三話目

『博之、言い過ぎだ』


 彼女が帰り、中井がそのあとを追いかけて行ったあとで町田にそう言われ、黙りこむ。視線の先にいる忌々しい女のことでイライラしていた俺は、半ば八つ当たりのように彼女にひどいことを言ったという自覚はある。

 だから、明日また来たら謝ろうと思っていた。謝って、渡すと言っていたものを受け取ろうと思っていた。

 だが、彼女はあの日以降来ることはなかった。それに後悔しつつ、手元にある絵本をじっと見る。

 それは中井から渡されたもので、著者と絵は『あさおか まい』と書かれていた。


 内容は至ってシンプルで、母親と喧嘩した女の子が、行ってはいけないと言われていた森に迷い込んで怪我をした。それを助けたのが、オレンジ色の服を着た熊という内容だった。

 少し前から、『このオレンジの服、レスキュー隊のに似てるよな』『作者はレスキュー隊に助けられた人で、それが嬉しかったんじゃないか』など、内容とも相まって話題になっていた。


 だからこそ、訓練中に見た彼女の辛そうな顔や悲しそうな顔を見て後悔したし、姉に頼まれて連れて行った郵便局でばったり彼女と会った時も、さっと俯かれた。なぜかその行動に胸が痛み、イラつくのかわからず、話かけようとして姉に邪魔されたのが昨日のことだ。

 そっと溜息をついて、何か飲もうかと立ち上がろうとした時だった。


「高台に向かうバスが強風で煽られ、川底に転落! 怪我人が多数いるもよう!」


 その第一報が入った瞬間、周りは慌ただしく準備を始める。第二報、第三報を聞きながら、三分後には署を出発した。

 現場に着くころには風はだいぶ収まっていたが、油断はできない。一人、二人と救助していく中、到着した救急車に怪我人をどんどん運ばせる。だいたい救助したかというあたりで、年配の女性と男性が「若い女性がいない」と言い出した。


「若い女性、ですか?」

「はい。黒いレインコートを着た、おかっぱ頭の女性なんです」

「朝丘 麻衣ちゃんという女性なんですが……」


 その名前にゾクリ、と嫌な予感が走る。部隊長がチーム編成をし直し、それぞれに指示を出して行く。

 副部隊長や中井や町田らと一緒に川底へ下り、彼女を探すも見つからない。時計を見ればかなり時間がたっている。

 これ以上雨が降ると川が増水してもっと探せなくなるし、日も暮れるとさらに探せなくなる。時間が過ぎて行くことに焦りつつも慎重に探している時だった。


 コン、コン

 コン、コン、コン、コン、コン

 コン、コン


 コン、コン

 コン、コン、コン、コン、コン

 コン、コン


 唐突に川底に響き渡ったその音に、中井が反応した。


「なあ……これ、252じゃないか?」


 コン、コン

 コン、コン、コン、コン、コン

 コン、コン


 コン、コン

 コン、コン、コン、コン、コン

 コン、コン


「……ああ、確かに252だ。でも、誰が? 無線入ってないよな?」


 小さい音ではあるが、規則的に叩かれるその音に全員耳を済ませながらも話す。


「麻衣ちゃん以外にもいるってことか?」

「わからん」

「……そういえばさ、麻衣ちゃんが来なくなるちょっと前に、彼女が『レスキュー隊の映画をDVDで見ました!』って言ってなかったか?」


 少し考えてからそう言った中井の言葉に、あの時その場にいた俺や町田、副部隊長が頷く。


「ああ、言ってた。なら、これはきっと彼女のメッセージだ! 行くぞ!」


 副部隊長の言葉に全員頷いて音の方向へ歩き出すと、規則的に叩かれていた音が唐突に止んだ。


「まずい……意識が落ちたかもしれん! 急ぐぞ!」


 もう一度副部隊長の言葉に全員頷き、その方向へと急ぐ。急がないと日が暮れる。三十分くらい探したあたりでやっと彼女を見つけた。


「……っ! 朝丘さんっ!」


 俺が彼女を見つけた時は彼女は頭から血を流し、手に義足を持ったまま倒れていた。無線で発見報告をし、慌てて駆け寄って抱き起こす。

 真っ赤な顔をした彼女の額に手をやればかなり熱があった。みんなに合図を送り、その場でできることを始める。

 謝れないまま彼女を死なせたくない。このままなんて……彼女に二度と会えなくなるなんて、嫌だ。


「朝丘さんっ、わかりますか!?」

「ん……」

「麻衣っ! 寝るな!」

「うぅ……に、し……さん……?」

「無理に喋るな。もう大丈夫だから。助かったからな」


 彼女に話しかけ、仲間を待ちながらできるだけ頭や身体を動かさないよう、この場でできることをしていると。


「西さんが好き……」


 彼女は唐突にそう呟いて落ちた。その言葉に思わず手を止めてしまう。じわじわと身体に広がる幸福感と、このまま失うかもしれないという恐怖感がせめぎあう。


 辛いことがあったはずなのに、いつも笑っていてその境遇を一切見せなかった彼女を、俺はいつの間にか好きになっていたんだと自覚する。


 仲間が到着し、彼女を運んで行く。それに一緒について行きながら、彼女の安否を祈った。



 ***



「痛い……寒い……」


 ずきずき痛む頭やカタカタと震える身体をなんとか起こし、周りを見渡す。遠くでサイレンの音がした気がする。


(生きてる……の?)


 ぼんやりしながら上のほうを見ると、オレンジ色の服が見える。バスからも離れているらしく、私の位置からだと多分声は聞こえないだろう。

 そう思ってなんとか義足を外すと、目の前にあった大きめの石を、以前見たレスキュー隊の映画みたいに義足で叩いた。


 コン、コン

 コン、コン、コン、コン、コン

 コン、コン


 コン、コン

 コン、コン、コン、コン、コン

 コン、コン


 あの人たちに届くかどうかわからないし、あの消防署の人が来ているのかもわからない。でも、自分が助かるためには規則的に叩いて、自分の居場所を知らせるしかない。


 でも、本当にあの消防署の人たちが来てたら……?


 そう考えたら、あの日の西さんの顔を思い出し、叩く手が止まってしまった。 嫌われたのに、なんで助けを求めてるんだろう。……これ以上、迷惑をかけたくないのに。

 そう思ったらなんだか急に疲れてしまった。レインコートを着ているから服はそれほど濡れてはいないけれど、頭はどうしようもなく濡れているし、座っている場所からも雨水が服に染み込んでくる。

 手足も冷たいようなあったかいような感覚で、まるで雪山遭難で聞く話みたいだなあ……と思ったらどうしようもなく眠くなってしまって横になる。


 親不孝な娘でごめんね。

 最期にもう一度西さんの顔が見たかったな、なんて思っていたら、西さんの声が聞こえた。


「朝丘さんっ、わかりますか!?」

「ん……」

「麻衣っ! 寝るな!」

「うぅ……に、し……さん……?」

「無理に喋るな。もう大丈夫だから。助かったからな」


 西さんの声が優しい。これはきっと夢だ。

 だって、一度も呼んだことがない私の名前を呼んで、優しく話しかけてくれてる。夢だから優しいんだ。

 だったら、言ってもいいよね?


 夢ならなんでも言える気がして、「西さんが好き……」と呟く。

 夢だから、何の反応もないことはわかってる。でも、最期に好きだって言えたのは、きっとあのお姉さんにもらった風船葛のおかげ。

 義足のリハビリは辛かったけれど、あの時の西さんの笑顔で頑張れた。助けたのは私だけじゃないことはわかってるし、今までも、これからもたくさんの人を助けることもわかってる。

 でも、あの笑顔を私はいつの間にか好きになって、再会した時にまた好きになった。

 だから、もう会えないのかなと思うと少し寂しい。


 ふわふわと身体が浮いてる感じがする。死んだのかな、親不孝したから地獄行きかな、なんて思って。手がなんだかあったかいなあ、なんて目を開けたら、ピッ、ピッ、という機械音と白い天井と……心配そうに私を覗く西さんの顔が見えた。


「あ、れ……?」

「無理に喋るな。今看護師を呼んだから。……また来るな」


 そう言った西さんは微笑むと、私の手をギュッと握って持ち上げ、手の甲にキスを落とした。その行動をぼんやりしながら見ていたら、西さんは手を離して私の頭を撫で、どこかへ行ってしまった。


 きっと、まだ夢を見てるんだ。手を握ってたのが西さんで、優しく微笑んでくれて、頭を撫でてくれて、手の甲にキスまでしてくれて。

 女性の声で何か言われるたびに返事をする。優しい西さんの夢を見れて幸せだなぁ、手の甲にキスされたよ……なんてことを思い出して悶えながらまた目を開けたら、今度はあの日と同じように母や姉が泣き、父と兄、お義兄さんとお義姉さんがホッとした顔をして私を見てた。


「ここ……」

「病院だ。……事故にあったのは覚えてるか?」


 父にそう言われて頷く。


「予約、別の日に……」


 別の日にすればよかったと言おうとして少し咳き込むと、母が吸い飲みでお水を飲ませてくれた。それにホッとしていたら、父が苦笑していた。


「確かに日にちを変えてとは言ったが、まさか事故に遭うなんて思ってなかったし、義足も足も痛かったんだろう? 限界ギリギリだったのはわかってるからな」

「そうよね。だからわたしも麻衣を送り出したんだし」

「それに、恋人がいるなら、そう言ってくれればいいのに。かなり歳上なのは気になるが、麻衣がいいなら反対はしない」

「そうね。すごく誠実な方だったし」


 オレの目標のハイパーなのはびっくりしたがと言った、現役消防官のお義兄さんや両親の言葉をぼんやりしながら聞きつつ、ふと、気になった単語を呟く。


「恋人……? ハイパー?」


 私にはそんな人はいない。絶賛片思い中で、その人に嫌われてますが、と首を傾げる。


「隠さなくったっていいのに。あそこの消防隊のレスキューって、全員ハイパーレスキュー隊なんだ。オレもいつかレスキューにって思ってるけど、さらに上のハイパーだからさ。目標ではあるが、オレの能力だとレスキューに行けるか微妙なんだよなあ……」

「う、そ……」


 お義兄さんの言葉に呆然と呟く。だけど、私の声は小さすぎたのか、皆の耳には入らないみたいだった。

 私はずっと、あのオレンジの服は、消防官の人が災害とか事故が起きた時に着る服だと思っていた。それに、恋人という言葉。

 恋人って誰? とぐるぐる考えていると、私が疲れたと思ったのか、皆は「また来るから」と言って帰ってしまった。


 ふう、と息を吐いて目を瞑る。両親の言った恋人って誰なんだろう……そればかりがぐるぐると頭を支配する。かなり歳上とか、誠実とか、ハイパーレスキューの恋人とか、考えても考えてもわからない。

 溜息をついて目を開けたら、また西さんが私の顔を覗いていた。


「あ、起きた?」

「……西、さん?」

「……よかった。記憶を無くして、『貴方誰?』って言われなくて」


 ホッとしたようにそう言った西さんは、私の手を握って手の甲にキスを落とす。……西さんが優しい。きっと、私に都合のいい夢だ。


「……ごめんな」

「何がですか?」

「あの日の言葉。ちょっとイライラしてて、麻衣に八つ当たりしてしまった」

「そんなの……。私もしつこかったかなあ、と思ってたし」


 しょんぼりとしながら謝った西さんが珍しくて苦笑してしまう。


「それと、あの絵本、受け取ったから」

「……へ?」

「あの絵本、麻衣が書いたのか?」

「はい。助けたのは私だけじゃないってわかっているんですけど、でもすごく嬉しかったし。あの日……電車の事故に遭った日、西さんの笑顔にホッとして、義足のリハビリも頑張れたから……だからお礼が言いたかったんです」


 電車の事故、と呟いた西さんはそれを思い出したのか、ゆるゆると目を見開いたあとでハハッ、と笑った。


「……そんな昔から、俺が好きだった?」

「十年間片思いですよ」


 夢の中だから西さんは優しいし、私も言いたいことが言えた。現実だったら、絶対に言えない。


「そうか。なら、俺と付き合うか?」

「西さんがいいなら」

「じゃあ、俺と結婚するか?」

「私なんかでよかったら」

「……退院したら抱かせてくれるか?」

「いいですよ。好きなだけ抱いてください」

「……麻衣、好きだ」


 随分具体的な夢だなあなんて思っていたら、西さんがそんなことを言った。


「……うん、きっと夢だ」

「夢じゃないから」

「……へ?」

「麻衣からの告白は救助の時に聞いてるから、俺達は両思いだな」

「…………え?」

「はあ……いつまで夢だと思ってるんだ? ……ああ、眠り姫はこうすれば起きるんだっけか」


 にっこり笑った西さんは、ぽかんと口を開けた私に顔を近付けたかと思うと、唇を塞いで長いキスをした。それも、舌を絡める濃厚なキスを。


「う、そ……っ!」

「嘘でもないし、夢でもないから」


 クスクス笑う西さんはなんだか楽しそうで。でも私は、夢だと思っていたから言えたわけで……。


「式は当分無理だが、籍は先に入れようか。ああ、麻衣のご両親には挨拶してあるからな?」

「……」

「早く退院しろ。そしたら、籍を入れよう」

「いえ、あの! あれは夢だと思っていたから言えたわけで!」

「夢じゃないし、言質はとった。麻衣の希望だから、たっぷり、好きなだけ抱いてやるからな?」


 ニヤニヤというか、ニコニコというか。西さんは本当に嬉しそうで、思わず私もつられて笑顔にると、西さんは急に真面目な顔をして私を見た。


「退院したら、いろんなことを話そう」


 はい、と返事をしたあと、また西さんにキスをされた。


「これから仕事なんだ。来るのは不規則になるが、また来るから」

「はい。いってらっしゃい」


 もう一度私にキスをした西さんは、じゃあなと言って病室を出た。


 両思いになれたことが信じられなくて頬をつねってみたら痛くて。変な約束をしたばっかりに、退院してしばらくたったあとで西さんに本当に好きなだけ抱かれてしまったけれど、この時の私は両思いになれたことに対してすごく浮かれていて、すっかり抜け落ちてしまっていた。



 死んでもおかしくなかった事故から、二度も私を助けてくれた西さんは、My HERO私のレスキュー隊員です。


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