第2話
昔、明の需者に王陽明という人が居た。
俗間伝えられる知行合一の思想の先祖と看倣されている人である。知行合一は格物数知とも称されているが、私にはよくわからない。
知る心と行う心に二心はない、という思想だろうか。心即理は実践主義である。最近この思想を実践した人がわが国にいたそうだが、これも私にはよくわからない。
わが国で、この思想を実践した人に、熊沢蕃山、央江藤樹、佐藤一斉、大塩中斎などがいるが、私の記憶にあるのは、史書によると、天保の飢饉の救済に立ち上がり、蔵書を売って窮地を救い、兵を挙げ、敗れて焚死した大塩中斎である。
この人は英雄ではない。自ら英雄たらんとしたこともなかった人であった。ましてや自己顕示欲など全くなかった人であった。
彼の挙兵と死はまさしく無償の行為であった。
彼は大阪町奉行所の与刀として三十八歳まで勤め、その後、隠居しながら、しかし自ら歩む道に傍観者にもなれなかった男であった。
彼の焚死は、似て非なる死ではなかった。
大塩中斎が暴動を起こした原因について、諸々の史学者が憶測しているが、私が調べたかぎり、その原因は天保四年、出羽に大洪水があり、それが天保の飢饉の始まりである。
それが影響して江戸では白米が百文で四合しか買えなかった。文政の頃は百文で三升買えたのだから、大変な高騰で亜ある。
当時、大阪は、米屋が米を買占め、役人や富豪は飢饉をよそにのうのうとしているのに、賊民は二合の米さえも買えなかった。
もし平八郎が、人に貴賎の別あるのは、自然の結果だから成り行きのままに放任するが良いと個人主義的に考えたら、暴動は起きなかっただろう。
もし平八郎が、国家なり、自治団体なりに頼って、当時の秩序を維持していながら、救済的方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただろう。
森鴎外のこの判断は間違いではない。
ところが中斎は学者として留まれなかった男であった。数え年四十九歳といったら、男盛りである。
しかも家督を養子の格之進に譲り、隠居の身である。弟子に陽明学を講じておればよい身分でありながら、何故兵を挙げたか。
中斎を論じる場合、この一点を見逃してはならない。暴動の結果がどうなるかは、かつて与刀を勤めてきた身であり、自明の事であった。
最後は、塩詰めにされた屍を磔柱、獄柱、獄間台にかけられている。
彼は、米屋壊しの雄であっても、暴動の後の具体的な政策は何一つ持ち合わせていなかった。
しかし、いくつかの疑問は残る。なぜ周りのものを事件に巻き込んだのか。中斎門下生はいいとしても、挙兵後敗れて中斎父子がひそんだ油懸町の美吉屋という手拭い地の仕入れ屋の美吉屋五郎兵衛は獄間、その妻つねは死罪となった。
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