ちょっと待って!?」


 声をあげたが、既に鏡の扉に手をかけて開けたところだった。

 慌てたせいか、ドライヤーのコードに足が引っかかる。手から落ちて机に当たり、耳障りなを立てた。


「あ痛った!!」

「ちょっと大丈夫ー? しっかりしてよお」


 そう言った時には、お母さんは既に鏡の扉を開けていた。

 落ちた拍子に外れた吹出し口のノズルを急いで手に取る。


「ま、待っ……」

「あら。いい鏡じゃなーい」


 まるで自分の物のように、帰ってきたばかりのスーツ姿で決めポーズをする。

 だけれども鏡はいつまで経っても真っ黒にもならず、妙な部屋にもつながらなかった。その様子をぽかんとした顔で見てしまう。


「どうかした?」


 当の本人はきょとんとした顔で見てくる。


「え……いや……」


 ――な、なんともない?


「それじゃ、邪魔したわね。あ、ノズルは直しておきなさいよー」


 風のように去っていく自分の母親を見送りながら、瑠璃はもう一度「ええ……」と呟いた。

 いぶかしげに鏡の前に立ってみるが、特にこれといった異変はなかった。ばかみたいな顔で、自分が突っ立っているだけである。


「え……ええ……、なんで……?」


 瑠璃は鏡の扉を見ながら、疑問符を浮かべるしかなかった。

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