二話目

「こんばんは」

「あれ、麻衣ちゃん。今帰り?」

「はい。今日こそはお礼を受け取ってもらおうと思って」

「だってよー、博之。いい加減、受け取ってやれば?」

「煩い。……朝丘さん、迷惑だって言っているだろ? いい加減にしてくれないか?」

「だから、これを受け取ってくれたら二度と来ないって言ってるじゃないですか」


 眉間に皺を寄せて私を睨んでいるのは、私を助けてくれたあのオレンジ色の服……レスキュー隊の服を着たお兄さんだった。


 そのお兄さん――西さんに会ったのは偶然だった。私たちが住んでいる家の、道路を挟んだ向かいのマンションで飛び降り騒ぎがあり、落下防止ネットに落ちた人の救助を野次馬していて西さんを見つけたのだ。

 実際は一緒にいた人が口論の末突き落としたらしい、と聞いた。

 ずっとお礼が言いたくて、でも、どこの所属の人かわからなくて。顔を忘れそうになった時に見つけた偶然だったから、嬉しかったのだ。

 私が住んでる家に一番近い消防署でレスキュー隊があるのは一ヶ所だけ。でも、押し掛けるわけにも行かないし、勤務時間とか全くわからない。

 だったらと時間を決めて、芸能人を待つみたいに出待ちしていたら、初日から西さんに会えた。嬉しくてお礼を言ってお礼を渡そうと思ったら、「仕事だし、こういうのは迷惑だから」と断られてしまった。

 それ以来ずっとこの攻防が続いていた。


「本当、冷たいよな、博之は」

「仕事をしただけだ。それに、お礼は言ってもらった。それ以上は必要ない」

「またまた~」


 西さんの同僚の町田さんと中井さんが西さんをからかうようにニヤニヤしていたけれど、西さんは迷惑そうに二人を睨んだあと、私も睨んだ。その顔にギュッと心臓を掴まれたみたいに痛くなる。

 私は西さんが好きだったから。


 十年前、私はあの事故で左足の膝下から先を無くした。今までは義足で歩いていたけれど、最近は義足が合わなくなって来ているのか、足が痛くて車椅子に乗っていることのほうが多い。

 仕事は絵本などの挿し絵をしているから、自宅でもできるのだ。

 西さんのあの笑顔があったから頑張ってこれたし、「頑張ったよ」って言いたかった。あの笑顔が大好きだった。

 自分の気持ちを伝えたいけれど、伝えられない。ただでさえ迷惑そうな顔をしてるのに、これ以上嫌われたくない。

 だから、ここで出待ちするのは今日で最後にしようと決めていた。だからこそ、これを……私が初めて書いたこの絵本を、渡したかった。


「西さん、後生なんで! 受け取ってください!」

「しつこい! 何度来られても受け取らないって言ってるだろう! いい加減にしてくれよ! 二度と来るな!」

「あ……」


 私に怒りの形相を見せて背を向けた西さんは、二、三歩歩いてその歩みを止めた。


「博之、言い過ぎ! 麻衣ちゃん、博之がごめんね」

「いえ、いいんです。確かにしつこいかなあ、と思っていたし。すみません、今日はもう帰りますね。さよなら」

「うん、またね」


 バイバイと手を振ってくれた二人に手を振り返し、車椅子を反転させてしばらく走ったあと、「麻衣ちゃん!」と声をかけられた。車椅子を停めると中井さんで、私の正面に来ると腰を屈めた。


「麻衣ちゃん、僕がそれを渡してあげようか?」

「いえ、大丈夫ですよ。これ以上何かしたら、今度はストーカーって言われそうですし」

「麻衣ちゃん……」

「だから、中井さんも気にしないでください」


 ニコリと笑って胸の痛みを誤魔化すと、中井さんは困ったように笑った。


「でも本当は、博之に渡したいんでしょう?」

「……はい。これを渡して、もう一度『ありがとう』って言いたかったんですけどね。でも、大丈夫ですよ?」

「もう、麻衣ちゃんは。……あ、中身聞いてもいい? 食べ物とかじゃないなら、僕が様子を見て渡すよ?」

「いえ、本当に大丈夫ですから!」


 中井さんの言葉に慌ててそう言う。これ以上西さんに嫌われたくなかったし、迷惑をかけたくなかったのもある。そんなことをぐるぐると考えていると、中井さんが突然こんなことを言った。


「……じゃあ、僕がもらってもいい?」

「え?」

「僕がもらったら不都合なもの?」

「違いますよ。……もう、今日の中井さんは強引ですね」


 そうかな、と言った中井さんにそうですよと返し、トートバックの中から紙袋を出すとそれを中井さんに渡す。


「はい、どうぞ」

「今開けてもいい?」

「ダメです。開けるなら、私のいないところで開けてください」

「えー、つまんないの。おっと、町田が呼んでる。引き留めてごめんね」

「いえ、こちらこそすみませんでした」


 またおいでと言ってくれた中井さんに曖昧に笑い、その場をあとにする。


 西さんに嫌われた。それが哀しい。でも、それ以上に、西さんの視線の先にいた女性たちみんなが綺麗に着飾っているのが……それをじっと見てるのが辛かった。

 私だって着飾っていないわけじゃない。それに、自分の足で立って彼の隣に並びたかった。

 無理してでも歩けば良かったかなと後悔しつつ、どのみちもう行かないからいいやと、車椅子を走らせながら家路を急いだ。



 ***



「よし、これでいいかな。メールに添付して、送信、っと」


 たぶんお直しが来るだろうなぁと思いながら、机に散らばっていた道具を片付ける。絵を書く時はだいたい色鉛筆で書いている。その時の要望によってはクレヨンを使ったりするけれど、基本的には色鉛筆だ。


 出待ちしなくなって一ヶ月たった。郵便局の本局に行く時にその前を通ることはあったけれど、立ち止まったりせずに通り過ぎた。出動要請があったのか、たまに消防車みたいなのに乗っているオレンジ色の服を着たレスキュー隊の人を見るとつい反応してじっくり見たりする。

 その中に西さんがいたりすると、嫌悪する顔が見たくなくて俯いたりしてる。

 訓練してる姿も、前は立ち止まって見てたこともあったけれど、それも見なくなっていた。たまに集団で走っている中に西さんがいるのを見ると、それすらもあの日の言葉と彼の顔を思い出してしまい、そそくさと通り過ぎたりしていた。


「あ、メールが来た。……うえ、やっぱりお直しかぁ……。あ、でも、これならすぐに終わるかな」


 ぶつぶつ言いながらお直しの指定をされている場所を直すと、もう一度メールを送る。すぐに返事が来てOKをもらったので、それを封筒に入れて郵便局にでかけた。足が痛いのと、義足の調子が悪いからと予約を入れてあるため、明日は病院に行かなければならない。

 面倒だなと思いながら郵便局に行くと、入り口から女性と楽しそうに話している西さんが出て来た。西さんは私の顔を見たけれど、また睨まれるのが嫌で俯く。足音が近づいて来るのはわかっていたが、隣にいた女性に「早く行こう」と言われ、結局は近づくことなく、一緒に歩いて行ってしまった。


(そう、だよね……彼女がいないわけないよね)


 さっきの光景に胸がずきずきと痛む。あの消防署にいるレスキュー隊の人は、皆イケメンだ。

 本をちょうだいと言った中井さんも、奥さんとお子さんがいるって聞いてる。きっと中を見て、お子さんにあげたんだろうなと思いながらも、痛む胸を圧し殺して郵便物を出し、郵便局をあとにした。

 家に帰ると、すぐに「ご飯よ」と言われて席につく。兄も二年前に結婚したから、今家にいるのは両親と私だけだった。


「いただきます」

「はい、召し上がれ。そうそう。麻衣、明日病院に行くって言っていたわよね? 一人で行ける?」

「うん、大丈夫だけど、どうしたの?」

「さっき天気予報で言ってたんだけど、明日は雨で、場所によっては風が強くなるかもしれないんですって」

「えー! それはちょっと困るなあ。あの病院は高台にあるから、雨の日はともかく、風のある日だとちょっと怖いんだよね。やっぱり、遠くてもいいからあの病院にしておけばよかったよ……」

「今更そんなこと言ってもしょうがないでしょう? 調子が悪いままにしておくと麻衣のほうが危ないし。今回は予約しちゃった高台の病院に行って、次は以前のところにしたいって先生にお願いしたら?」

「うん、そうだね、そうする」


 ニュースを見ながらそんな話を母としていると父が帰って来た。三人でやっぱり明日の天気の話をして、父には別の日にしたらと言われたけれど、結局病院に行くことにした。

 足が痛くて、我慢の限界がきていたから。

 お風呂に入ったあとにメールで仕事の依頼のチェックをし、ラフだけ書き起こしてからベッドに潜りこむ。初恋は実らないって言うけど、本当だよね……と考えたら泣けて来た。


 次の日、起きたら雨が降っていた。それに溜息をついて病院に行く支度をする。

 母には「台風みたいな感じの風が吹くみたいだから、行くの止めたら?」と言われたけど、本当に足が痛いのと義足の調子が悪いのとで行かなければならないからと家を出た。



 ――あとになってから両親の言うことを聞いておけば良かった、と後悔したけれど。



 レインコートを着て高台へと向かうバスに乗ると、みんな見知った顔ばかりが十人ほど乗っていた。病院まではバスで一時間。バスに乗っている近所のおばさんと、「なんであの病院は辺鄙なところに建てたのかねぇ」なんて愚痴っぽく話しながら、三十分ほど走った時だった。ちょうど風が吹き抜ける場所だったのか、バスが突然揺れた。


「今日はなんだか風が強いわねえ」

「そうですよね。場所によっては台風並みの強さになるかもって、起きた時に母に言われました」

「そういえば、天気予報でもそんなこと言ってたなあ」


 ゆっくり走るバスを煽るように風が吹き抜けているのか、バスの揺れがひどくなる。そんな揺れに恐怖しながら、周りにいた人たちとそんな話をした時だった。

 ブレーキの音と共にバスが傾いて、視界が回ったと思ったと同時に、浮遊感とガラスの割れる音と悲鳴がバスの中に響き渡る。

 痛いと思う間もなく視界の隅に割れたガラス窓から何人か投げ出され、あっと思った時には自分も投げ出されてしまっていた。その衝撃が身体に走った時にはゴロゴロと転がり、二度目の衝撃で私はそのまま視界を闇に落とした。


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