19 対称性の破れ

 わたしを消して。カガミの言葉に唖然としたのは俺だけでは無く、ハジメも呆然とその場に立ち尽くしていた。

「どうして!貴方がそんな事を望む理由は何です!望まなくとも、私は貴方を殺そうと思っていたのに!」

 理解の追い付かないハジメは頭を抱えて叫んだ。その表情は怒りや困惑ではなく、苦しみに耐えているように見えた。

 カガミは小声で斎藤に何かを伝えたかと思うと、今度は斎藤が俺に視線を送ってきた。その視線は深刻なものだったが、何か違和感を覚える。何だ、何か企んでいるのか。俺が考えを巡らせる間もなく、斎藤はカガミの乗った車椅子を押して、ゆっくりとハジメに近づいて行く。

 近づくにつれて、カガミとハジメの身体が淡い光を帯び始める。人間の体が発光するなんて状態は見た事が無かったが、直感的に悟った。対消滅が起ころうとしているのだと。

 「やめろ斎藤!それ以上近づくな!」

 「黙って見てろ!」

 咄嗟に止めようとした俺の言葉を、斎藤は強く否定した。普段の斎藤の軽い態度からは想像もつかないくらい重く深刻な表情だ。しかし、やはり斎藤が寄越す視線には含みがある。何だ、俺に如何しろという。

 ハジメも「来るなっ」と叫んでいるが、自ら遠ざかることはしない。動かないのではなく動けないという表現が正しいだろうか。ハジメの身体は小さく震え、光を放つ自分の身体に恐怖している様だった。そして、カガミはハジメに触れられる程の距離にまで近づく。光は一層その強さを増した。

 カガミがハジメの手を取り、そして自分の首へ誘導した。そうしてもう一度呟いた。

「わたしを、消して」

 カガミの表情は矢張り柔らかかったが、その頬には涙が伝っていた。

 「早くしないと、このまま二人とも消えて仕舞う。だから、早く」

 カガミが、自分の首を絞めるようにハジメに促す。ハジメは呆然自失の状態だが、徐々にその手に力を込めた。今のハジメの身体能力なら、カガミの細い首は簡単に折れてしまうだろう。俺は此の儘、事の顛末を見届ける事しか出来ないのか。姉妹が殺し合う様を、ただ見ていろと言うのか。

 違う。俺には伝えるべき事が在った筈だ。俺がこの研究施設に辿り着くまでに考えていた何の確証もない仮定。いや、仮定とすら呼べない都合の良い妄想かもしれない。でも今は他に何も思い浮かばない。

「やめろ!その手を放せ!」

 言葉を発すると同時に、俺はハジメを止めようと走り出していた。その距離数メートル。俺の力でハジメに勝てる見込みは無いが、それでも止めなければならないと思った。しかし、ハジメの手に掴みかかろうとしたその瞬間、ザッという鈍い音と共に右肩に激痛が走った。

 斎藤がナイフで俺の肩を刺していた。

「斎藤さん!カゲリ!!」

 カガミが泣きながら取り乱す。俺の血を顔面に浴びたハジメは一瞬怯み、カガミから手を放し、一歩後ずさりし、放心状態でその場にしゃがみ込む。

「一ノ瀬!黙って見ていろと言った筈だ!」

「斎藤、お前・・・!」

 正直、痛みも相まって斎藤が何故俺を刺したのか理解が追い付かない。こいつはカガミとハジメの対消滅を止めたく無い側の人間なのか。

 「痛てぇな畜生!こんな事したってな、対消滅なんて起きねぇぞ!今のハジメとカガミは反物質じゃない!別々の人間だ!」

 そう、これが俺の立てた仮説だった。カガミとハジメはもうずっと前に魂が分化して別の人間に成っていた筈だ。だから出会っても対消滅なんかしない。少なくとも二人の人格が消えて無くなる事は無い。もし二人が出会って何かが起きるとすれば、それは。

 「何だと?じゃあ今この二人に起きてる反応は何だ。二人の身体の発光は如何説明する」

 斎藤が冷静な声で言う。人を刺しておいて何て奴だ。

 「ハァ・・ハァ・・いいか、斎藤。ハジメとカガミは以前施設が機材メンテナンスで計測を停止した間に分化して、完全に別の人格を手に入れたんだ。計測が行われていない間、第三者がし、その結果、二人の見ている世界に微妙な差を与えた・・ハァ・・・その差は僅かであっても、見る世界が異なる人間は別の人間だ。それを切っ掛けとして、ハジメは最初の覚醒を果たした」

 其れがハジメの初覚醒。そしてそのまま、誰にも気づかれないまま、計測が再開される前にハジメは再び眠りについた。

 「そんな事を出来る第三者なんて居ない。此処に来られるのは施設関係者でも道源先生に近い一部の人間だけだ。俺はその限られた人間の動向を把握していたが、その日この施設に居た人間は居ない」

 話は簡単だ。施設には入れる人間で斎藤が把握していない奴がいる。

 「俺だよ」

 「何だと?」

 斎藤が戸惑いの声で聞き返してくる。

 「そんな、私を目覚めさせたのは・・・」

 放心していたハジメが声を発する。そうだ、記憶を失う前の俺はハジメに会っている筈なのだ。

 「俺だ」

 記憶が戻ったわけではないが俺は断言する。

 「その時に俺はお前に言った筈だ“お前はお前だ、気にせず出て来い”と」

 自分の考えをトレースする。記憶がなくとも俺だったらそういう言葉を投げたのではないか。

 「あぁ・・うぁああああ!!」

 ハジメが絶叫する。カガミとハジメの発光が輝きを増したように見えたが、俺の意識は肩の出血で限界を迎えた。

 俺の目の前は真っ白に暗転した。

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