10話 フィナンシェを食べよう
牢獄は静寂に満ちていた。
日の光の一筋すら差さぬ奈落の底で、ブラッドガルドはひとり壁に背を預けて座り込んでいた。その瞳は、牢獄を牢獄たらしめる鉄の扉へと注がれている。あるいはそれは、自らをこの牢獄に閉じ込めている術式を、逆に見張っているようでもある。
たとえひとときでも意識を手放せば、再び目覚めることは叶わない。
まるでそう思い込んでいるようでもあった。
そのブラッドガルドが、不意に視線だけを動かした。
同時に、キィ、と小さな音がした。
正面の鉄の扉ではなく、真横についている木製の扉からだった。扉が開くと、明るい光が入り込んでくる。眩しげに緩く目を細める。
白い盾のようなものが顔を出したかと思うと、それが勢いよく下に落ち、牢獄に耳障りな音を立てた。
「うあー! しくった!!」
そして聞こえてきた瑠璃の声に、無言で顔を向けた。
*
「……なんだこれは」
「猫脚テーブル!」
瑠璃は自信満々に胸を張った。
牢獄に設置されたのは、白い木製のローテーブルだ。長方形で、角は丸くなっている。フォルムとしては優しい。その下は四本の鋼製の猫脚が伸びている。設置に関しては、できるだけガタつきの少ない場所を選んだ。
それからもう一度扉の向こうに手をやると、座布団を二枚取り出す。
「あ、これついでに座布団。きみも座るかと思って二枚持ってきたんだけど!」
「……持ち込むようなテーブルは無かったのではないのか」
「それがさ、今こっちは三月なんだけどね、新生活フェアやってて。こういう家具とかがお買い得に! ……まあ、その……訳あり品なんだけどね」
「……新生活を……三月から……?」
ブラッドガルドにとってはそちらのほうが理解し辛いようだった。
そんなブラッドガルドの心境にまったく気付かぬまま、瑠璃は自分のほうに座布団を置いて続ける。
「それにきみ、あれから私の部屋に来ないじゃない。言うことは言ったけどさ」
あれからというのは、ブラッドガルドが唐突に瑠璃の家に居たときの”事件”のことだ。三月の期末試験終わりに家に帰ったら、何故かいた。疲れも喜びもすべて吹っ飛び、驚きに上書きされた。
あのとき瑠璃は言っておいたのだ。
――また来るときは先に言ってよ。私じゃなくて家族がいる時もあるんだから。
当然だ。
偶然瑠璃が帰ってきたからいいものの、家族に接触されたらどうなるかわからない。ブラッドガルドはいいかもしれないが、瑠璃のほうはたまったものじゃない。
だが、今日まで瑠璃の部屋に再びブラッドガルドが自ら現れたことはなかった。
「そういう気分だからだ」
ブラッドガルドはしれりとそう言った。
「気分の問題なの?」
「それだけではない。だいたい、あそこは明るすぎる」
「人間はだいたい明るいところで生活するものなんだけど」
思わず真顔で言わざるをえない。
「貴様らの都合など知らん。それで……わざわざこんなものを用意し……何を企む?」
「ああ、そうだった」
瑠璃は更にもう一度扉の向こうに頭と手を突っ込むと、小さな紙袋を取り出す。
それを片手で掲げながら、顔を輝かせて言った。
「今日はフィナンシェ!」
マドレーヌを買ってきたのと同じ店のフィナンシェだ。以前買ったときに見かけて、いつか買おうと思っていたのだ。
だいたい、マドレーヌやフィナンシェといった焼き菓子は、それぞれの専門店でもなければ両方並んでいるイメージがある。瑠璃が目をつけたケーキ屋もそうだった。
瑠璃はテーブルの上に紙袋を置き、中身を広げた。
個包装のフィナンシェが、ちょうどいい位置にばらばらと転がる。
「あ~~、すごい~~。テーブルがあるとちょうどいい位置~」
「椅子は必要無いのか?」
「いいんだよ、日本は座布団で座っても!」
ブラッドガルドは諦めたように、代わりにフィナンシェをひとつ手に取った。
インゴット型の焼き菓子を、まじまじと見つめる。
「……貴様、わざわざこんなものを用意しておいて、持ってくるものが手で食えそうなものなのか……」
「いいじゃん別に!?」
そこは突っ込まれても仕方がない。
「あっ、でもね。そこだよ!」
「何がだ」
「ふふん。実はこの形と、手で食べられることに関係があるのだよ……」
瑠璃は自慢げに指を立てた。
ブラッドガルドの冷たい目線を無視して、いそいそとスマホを取り出してテーブルの上に置く。よくよく考えれば、いい位置にスマホも置いておけるということに気付くと、瑠璃はにやにやと笑った。
そんな瑠璃を変わらず変人を見るような目で見ると、ブラッドガルドは無言のまま個包装を破った。
「まず、フィナンシェの語源は金融家って意味なんだけど……わかる?」
「金貸しのことならな」
「んーまあ、お金持ちでもいいかな。とにかくその金融家とかお金持ちって意味。えっとね、この形そのものがインゴットの形にそっくりでしょ?」
「……ふむ?」
ブラッドガルドは改めてその形を確認する。
長方形の形の、金のインゴット。いわゆる金の延べ棒ってやつだ。初めて口にする単語は果たして通じるかどうか毎回気になるが、理解はしてくれたらしい。
「だから金融家、か?」
「んー。それもあると思うんだけどね」
瑠璃も自分で包装を破り、フィナンシェを取り出した。
密閉された包装の中に空気が通ると、その小さな風に乗ってバターの香りが鼻をくすぐった。
手には、焼き菓子にしては少し堅い感触。前に食べたマドレーヌよりもきつね色が多少濃くて、もしかして焼きすぎたんじゃないかと思うくらいの色合い。隅のほうがより堅くて色が濃いのも、そう思わせる要因だ。
ブラッドガルドも最初はそう思ったのか、微妙な顔色だった。(とはいえ瑠璃は、ブラッドガルドの顔色が悪いのなんていつものことだと思っているが。)
しかし、バターの香りに誘われるように、瑠璃とほぼ同時に口の中に含んだ。
舌先に伝わる堅さは、菓子特有の舌触りのいいものだ。歯を立てると、その堅さと裏腹に、内側のしっとりとした味わいが伝わってくる。口の中でぼろりとこぼれ落ち、溶けるように舌の上を転がっていく。
焦しバターの味わいと、微かなはちみつが優しい甘さを残し、名残惜しむように喉の奥へ転がり込んでいった。
「やっぱりおいしい……ここで買って正解……!」
瑠璃が感動している間に、ブラッドガルドはそのまま食べ進めていた。指先で唇の端についた柔らかな欠片と微かについたバターの香りを拭き取り、舌でなめとる。
「……以前の……マドレーヌと似ていると思ったが。違うな?」
「そうだよ。そうなんだよ! だいたいいつもこれってマドレーヌと一緒に置かれてるんだよ! だけど違うんだよ!」
瑠璃が身を乗り出す。
ブラッドガルドはのけぞらなかった代わりに、もう一つフィナンシェを手に取った。
「で、何が違うんだ」
尋ねながらも二つ目の包装を破り、口に含む。
何にせよ気に入ったのなら何よりだ。
「んーとね。まず、どちらもフランスの半生菓子って意味ではかなり有名。だからお店に行くと両方並んでる場合が多いよ。お店によっては同じ形だったりすると、あんまり区別がつかないって人もいるんじゃないかな」
瑠璃も似たようなものだと思っていた。
置いてある場所もだいたい似通っている。
「ただ基本的にはマドレーヌは貝の形、フィナンシェはインゴットの形をしてるよ」
「……そういうことにしておこうか」
「そういうことなの! それと一番違うのは作る時の材料だね。マドレーヌは小麦粉、バター、卵を使うのに対して、フィナンシェはアーモンドの粉末とコーンスターチ、焦がしバター、卵は卵白だけを使うよ」
「小麦粉の部分は大きいような気はするな」
「でしょ? 見た目はわかんなくてもここが違うと結構大きいよね」
食べてみてようやくなんだか違う、と気付くこともままある。
「……それはそれとして……コーンスターチとは何だ」
「あれ、知らない? トウモロコシがあるんだから加工とかしないの?」
「そんなものはない。料理は人間どもの発明品だ、我には関係無いな」
「現在進行形でその恩恵の最たるものを食べてるのに!?」
そこについてはつっこまざるを得ない。
そもそも小麦粉が小麦粉として存在しているんだから、トウモロコシだって加工していてもいいはずだけれど。
……といっても。
――コーンは向こうだと迷宮産だから……少し下のものに見られてるんだっけ?
瑠璃はなんとなく聞いたことを思い出す。
もしそんな理由で放置されているなら、ものすごくもったいない気がする。
「えーと……トウモロコシも加工できるんだよ。単に乾かして粉末にしたのがトウモロコシ粉。こっちは小麦粉と似たようなもので、トルティーヤっていう名前のパンの材料になったりするんだ」
タコスの皮の部分だ。
「コーンスターチは、トウモロコシを砕いてから……デンプンっていう成分を分離させて、乾燥させたものを粉末にしたものだね。カスタードクリームっていう甘いクリームの材料にもなる……ってこれめちゃくちゃ重要じゃんね!? 今度持ってくるから食べよう、カスタード使った何か!」
「……」
「分離させたもう片方はコーン油になったりもするよ。こっちも色々用途があるやつだね」
「……」
そこで瑠璃は言葉を切ったが、ブラッドガルドからは何もなかった。返事という意味でも、次を促すようなものもなく、瑠璃は目を瞬かせながら見つめ返す。その表情はおおむね普段通りだったが、じっと興味深く聞き入っている時のそれのようだ。
「……えっと……?」
「なんだ。続きはもう無いのか?」
反応は普段通りだ。
「ん? あー。フィナンシェの話?」
「そうでなければ何の話なんだ」
「えー……どこまでいったっけ。材料が違う、ってところだよね」
少し戸惑いはしたものの、瑠璃は話を元に戻そうとした。
「で、フィナンシェって有名な話があってね。一八九〇年に発行された、ピエール・ラカンって人の『フランス菓子覚書』なる本があるんだけどね。それによると、証券取引所近くのサン・ドニ通りに店があったお菓子職人のルヌって人が作ったって言われてるんだよ」
「……妙に具体的だな」
「その後も具体的だよ。証券取引所に来ている人たちの服が汚れないように気軽に食べられるもの、として作られたみたいなんだよ」
「……」
また黙ったと思ったら、今度は三つ目のフィナンシェに手を伸ばした。
今度はすぐに食べずに、改めてその形をじっと見ている。
「ただ……」
瑠璃が切り出すと、ブラッドガルドは顔をあげた。
「それには続きがあって、どうも今のインゴット型の他にも違う型のフィナンシェがあったみたいだね。実際、十七世紀にナンシーの修道女によって作られたとか、十六世紀にイタリアのカトリーヌ・ド・メディシスっていう人がフランスに輿入れした時にフランスに伝わった――とか諸説あるよ」
「……」
またそういう伝承か、と言わんばかりの視線が射貫いてくる。
「ほ、ほら、お菓子の話って伝説的に語られてるのとか多いし……。この人もフランスの食文化に色々と影響を与えたって言われてるけど、証拠は無いみたい。ただ、このメディシス……メディチ家も銀行家として有名な人たちだよ」
「……ふん?」
続けろ、という目線を感じる。
「有名な一族で、物語の題材にもなる人たちだね。元は医者だったんじゃないかとか言われてるけど、金融業で家の基礎を作り上げたあと、次第に力をつけてフィレンツェって所の支配者になったんだ。芸術家にも力を入れてて、ダ・ヴィンチとかミケランジェロとか、こっちの世界の有名人のパトロンにもなってて、ひとつの時代の中心にもなったよ」
ルネサンス期といえば、文芸復興とも言われる時代だ。
金銭的な余裕が無いと芸術なんて愛でることはできないだろうし、中世の時代でそれを考えるとすごいことかもしれない、と瑠璃は思う。
「三百年くらいの間、栄華を誇ったけど……そのあとは相続人を残さずに死んでしまった人のところで家系が絶えちゃったみたいだけどね」
いずれにせよお金持ちと縁が深いとされるお菓子ではある。
瑠璃はスマホをスクロールさせ、下のほうを読む。
「話を戻すと、ルヌさんが作ったのは間違いないんだろうけど、後世の誰かがフィナンシェの名前と形を結びつけたんじゃないかっていう話もあるよ」
「いずれにしろそいつの皮肉か才能かは評価できるな」
三つ目のフィナンシェを食みながら言う。
「金持ちという名を持ったインゴット型の菓子を喰らう。……そうすることで恩恵に預かろうという呪いだな」
「えっ何、急にノロイとか……怖いんだけど」
「……貴様、マドレーヌやクロワッサンの時にも似たような話をしただろうが」
「したっけ!?」
瑠璃は必死で以前の記憶を探る。
「由来の真偽はともかくとして、マドレーヌは聖者の象徴を喰らうことであやかり、クロワッサンは相手の軍を食べ尽くしてやる、というものだろう」
「そうでした」
瑠璃は思わず真顔になりながら言った。
説明したほうよりされたほうが覚えているなんて、ちょっと自分でもどうかと思う。
「ふん。冒険者に売れそうな菓子ではある……」
そう言いながらまったく理由など関係なく食べ続けている人、もとい迷宮の主を目の前に、瑠璃はいかんともしがたい気分になった。
「イメージでも冒険で食べていくってなかなか難しそうだからな~~」
ファンタジーの漫画の中でも、だいたいお金に困っている描写がある気がする。
酒場でツケで飲み食いしたり、ツケを払えと迫られたり、ツケの代わりとして依頼を押しつけられたり。
反対に依頼料やお宝が手が入ってもすぐに使ってしまったりと、お金に関する描写はよくある。
それが冒険のキッカケのひとつではあるのだろうけど、現実に存在する冒険者もそんな風だとすると、意外に人間の想像力というのは的を得ているのかもしれない。
「そういえば、きみんとこはそういう銀行とか金融とかどうなってるの?」
「金の概念は人間どもの発明品だ。特に使う理由はない――宝石好きのゴブリンどもは収集品のひとつにしているがな。献上されることもあるが、あるだけだ」
瑠璃は一瞬、ゲームで攻略中のダンジョンの中に、お金が入っている宝箱がある理由について考えてしまう。
「金貨、銀貨、銅貨――金貨から順に価値は低くなっていく」
「おお……本当に中世ファンタジー……」
「なんだそれは」
「や、気にしないで」
瑠璃は首を振った。
「一応はまだ、国が支配している、ということになっているが……実際のところは冒険者どもの存在がでかいな」
「えっ、どういうこと?」
「……表向きには、国や諸侯がその下の人間どもを働かせ、貢納させることで国が回っている」
「あ……そうか」
こっちの世界でいう封建制度か、と瑠璃は思い当たる。
「その一方で、ダンジョン攻略とやらに勤しむ冒険者どもが動き回ることで、各都市に交流が生まれた。まったく傲慢もいいところだが、ダンジョンは資材のひとつであり、時にそれを巡って戦争まで起きたほどだ」
「お、おう……、そう聞くとなんか……すごい世界だ」
「……まあ、土地として手に入れたとして、それを使いこなせるかどうかは知らんがな」
「わーめっちゃ悪い顔してる」
いつものことだ。
「いずれにせよ、各都市で勝手に作っていた金貨や銀貨が統一された価値を持ち始めたのもそのせいだ。商業という意味でも、他にも鑑定屋、買い取り、ギルドの設立……そして金貸しの類まで発展した。まったく忌々しい」
本当に苦々しい口調で言うものだから、瑠璃の感覚もよくわからなくなってくる。
「ま、冒険者の増加が原因で治安とやらも悪化したようだがな」
そして人間社会にとって不利益なことは、本当に楽しそうに言うのだ、この迷宮の主は。
瑠璃がいるのはあくまでこの世界の人類の敵側なのだと、いやでも感じさせられる。
「……まあでも、そこまでわかってて負けるんだね……」
「黙れ」
ツッコミに対してぎろりと睨みながら、ブラッドガルドはもう一つフィナンシェを持っていった。
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