9話 きみと食事をしよう(後)
「ところで」とブラッドガルドは言った。
ペペロンチーノも残すところあと少しとなったところで、フォークでパンを指す。
「変わったパンだな」
「クロワッサンのこと?」
ぐるりと生地を巻き込んで、真ん中の盛り上がったダイヤ型。
「ヒトの街では種類によって上流のものか平民のものかで分けられると聞いたが」
「さ……さすがにこっちはそこまで厳密ではないけど……」
今の時代の日本でさすがにそれはない。
もっとも、人気があってなかなか買えないだとか、特別な時にしか出なくて手に入らないという現象はあるけれど。
種類は同じでも作るお店によってだいぶ変わったりすることもあるし。
「種類ってたとえば?」
「詳しくは知らん。だが、材料の配分や柔らかさ……ではないか」
「うーん……ライ麦パンとかかな……昔は二級品だったんだっけ」
向こうの世界にライ麦があるかはわからないから、多分似たような何かかもしれない。どれくらい製粉されているかでも一級品、二級品が分けられていた気がするけれど、基本的に白いパンは上流のものだ。
「ある程度調査したといっても限界はあるからな。たいていは丸いものしか見た事がない」
「迷宮に入ってくるのなんて、冒険者の人たちばっかりだよね、たぶん……」
そうなると、パンなんか持って来れても最初のうちで食べきってしまうだろう。あとは二度焼きしたような固形食糧みたいなものに違いない。
「というか冷静に考えて、きみの世界の話なのに何で二人で頭ひねってるんだろう?」
「さあな」
そもそも相手がいわゆる魔物側の人なのが悪い、と思う。
「というかさあ、冒険者の人たちは何しに迷宮に入ってるの?」
「名目としては魔物……敵対者という脅威の排除と、それによる富と名誉。危険地帯を解き放つという目的そのものが名誉だ。それから奴らの大地には無い素材」
「おお……ほんとに冒険って感じだ……行けないけど……」
まるでゲームの導入だけ聞いているような気分になる。
「はっ。貴様のような奴は第一階層でたいてい死ぬ」
「そこまで!?」
真顔で言われるとさすがに傷つく。
「ふん。人間どもなど我らにとっては略奪者に過ぎん。女神は我のことを悪意の塊のように思っていたようだが」
「魔王みたいな?」
「なんだ、マオウとは」
知らなかったのか。
ひとまず簡単に、この場合の「魔王」は魔物などの人間に害を与える勢力の王様だとか、頂点に君臨している存在だと説明する。
元々あった言葉が、ファンタジー系のゲームや小説に転用されてそっちが主流になった感じだ。
「……その解釈で言えば我も魔王になるが……特に他の迷宮の主を束ねているわけでもなし」
見た目は完全に魔王みたいだけど……というのは口にしなかった。
とはいえ魔王っぽいというだけで、魔王ではないというのはわかった。
あくまで彼は迷宮の主。それも勇者に敗北したあとの、いわば元迷宮の主に過ぎない。ただ復活をもくろんでいるあたり、どうにも魔王を想像してしまう。
……復活?
「えっ……ねえ、こっちの部屋に出てきたってことはもしかして復活間近なの? まずくない? 私が貢献とかしてない?」
「……貴様、それを我に聞くのか……」
「そんな目で見ないで!? ……で、実際どうなの?」
「さあな」
「その返事ずるくない!?」
ブラッドガルドはクロワッサンを二つに割った。
「色は白いが、中は空洞が多いな」
焼きたてのパンなら、きっとパリパリという音がしたんだろう。
だけど残念ながら。これは五個で一袋の大量生産品。ミニクロワッサンは小さくて、そしてどちらかというとふわふわ寄り。
それでも、製品ならではの良さというものはある。
「それで?」
今までの何もかもを無かったことにするかのように、ブラッドガルドは尋ねた。
「え、それでってこれは何なのか解説しろってこと?」
「他に何がある」
そこでクロワッサンの話題に戻るというのか。
瑠璃はさすがに目を丸くしたが、ブラッドガルドが次の言葉を待っているのを見るに、たぶん本気で言っているのだとは悟った。
鞄の中に入れっぱなしだったスマホを取り出し、クロワッサンについて書かれたページを探した。
「えっと、まずクロワッサンはフランス語で三日月って意味ね」
「貴様らにはこれが三日月に見えるのか?」
「まあ普通に三日月には見えないけど、それはちょっと置いといて。この三日月の形をしてる説の一番有名なのが、オーストリアとトルコ軍の話。一六八三年、オーストリアのウィーンってところが、オスマントルコ軍に包囲されて侵入されそうになってたのね。そのトンネルを掘っている音に気が付いたのが、早朝から仕込みをしていたパン屋さん。その通報のおかげで勝利をおさめて、その記念に三日月のパンを作った。トルコ軍の紋章には月が描かれているから、『トルコ軍を食べ尽くしてやる』って意味でね」
ただこれは、クロワッサンの直接の由来ではないようだ。
「ただ、今みたいな形――つまり、バターを練り込んで作るクロワッサンが出てきたのは二十世紀になってから。だから直接の由来ではないと思う」
スマホの別ページを開いて瞬く。
「そのオーストリアにはもともと、三日月の他にも山羊の角を意味するキプフェルってパンがあって。三日月の形はそっちが元じゃないかって言われてるね」
「……角か……」
――あ、ちょっと反応した。
やっぱりあれは山羊とかの角なのかなあ、と瑠璃はブラッドガルドの頭を見て思う。ついているところは髪に隠れてしまっているけれど、どうなっているのかものすごく気になる。
ちょっと触りたい。
「キプフェルはパンだけじゃなくて、クリスマスに食べるバニラキプフェルっていうクッキーもあるんだけど……どっちが伝わったのかはすぐにはわからないね。両方かも。どっちにしろフランスに嫁いだマリー・アントワネットによって持ち込まれたのは確かみたいだけど」
「そのあたりの文化の流入は嫁に来ることでしか無いのか……」
「ま、まあ、前もそうだったけど……」
結構そういうことはある、と考えてもいいかもしれない。
瑠璃はスマホをスクロールさせながら思う。
「マリー・アントワネットもいろいろとお菓子に関して有名な人だよ。お菓子と直接関係ないけど、一番有名なのは、飢餓にあえぐ平民に『パンが無ければお菓子を食べればいいのに』って言い放ったって話だね」
「ほう! その傲慢さはいっそ好ましいな」
「って言っても、この場合のお菓子……ブリオッシュってお菓子は二等小麦を使ってて安価で食べられるものだったの。だから実際は、財政や民を気遣った言葉が傲慢さの象徴にされてしまった。
そもそもこの言葉自体が、マリー・アントワネット以前から存在した創作なんじゃないかって言われるてるんだよ。この言葉が書かれた時は、まだマリー・アントワネットは幼い子供だったし……、それが次第に『驕った貴族様』の象徴というか、民と貴族の関係性の強調として使われ始めた。だから、本来、彼女の言葉じゃない。
時代や策略もあったんだろうけど、この人、どういうわけか中傷や名誉毀損が多いんだよ。高価な首飾りを作らせた詐欺事件があったんだけど、勝手に名前を使われてただけなのが、いつの間にか彼女が黒幕だったことになって、民衆に嫌われてしまったり」
「……どこの世界も人間の頭は変わらんな」
ブラッドガルドに真顔で言われると微妙な気分になる。
そんな瑠璃に気が付いたのか、それとも興味が逸れたのか、ブラッドガルドは片手を振った。
「まあいい。それで続きはあるのか」
「あ、うん。最初に、三日月じゃないって言ったよね?」
「似たようなことは言ったな」
「この両端がまっすぐ……つまりこの形状はクロワッサン・オ・ブール。ブールはバターのこと。バターを練り込んであるものはそう呼ばれるよ」
一度スマホを置いて、瑠璃は自分のクロワッサンを手に持った。
「これは小さいからできないけど……両端がちゃんと曲がった三日月になってるものは……」と言いながら、くいっと曲げる。「クロワッサン・オルディネールっていうんだ」
「オルディネールの意味は『普通』。日本ではそれほど違いはないんだけど、フランスだと、こうして形によって使ってる油脂の違いがわかるようになってるんだよ」
「油脂?」
「バターを使うか、マーガリンを使うかだよ」
「……マーガリン……?」
「……」
そっとクロワッサンを置き、スマホを確認する。
「植物や動物の油を使った、バターに似せて作った加工食品ね。もともとは高価なバターの代替品として作られたんだけど、今はマーガリンっていうひとつの製品として市民権を得てる。
製品としては十九世紀の末くらいにできた、比較的新しいものだよ。
植物性だからか、当初はバターよりも健康に良いってイメージだったね。ただ、トランス脂肪酸っていう成分が健康被害を及ぼすって言われたけど……近年では製法を変えて、その成分を減らした商品が出てる。だから、今となっては作り方と味の違いくらいかな。バターに比べて匂いはあまり無いけど、なめらかで柔らかくてあっさりしてるよ。
そもそも、食べ物が何だろうが食べ過ぎは良くないって話でもあると思う……」
「真理だな」
悟ったように言うと、ブラッドガルドはクロワッサンを口にした。
大量生産品とはいえパン屋が作ったパン。
バターを使ったそれは風味豊かでコクもある。さっくりとした感触はないものの、少ししっとりとしたパイ、という感じかもしれない。
重ねられたパイの感触は普段のパンとは違って物珍しさもあるだろう。
「それから、クロワッサンはチーズとかハムとか挟んで食べるのもいいし、甘くして菓子パンみたいにするのもあるね。あ、もちろんチョコレートを挟んで焼き上げるのもあるよ!」
言った瞬間、獲物でも射貫くような鋭い目が。
ここは普段のお茶会の場所よりずっと明るいはずだ。だが、途端に曇ったように影が差し、春先だというのに冷たいものが背を落ちていく。ベランダの窓だけが明るく見えるが、それもどこか遠い。遠近感が狂ったかのように、そこだけがぽつんと世界から隔絶されたような心地になる。
人間であれ魔物であれ、この視線を受けただけで四肢を掴まえられたように一歩も動くことが出来なくなる。そんな目線だった。ほんの小さなものであれば逃げることすらできずにじっと耐え忍ぶしかない。
だが、非難の理由がわかる瑠璃はなんとも言えない気分になっただけだった。
「……今度、パン屋さんの焼きたてのやつ買ってくるよ……」
瑠璃がそう言うと、ブラッドガルドは片目を見開いた。
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